マタイによる福音書9章18-26節、詩編91篇1-2節「神様を信頼するとは?」

24/4/21復活節第四主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書9章18-26節、詩編91篇1-2節

「神様を信頼するとは?」

この御言葉を読みながら、木曜に出席した芸西教会の姉妹のお葬儀を思い出していました。98歳でしたので、まあ、少女ではないですけれど、よくある教会アルアルで、もう本当に少女のようなお顔で、イエス様に起こしてもらう日を待ちながら、眠っておられました。眠りにつかれる二晩前、夜中、同じ部屋で寝ていた息子さん娘さんに、寝言だったのか、急に、○○ちゃん、ありがとうと言われたそうです。息子さんが、母のように感謝して最期を迎えたいと、涙ながらに挨拶されていました。

イエス様を信頼する。その信仰は色んな形をとります。自分の死んだ先のことも裁きもイエス様に信頼して安心して死を迎えられる信頼の形。あるいは今日の御言葉のように切羽詰まった状況で、娘の父親が「でも」と、人間ではどうしても勝てない死に、でも!「人の子」(9:6)なら、人となられた神様なら!打ち勝つことがおできになる、神様なら!と、聖書が約束してきた神様を、神様として信頼する信頼の形。

また、もう一人登場する12年間女性の出血が止まらない病で、当時、感染症の知識も衛生基準も今とは違う時代には、人に触れること、接触することが禁じられていた女性の信頼の形。これもやはり切羽詰まった状況で、いわゆる人間の考える正しさ、常識で言えば、いや、触ったらいかんと言われちゅうろうと、人から責められそうな、あるいは神様も責めるに決まっちゅうじゃかと神様を誤解して思いがちな状況で、でも、神様への信頼のほうが、誤解や常識に勝って、イエス様からこう言ってさえいただいたのです「あなたの信頼があなたを救った」。

「救った」「救われる」という言葉も誤解しやすい言葉でしょう。天国に行けることと超単純化されることもあります。また、では何が理由で、行けると思いますかと問われたら、生前に行った善と悪を載せる天秤のイメージが出てきて、ではそのイメージが出る理由は?と問われたら、自分の正しさが不安になって、追い詰めないでと思うような曖昧な誤解。結構ある。少し前までのコロナへの対応の仕方も、自分はこれが正しいと思うちゅうやり方のエビデンス、信頼できる理由は何かと問われたら、自分の正しさが不安になって嫌な気分にもなって、関係が悪くなるから、言わないという大変日本的なやり方。それも一つの知恵でしょう。でも、命がかかった!どうしても言わないかんという、切羽詰まった状況では、例えば医者が自分の命をかけて、これがこの人を救うという行動を選ぶ。それで今は関係が悪くなっても、これがこの人を救うという、医者自身の存在と命をかけた状況が、この時だ!と、イエス様は笛を吹いている当時のお葬儀屋さんや集まって来た大勢の人々に「少女は眠っているのだ」と言われるのです。わたしは人の死も罪も完全に背負って代わりに償って死んで救いに来た人の子だから、そのわたしにとって正しいのは、この子の手を握りしめ、わたし自身の命を捨ててでも、死から起こして、その代わりこの子の罪も死も奪い取るようにして十字架に向かうことだ。これがわたしにとって、そしてわたしに背負われた世界の救いにとって、死ぬほど義しいことだからと、まだそれがわからない人々のあざ笑いを背にしてでも、少女を死から起こされるのです。

その一部始終を見ておった父親の気持ちに、皆さん、少しなっていただけますでしょうか。「少女は眠っているのだ」と言われたのを聴いて、泣きそうになったんじゃないかと思います。周りの人たちは「あざ笑う」直訳は「上から笑う」です。上から見下して。それは、イエス様に信頼していた父親をも上から笑うことになるとは気づいてなかったかもしれませんが、父親はどんな気持ちだったでしょう。自分の信頼の正しさが上から笑われるのを恥ずかしく感じたかもしれません。でも自分よりも娘が大事だから!自分を捨ててイエス様のもとに行ったんじゃないか。自分なんかより娘だと。そしてイエス様と家に入って、娘を見る。先にイエス様にお願いした通りに、手を娘の上に置いてくれるかと思ったら、イエス様、娘の手を握りしめるのです。いや、言うた通りにしてと不快に思ったでしょうか。ん?違うと思ったとしても、信頼が勝ったのではないでしょうか。自分ではどうしても娘の死に勝てないから、イエス様を信頼したのです。おそらく前に、重い皮膚病の人にイエス様が触れて癒された話を聴いて、それがイエス様のやり方だというイメージが焼き付いたまま、だから娘にも手を置いて、と言わば多少誤解して願ったのかもしれません。が、そんな自分の誤解など、どうじゃちかまんのです。自分の正しさらあ、命が救われる義しさに比べたらどうでもえい。本当にそうだと、父親は救いの力を自分の目で見て、確信したと思うのです。

信頼が救うとは、死からも罪からも、また神様を誤解する自分自分のこだわりからも救われて、神様に信頼して生きるようになる、死んでも生きるようになる救いです。誤解はしつこいし、自分自分もしつこい。でもイエス様は直訳で「勇気を持って」と励まして下さいます。勇気をもって、赦しと愛と復活の神様を信頼して良い。救いはそこにあります。