5/24 のうれしい教会

今日はおとなりのミッションスクール、清和学園の生徒さんがたくさん教会に集まりました❗

子どもたちの声が教会に響くことは本当にうれしいことです。

来週は聖霊降臨日:ペンテコステ礼拝⭐おとなも子どもも、皆さんお待ちしています。

高知東の現役オルガンです。(YAMAHA)

年齢不詳ですが今も礼拝で大活躍の足踏みオルガンです。

5/17 高知東の礼拝

高知東教会では、座席の間隔を開けて、お互い隣に座らないようにしながら、礼拝を守っています。

説教壇のうしろから外の光が差し込むところが私は好きです。

今日は久しぶりに晴れ間のある日曜日でした。すこし蒸し暑いくらいでしたね。

教会の暦では、今週木曜日は、イエス・キリストの昇天の記念日です。昇天の主から注がれる御霊の恵みによって、高知東教会も建っています。

今週も主に守られて、御言葉にいかされる平安がありますように🍀

14/9/7朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章23-24節、エレミヤ書31章31-34節 「この愛は死なない」

14/9/7朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章23-24節、エレミヤ書31章31-34節

「この愛は死なない」

 

いよいよ2年3カ月聴き続けてまいりましたエフェソの信徒への手紙の説き明かしが終わります。その最後は祝福の挨拶、祝祷です。ですので、この説き明かしも挨拶になるのが相応しいでしょうか。としたら、どういう挨拶になるか。考えました。もしかすると、これが皆さんとの最後になるかもしれません。いつもその可能性はあるのです。その覚悟もあったほうが、心を込めた言葉を語り、心を込めて共に生きることもできるでしょう。ではそこで心を込めるとは、何を込めるのか。自分をでしょう。自分として、これだけはこの人に願いたい、この人に持って欲しい、この人に託したいという自分の命、心を、込める。

おそらく込めない挨拶を、社交辞令、外交辞令と呼ぶのです。もとはどういう挨拶をするのが相応しいかわからない人に、例えば、お変わりございませんかとか、素敵なお召しですねとか教えるための挨拶例文が社交辞令だったのが、いつの間にか心を込めない口先だけの挨拶という意味になったのでしょう。何で心を込めないか。楽だから、自分を相手に関わらせなくて済むからだと思います。ちょっと挨拶して、関わりを最小にする後ろめたさを感じることはないでしょうか。その時に、でも本当はどういう関わりを持てばよいのか。時間の制限があって尚、相手の幸せを願って短い時間でも心を尽くすにはどうすればよいか。そこで神様の前に心から祈れる言葉を探したらどうでしょう。私は仕事連絡で電子メールを使う時、仕事ですから用件のみ取り急ぎ失礼しますと書く社交辞令をしばらく使っていました。が少し前にやめました。本気でこの人にこの事を願うという祈りを一文記して、その場で祈ることにしました。牧師相手が多いので、よくこう記します。収穫の主の祝福を祈ります。イエス様が、収穫は多いが働き人が少ないから、働き人を送って下さるよう、収穫の主に願いなさいとおっしゃった。その願いを切実に思うので、いつも本気で記し祈ります。社交辞令ではない祈りを祈ります。癒しについても。祈りは本気です。本気というのは、そこに自分がいるのです。口だけじゃない自分を、苦労してでも関わらせるのです。あるいはだから、祈るのは大変なのです。

私が皆さんにそうした本気の挨拶をここでするとしたら何になるか。色々思い浮かびましたが、今日の御言葉に導かれて思いました。これがなるなら死んでもよいと思える挨拶はこれです。平和と、信仰を伴う愛が父なる神様と主イエス・キリストから皆さんにありますように。恵みが、変わらぬ愛をもって私たちの主イエス・キリストを愛する全ての人と共にあるように。確かにこれに尽きると思います。

平和と恵みがあるようにという挨拶は、実は手紙の冒頭2節での祝福と同じです。神様との平和があるように。罪を責められる関係が十字架で廃棄され、父との完全な平和、和らぎ、安心の関係が、恵みによってここに現実化し、また隣人とも互いに平和であるようにと願う。それは今ここに救いが体験されて生きられるようにとの祝福の願いです。

その平和と恵みの祝祷に、愛が加わるのです。しかも、信仰を伴う愛がです。平和も恵みも、社交辞令になりやすいからでしょうか。中身を伴わない口先の平和にならんよう、愛を。またそれが自分自分の愛にならんよう、それがキリストの愛になるよう信仰を本気で願う挨拶です。教会の現実が見えてきます。その教会を支える神様の恵みに、パウロが自分の全存在をかけて、本気で関わっておったのが見えるようです。

兄弟姉妹にパウロが本気で愛を願った。愛があるように。それは私の人生の具体的な場面が映し出されるような、具体的願いでもあります。皆それぞれにあると思います。私に浮かぶ場面は、結婚する時、自分は愛のない人間だから、主がそれを忘れんように、愛という名の人を与えられたのだと、私は本気で思いました。今も、あ、いかん、俺には愛があると勘違いしちょった、自己満足しちょったと頭を殴られる時があります。妻が手をくだすのじゃないですが(笑)、すぐ忘れるのです。何故平和が壊れているか。愛がないからだ。何故愛がないか。自分でできると、自分でやってみせると、自分を信じているからだと。キリストの愛を信じて頭を垂れて満足する心の貧しい者でなくなっているからだと。しかもそこで自分がそうでないことに嫌になって、ふて腐れたり、人を責めたりして、愛のない自分に閉じこもってしまいそうになる。

だから、この挨拶を、いや挨拶の形をとった神様の祝福の宣言をするのです。平和と恵みがあなたにある。あるから、それがなるようにと。自分では愛せない愛のない者が、それでも愛に生きられるよう、神様が永遠の愛を携え降られ、あなたはこの愛によって生きればよいと、釘で穿たれた赦しの御腕に私たちを抱きかかえ、赦しに入れてくださった。そして、この赦しの中にいつも立ちなさい、ここから離れたら倒れてしまうから、十字架の赦しに常に立ちなさいと、キリストを信じる信仰を伴う愛によって、赦しの愛に立てる救いへと、抱え召し入れて下さったのです。そしてそのことを、恵みと言うのだと、恵みが、あなたには常にあるのだと、神様は、わたしはあなたと共に在る神だと、祝福の宣言をくださった。それがこの祝福の挨拶、祝祷です。

だからこの愛は死にません。24節で変わらぬ愛と訳された愛、それは死なない愛、不死の愛と訳したほうが良い言葉でして、あるいは死んだように見える時だってあるのです。もしこれが、人間の愛のみであるなら死ぬでしょう。死ぬばかりか、すぐに変わるのが人間の愛だから宝石のCMでダイヤモンドは永遠の輝きとかって、炭素の塊で燃えてなくなる儚い物質を永遠と呼んだりもするのでしょう。想い出の中だけの永遠でしょうか。キリストもそういう偉い愛の人だと思われているのは、愛を本気で信じてないからでしょう。人間の愛なら、そうでしょう。けれど唯一死なない愛がある。その愛の不滅を信じられるから、私たちの愛が死にそうな時にも、死んでしまったと思っても尚、あきらめないで信じることのできる、すがりつくことのできる愛がある。愛なき人間を抱きかかえ全ての罪を償って死なれ、三日目に私たちを背負って立ち上がられた主イエス・キリストの死なない愛があるのです。そしてこの愛を主は、これはあなたがわたしと共に、恵みに立ち上がって愛する愛だと。愛は一方通行にはならんきと。わたしはあなたを永遠に愛し、あなたをわたしに結びつけ、あなたを捕え、だからあなたも、わたしを愛し、わたしの愛する者たちのために、自分を捨てて愛して生きる。わたしたちが共に愛する、そうだろうと、罪なき永遠の神の御子が、我らの罪を赦し給えと一つになって祈られたのです。人を自己責任にして見殺さない神様の愛で、主が私たちをご自身に結びつけられたから、だからこの愛は死にません。そしてこの愛を信じる教会の愛は、死んでいるようで、見よ、生きるのです。キリストを愛する愛が自分由来であるなら死にます。自分を信じているからです。しかし、キリストを信じる信仰を伴う愛、キリストの名を呼び、その愛にすがり、私も御心に生きたいのですと、神様を求めて信じる愛は、虚しい燃えカスにはなりません。主がこの愛の創始者であり、必ずゴールへと至らせて下さるからです。

ですから教会はあきらめません。世の中の事ならあきらめますけど、この愛だけはあきらめません。愛が死んだように見えて尚、いや、このままでは死にきれんと、キリストよ、憐れみ、愛をください!と、その名を愛と呼ばれる方の愛を信じて祈るのです。御前に捧げる私を聖め、家族隣人をお救い下さいと主の愛をこそ祈るのです。そして、この愛がなるなら死んでも良いねと、教会は今日も平和の挨拶を交わすのです。

14/8/31朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章21-22節、ヨシュア記22章10-14節 「愛のホウ・レン・ソウ」

14/8/31朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章21-22節、ヨシュア記22章10-14節

「愛のホウ・レン・ソウ」

 

変な説教題だと思われたかもしれません。これは報告・連絡・相談を短くまとめた、職場で用いる専門用語でして、バブルがはじけた80年代後半に巷を席巻したビジネス用語なんだそうです。背景を簡潔に言うと当時の職場で上司や部下のコミュニケーションがうまくいかないという問題が浮上した。私の一回り上の世代で新人類と呼ばれた先輩方が社会に登場した時代です。そうそう、と懐かしく思われる方々もおられるでしょうか。職場はチームで仕事しているのだから、報告・連絡・相談をするようにという言わば当然の話かもしれません。が、それ以来ずっと日本の職場の常識となっているのですから、当時の新人類の先輩方も、その後発見された新新人類とか新新新…とかに、ずっと手を焼きゆうということでしょうか(笑)。どうしたら意思の疎通ができるかと。

教会でも同じ問題は起こり得ます。ただそれは近年だけの問題ではなく、先に読みました旧約聖書のヨシュアの時代でもそうなのですから、コミュニケーションの問題は人間が生まれてこのかた、信仰者の間でもずっと起こり続けた。ヨシュア記の詳しい説き明かしをする暇はありませんが、要するに、何で律法で禁じられている別の祭壇をつくったか、連絡も相談もせんかった。残りのイスラエルの人々が、それをどう思うかを考えないで、自分たちのことだけ考えてやった。その結果、あわや流血の事態になりかねんかったという問題です。

いずれの問題も、突き詰めて考えると、隣人を自分のように愛さない問題から生じる問題のように思われます。人の気持ちがわからない。あるいは、わかろうとしない。心を通じ合わせるのがおっくうな、言わばコミュニケーション極道の自分の心に、手を焼いてない人が、果たして一人でもおるんでしょうか。でも心を通じ合わせたいと、本当は誰もが願っていると思います。愛を求めない人などおらんのです。

その愛のコミュニケーションのあるなしが、教会の文字通り生命線であると知っておった使徒パウロは、この御言葉において、私が今どんな状態か、何をしているか、知って欲しいと、彼の右腕であったティキコを遣わします。当時、監禁されていたパウロにとって、しかし彼が取り得る最善のコミュニケーションの努力をします。まことにパウロらしい牧会者としてのハートが伝わってくる御言葉です。単に正しい教えとか生き方だけを知っておればよいとは言わんのです。信仰があればよいとも言いません。それは次の23節で、信仰を伴う愛が、父である神様と主イエス・キリストから、兄弟姉妹たちにあるようにと、祝福を祈る通りです。愛があるように。それはまた来週説き明かしますが、この世に、キリストの体として立てられた教会に、愛の通わない部分があったら、具体的なコミュニケーションが断たれていたら、それではキリストの愛がコミュニケートされんから、世にキリストが伝わらないから、教会に愛があるようにと祈る。聖書には正しい教えの部分と多少の個人的話が載っているというのではありません。キリストを証しする福音の正しさが、教会で具体的に現れたら、こうなるというのがこの御言葉です。愛のコミュニケーションにベストを尽くす。どうしたら愛が伝わるか、私はあなたを大切に思っているという愛がコミュニケートされるか、最善を尽くす努力をする。これを正しい教えに留めないことが、教会形成、また教会成長の急所です。自ら最善を尽くす。そして愛を祈る。そうして隣人に仕えることで、教会は成長していきます。教会にお仕えしたいけど、どうしたら良いかと悩まれる方は、どうぞ兄弟姉妹とのコミュニケーションを大切にしてください。信仰を伴う愛が、そこに与えられるように祈りつつ、自分がどういう様子でいるか、また何をしているか、知って頂けるようなコミュニケーションをお取り下さい。それを証しと呼んでもよいでしょう。何かすごいことがなくてもよいのです。そうやって兄弟姉妹でコミュニケーションをとること自体が、キリストの愛の証しだからです。

また、この愛のコミュニケーションは、個人と個人の間だけでなく、個人の個に教会と書いて個教会と言いますが、一個の個教会、例えば、高知東教会の個教会の内部だけでコミュニケーションが取れておったら良いという問題でもありません。前の頁で、すべての聖なる者たちのため祈りなさいと、全てのキリスト者、キリストの教会全体のために祈りなさいと命じられておったように、キリストの愛のコミュニケーションは、個教会だけでなく全体教会、個でなく全体のために祈られ求められている愛の具体的証でもあります。高知東教会固有の課題問題だけに、じゃあ互いにきちんと報連相やってってなると、キリストの体として、いびつな部分に変形します。主の御体を、そうせんように、との御言葉が、ずっと語られてきたのが、この手紙です。およそ二年半エフェソの信徒への手紙から御言葉を聴き続けたのは、健やかなキリストの体として教会を建て上げていくためでもありました。教会がキリストの体であるとは、どういうことか。私たちは、ではどんな教会生活をし、教会に仕えればよいのか。無論まだ学び得ることは幾らでもあるでしょうが、必要なのは、その実践です。信仰を伴う愛のコミュニケーションを兄弟姉妹個人個人で、また個教会同士で、全体教会で重ね合い、祈り合い、ともにキリストの愛を証し、伝え、コミュニケートしていく。

その具体的なコミュニケーションとして、今回は日本基督教団として約半世紀ぶりの青年大会、教会中高生・青年大会2014の報告をすることも具体的実践として相応しいでしょう。371名の全体参加で、目標人数よりは少なかったですけど、蓋を開けて見たら、中高青年、男女という区切りで部屋を割ったら、もうこれ以上宿泊する部屋がない丁度の人数でした。実行委員会は立てた目標が傲慢だったと悔い改めました。が、改めて、この大会が神様の御業であったと、御名を褒めました。神様が丁度与えて下さるというのは、モーセに率いられ、奴隷の家エジプトを出たイスラエルの民が、神様から与えられ続けたマナを思わせました。荒野の40年の間も与えられ続けたマナを、神様が今回与えて下さった。教団も荒野の40年を経て、いよいよ新しいヨシュアの世代が到来することを今回強く思わされました。大会参加者だけでなく、この時代の若者たちを、神様が起こしてくださいます。イエス様の恵みを受け、洗礼を受け、更には牧師として召された若者たちを、神様が起こされる時代の到来を、私たちはこれから目の当たりにするでしょう。その新しい世代に、私たちは教会の何たるかを、コミュニケーションする務めを託されています。私たちがその生きた道標です。失敗も含めて、弱さも見てもらって、それでもキリストの恵みが私たちを立たせて下さって、恵みを示す道標として、私たちは、あなたがたのために立っているのですと、新しい世代のためにお仕えさせて頂ける。この召しを、キリストの愛の証人として今、この時代に、キリストの恵みをコミュニケーションする召命を私たちが受けていることを、改めて主の御前に立って、襟を正して、共に覚えたい。愛する隣人たちに、教会も個人主義でかまんがやと決して思われないように、十字架を負われたキリストに頼り信頼して、よろしくお願いいたしますと、主に依り頼み歩んでいきたい。

先に報連相という言葉を用いたのは、教会は個人を大切にするけど、それは個人主義とは異なって、愛のコミュニケーションを生命線とするということを言いたかったのです。が、ひょっと勘違いされるおそれもあるのです。個人主義が左の対極なら、右の対極は全体主義、あるいはファシズムです。今の日本はその両極で降り幅がカチカチ狭まる振り子状態にあるように思えますが、報連相システムをファシズムだと考える人も少なくないようですので、敢えて付け加えます。もし、そこに愛がないなら、そうなるでしょう。隣人を思うコミュニケーションでなく、面倒臭い業務になったり、あるいは教会での例えば月間予定や、週報の週間予定、諸報告で連絡・報告される教会の働きが、自分とは関係ないことになるのなら、またそのことに対して牧師と長老が、それを個々人の自己責任にして済ますなら、教会に導入された報連相はファシズムと本質的に変わりません。コリントの信徒への手紙一13章で、愛がなければ無意味だと言うのは、その通りだからです。むしろ、その前で語られる教会の姿は、体の一部が苦しめば全体が苦しむキリストの体、教会の愛の姿です。何故、報告するのか。祈ってもらうためでしょう。一緒に喜び、泣くためでしょう。連絡するのはチームだからです。祈っている兄弟姉妹がいるからです。信頼があるから相談できますし、また自分を信用できんから、傲慢にならんよう相談するのです。先の青年大会でも私にプログラム変更を相談してくれたスタッフがいました。なのに私はそれを一緒に本部で運営をしていた別のスタッフに相談せぬまま、それでいいんじゃないのと自らの浅はかさを省みず勝手にゴーを出して、後で、うんと迷惑をかけることになりました。何で私は相談せんかったろうか。傲慢だったからだと気付かされました。色々惨めな思いをしましたが、改めて主から教えられました。ほら、幸生、だからあなたのために祈ってくれている人がこんなにもいる。あなたには兄弟姉妹が必要だと。不安と失敗に囲まれて走り回った青年大会の三日間が終わり、ああ終わったと思ったとき、その私を圧倒的に囲んでいたのが教会の祈りであったことを、東京品川駅のスタバでコーヒー飲みながら思って、涙が出てきました。だから私は大丈夫だと。私は傲慢で惨めな罪人だけど、恵みによって変わることができると。キリストのお姿に似た者に聖霊様によって造り変えられて、こんな私も愛の人になれるのだと、コーヒー飲めんなるぐらい思わされて、主を讃えました。そして、この恵みは、報告せないかんなと。

コミュニケーションは業務ではありません。敢えて言うなら愛の義務です。義なる務めと書いて義務ですし、そもそも義とは愛の正義です。その名を愛と呼ばれる方の子供たち、神の家族に与えられている十戒の根底にある愛の正義です。その愛を証しして共に生きる家族。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くことのできる家族を、神様がお望みです。その呼びかけに、あなたと私が、共に招かれて歩むのです。

14/8/17朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章20節、イザヤ書40章1-11節 「自由をくれる愛の勇気」

14/8/17朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章20節、イザヤ書40章1-11節

「自由をくれる愛の勇気」

 

この手紙を書いていた時、キリストの使徒パウロは鎖に繋がれておりました。ので、ひょっと手紙を書きながらも、鎖がジャラジャラと音をたてておったかもしれません。先週も申しましたが、おそらく一軒家に住んではおりましたが4時間毎に交代するローマ兵と手錠に繋がれて、ずっと監禁されている。その状態でパウロは自らをこう呼びます。私は福音の使者、大使として鎖に繋がれているのですと。大使というのは、辞書を引きましたら、特命全権大使と正式には言うそうです。遣わされた外国において、母国の全権を委ねられて働くという特命を与えられている人。ですから、一々これはどうしましょう、あれはどうしたらえいですか?と尋ねずに、あなたになら、その判断を任せられると、全権を託されている。自由な裁量で即座に判断を下して、責任ある行動と発言ができる。そんな務めは、誰にでも託せるものではないでしょう。ですので、ここで使者と訳された言葉は、もともと歳を重ねて経験を積んだ長老のことを指す言葉なんだそうです。その経験から、よし、ここではこういう発言をすべきだ、ここではこうした発言や行動は控えるべきだと、わきまえているので、国の代表として全権を委ねて、遣わすことができるということでしょう。

その意味での大使というのは、なるほど誰にでもできる役割ではないと思います。あるいは俺にならできる!という人にはやらせんのが賢い選択かもしれません。なら、誰に託すか。しかも福音の大使、イエス・キリストの救いの福音を証する神の国の大使です!だから誰に託すかという選択権は全部、神様にあります。神様に選ばれ、キリストから、あなたがそうだと任じられたら、その人が大使です。歳を重ねていようがいまいが、経験を積んでいようが浅かろうが、あなたはわたしの証人となる、あなたは世の光、地の塩だと、イエス様から委託された人々が、キリストの福音の大使です。おわかりでしょう。信仰告白の言葉で言えば、それが選ばれるということでもあります。「神は恵みをもって私たちを選び…この変わらない恵みのうちで、聖霊は私たちを潔めて義の実を結ばせ、その働きを完成されます。」その働き、聖霊様による恵みの働きの最たるものが伝道です。いや伝道に結びつかん働きはないでしょう。キリストの体の一肢として、キリストの体の実を結ぶのですから、救いと関係ない働きはない。別の手紙、コリントの手紙一の9章23節でこう言う通りです。私は全てのことを福音のためにしています。新共同訳はどんなことでもしますと訳しましたが、同じことです。どんなことでもしますけど、いや~うちのかみさんはちょっと(笑)というのはなし。全てが福音の証のためになされる生活。そのためには、どういう態度で生きればよいか。どう具体的な生活を営めばよいか。時間の使い方、心の使い方、お金の使い方、私の人生の使い方、主よ、あなたの福音のためにお捧げします、聖めて御用のためにお使い下さいと、キリストから託された福音の特命全権大使として生きて行く。そこに御国は来ます。主の祈りを祈る具体的な生活が、そこで義の実を結ぶのです。

私のところにも来た、という証をします。励まされる証をするつもりです。私に福音を伝えてくれた人は、え?お前がクリスチャン?という感じの若者で、たぶん毎週の礼拝も捧げられてなかったと思いますが、私に神様の愛の話をし、聖書読もうと誘ってくれ、私が聖書もらって持っていると言ったら、それは神様の導きだと超嬉しそうに言うもんで、私も、そうかもしれん(笑)と。そこだけ聴くと新興宗教みたいと思われてもいけませんが、何を言いたいかと言うと、彼は自分が福音の大使であるという自覚を持って、神様にそのことを祈っておったということです。自分を福音の大使として捧げ切れておったかと問うならば、私も同じことを神様から問われるでしょう。幸生、あなたは自分を捧げ切っているのかと。大事なのは信仰告白で「この変わらない恵みの内で」と信じて告白するように、捧げ切れない弱い私を、神様が!恵みによって用いて下さり、義の実を結ばせて下さる!と、キリストの恵みに自らを託すことです。自分ができるできんに囚われるのではなくて、こんなにキリスト者らしくない私を、キリストが捕えて下さって恵みによって用いて下さるから、だから捧げますと、自分を、宝を、時間を、全てをキリストにお捧げすれば良いのです。それが献身です。その恵みの献身者に、キリストは福音を託して下さいます。その人にしか託せません。恵みに生きる人が、キリストの福音の大使です。その大使の一人が私のもとにも、ある日恵みによって遣わされて来た。その献身が、私の人生と、永遠を変えたのです。

キリストの恵みに捕えられた僕が、他の人をキリストの恵みのうちに捕えるために用いられます。ここで恵みの使徒パウロが、私は鎖に繋がれていますがと言うておりますのを、ある聖書学者はこう言いました。パウロが福音の大使として鎖に繋がれ、その鎖のもう一方にローマ兵が繋がれているのをイメージして欲しい。さて、どっちの人のほうが自由だろうか。パウロじゃないかと言うのです。ひょっとキリスト者は逆に思われてしまうことがあります。キリストを信じたら束縛されてしまうんじゃないか、不自由になるんじゃないかと。もし仕事でクリスチャンやりゆうなら、そうかもしれません。おおの、日曜や、出勤せな(笑)。ブルーサンデー(笑)。そう思われているんでしょうか。あれもできん、これも…、それ、本当にしたいんでしょうか。鎖に繋がれているんじゃないでしょうか。恵みの福音の大使はそこで、確かに鎖が重く大変で、まるでそれに支配されているように見える毎日の只中で、けれど恵みをわきまえているのです。先に、大使というのは歳を重ねて経験を積んだ長老を指して言うと申しましたが、若くても恵みをわきまえている者は恵みの長老、恵みの大使です。キリストが、こんな私を恵みによって、救いに捕えて下さった。赦され、受け入れられ、愛され、共に歩まれ、それ全部、私の努力次第じゃなくて、私の自己責任ではなくて、自分がダメやったらもう全部ダメじゃなくて、全部キリストの恵みながや!とキリストの名を讃える恵みの長老は、苦しみの中で尚、主よ!と御名を呼んで、キリストと共に歩んで行こうとする自由を与えられています。不甲斐ない毎日かもしれません。キリスト者として証ができてないと、家族を導くこともできないと思うかもしれない只中で、なおキリスト者としてキリストの名を呼んで祈ることをやめんのです。自分で選んでやっているんだったら、やめるでしょう。そうでないなら、選ばれているから、恵みによってキリストに結ばれて、どう?ついてくる?ついてこん?自分で選びや、とは言われずに、わたしについてきなさい!と恵みによって招かれているから、恵みの道を歩めるのです。歩んでいること自体、恵みでしょう。違うでしょうか。独り子を死に渡してまでも、あなたを救うと愛のご決断された神様の恵みの選びに捕えられ、イエス様よろしくお願いしますと、あきらめないで、祈り、歩んで、主の日には共に恵みの礼拝をお捧げする。その人は福音の大使です。

そして福音の大使は、大胆に証できるよう、語るべきことを、大胆に語れるように、祈ってもらう必要があります。改めてですが、だから、18節には全ての聖徒たち、全てのキリスト者たちのために祈りなさいと命じられていました。世界の地の果てに至るまで、福音の大胆な大使で満ちるためです。私たちが遣わされて行く、その所その所が、地の果てです。キリストは、そこであなたがたは、わたしの証人となると約束をしてくださいました。なる!それが恵みの福音の大使の条件です。

ならそこで大胆に福音を証して、語るべきことを語るって、どういうことか。大きな声でガンガン攻めの態度で人の気持ちを配慮しないで…というのは土佐人のガイな大胆さかもしれませんが、福音の大胆さではないので、もし私がそうやって語っておったら、憐れんで祈ってあげてください(笑)。もともとの言葉は、まるで自分の家で気兼ねなく自由に何でも語り合えるように、自由に語れるという意味です。無論、家でも家族や訪ねてきた人への愛の配慮は求められますから、罪を犯す自由ではない。むしろ愛がその場を支配するが故に自由に語れるということでしょう。言い換えれば、この人に救いを、キリストの愛を知って欲しいと愛故に思うときには、相手のことを考えながら、心と思いと知性を尽くして、配慮して、具体的な愛をもって語るでしょう。そして、それは説教で聴いた例話とかを語ることもあるかもしれませんが、それは自分の言葉になるのです。説教でも、これだ!と自分事として響いたことが心に残りますから、それを語る時には、内容は同じでも、自分の言葉になっています。あるいは自分の経験を証しながら、自分事になっていることを、けれど言葉としてはどう紡ごうかと考えつつ、とつとつと語るということもあると思います。もう先々週になりますが、岩住神学生が説教されたとき、最後にロマ書の「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」という御言葉を、自分自身のこととして、自分がどうこの御言葉に向き合っているか重ねながら語られるのを聴いて、私はオッと思いました。神学生のプレッシャーにならんよう目を閉じて聴いておったのですが、目を開けてしまうほど、語りに心がこもるのを感じて、神学生の顔を見たら、原稿を見ないで目を閉じて一生懸命に語っておりました。神学生で初めて実習に来て、目を閉じて説教するというのは、ものすごく勇気がいると思います。つっかえたらどうしようとか、途中でわからんなったらどうしようとか、彼もきっと考えておったに違いないのに、目を閉じて、自由に、彼が自分事としてわきまえている、主に遣わされる恵みを、大胆に語っておったのを見て、心が共鳴しました。つっかえつっかえで、たどたどしい言葉でしたが、そこには本物の言葉があったと思います。自分を救い、今も自分を造り変えて下さっているキリストの恵みに言葉を委ね、自分を委ね、つっかえつっかえで、たどたどしくてよい、大胆に、私の救い主の恵みを語りたい!皆にキリストの恵みを伝えたい!その愛が福音を届けるのです。後は神様が御業をなさると、恵みを信じて、主の愛を信じて、その愛の大使になるのです。

14/8/10朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章19節、イザヤ書55章 「命に届くメッセージを」

14/8/10朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章19節、イザヤ書55章

「命に届くメッセージを」

 

今、皆さんに祈って頂いて、ここに立っていますことを改めて思い、福音の神秘を説き明かさせて頂きます。大胆に語らせて頂きます。ま、私の説教は大体そうですが(笑)、だって遠慮しよりけになりません。人の永遠がかかっているのです。いつもそのことを思っています。きっとイエス様もそうであったろうと思いながらです。

今日の御言葉を読みますと、適切な言葉を用いてと訳されておりますので、ひょっと、不適切表現でないという意味で取られたら、私の説教スタイルは、土佐弁も使うし、原稿に(笑)と書いていますし、不適切に思う人もおられるがやないかと案じます。が、ここで御言葉が語っているのは、そういうことではありませんで、戦後の口語訳は、こう訳していました。「私が口を開くときに語るべき言葉を賜り」こっちのほうが直訳に近い。あるいは英語の訳で、これは良いと思った訳を参考に直訳しますと、こうです。「私の口が開く時、メッセージが与えられ」。説教の題もメッセージという言葉を用いました。適切な言葉を用いるというのなら、これが適切かと思います。

もとの言葉は、ギリシャ語でロゴス、言葉という意味です。神の言葉としてのイエス様のこともロゴスという表現が用いられます。あるいはイエス様は神様の生きたメッセージであると言うこともできると思います。私たち自身そうです。神様のメッセンジャー、メッセージを伝える人として、私たちの存在自体が、神様の福音の神秘、キリストを証するメッセージである。ただ、メッセージと言うのは、言葉と言っても同じですが、聴き手によって、違って受け取られることもあるので難しい。説教後の献金のお祈りで、今日はこれこれというお話を伺って…、ん?そういう話はしてないけんど…ということがありますと、牧師の集まりで、自己反省として話し合うこともあります。わかりにくい不適切な説教をしてしまうからでしょうか。ひょっとこの手紙を訳した人も、そのコンプレックスがあったのかもしれません。祈って下さいと。

でも私たちの存在そのものがキリストを証するメッセージであるのなら、確かにその問題はあるのです。聴く人に、私たちが接する隣人に、キリストが適切に伝わるような生活をし、また言葉を語れるように、私のためにも祈って下さい。それは説教者だけの問題では無論ない。18節で、すべての聖徒たちのために、すべてのキリスト者、キリストの証人のために御霊によって祈りなさいと、命じられておった所以でしょう。

そもそも、この手紙を書きました使徒パウロは、この時、説教のため祈って下さいと願っておったのではありません。このときパウロは牢獄に捕えられておって、どこにも行けない。じゃあ、鎖に繋がれたパウロが、誰に福音を語れるよう祈れと命じるのか。考えられるのは、ローマ軍の屈強な兵士が交代で、刑事が手錠をかけるようにパウロと自分を鎖で繋いでおった。その兵士に語る。逃げれませんから(笑)。無論だからって横柄に語れば、殴られたかもしれませんし、そもそも心にキリストが届くはずがない。救いの知識だけ教えて、後はあなたの自己責任ね!そんな乱暴な伝道はないでしょう。心に神様の愛が届くように…でも、相手は屈強な兵士です。睨まれたかもしれません。勇気が要るのです。それでも!大胆にキリストの神秘を語ることができるように祈って下さいと命じた。その気持ちは、そしてその伝道の思いはよくわかります。あるいはそのパウロのもとに訪ねてくる人々に、福音を語ることができるようにということか。はたまた裁判の場に出されたときに、悪名高きローマ皇帝ネロの前で、キリストの神秘を語れるように、ということであったかもしれません。でも明らかに、礼拝説教をパウロは考えていたのではなく、それがどんな時であろうと、私の口を神様が開かれる時!その神様の時には、大胆に!福音の神秘を明らかにできるように。それを聴く人が一体誰であろうと、その人にキリストの神秘がズバリ伝わるメッセージが神様から与えられるように、祈りなさいと命じた。自分の知恵や考えで語るのでなく、神様からメッセージが与えられるように!これは説教だけのことでは決してあり得ません。違うでしょうか。私たちが、あ、今が福音を語る時だ!という時には、いつでも福音を語る備えを履物としていなさいと、既に15節で命じられていました。そして、その福音はいつでも、具体的メッセージとして、届く言葉として、人になられて私たちのもとに届けられた神様の言葉として、具体的な、生のメッセージとしての生きたキリストを、聴く人に届けるのです。

そんなメッセージは、神様から与えられる他ありません。たった一言かもしれない。あるいは続いて二言、三言と思ったより神様の証をすることができるかもしれない。その口数が少なかろうと多かろうと、そこで生きたキリストを証するメッセージは、神様から与えられる他ない。無論、口が勝手に開いて自動的に憑依されてというのではありません。考えて、あるいは考えながら語るのです。でもそれが福音の神秘を示す聖霊様によるメッセージであるかどうかは、これはもう与えられる他ない。だから、祈るしかない。祈れと御言葉が命じる所以です。説教でもそうです。毎回、与えられたと信じて語るのみです。イエス様が、求めなさい、そうすれば与えられると約束して下さった。求めるあなたがたに聖霊様を下さらないはずが、どうしてあろうかと念を押してさえくださいました。だから、その聖霊様によって祈るのでしょう。礼拝で神の言葉を聴かせて下さい。あなたからのメッセージを説教者の口が開かれる時に与えて下さいと。毎回です。神学生のためには祈ったけど、もうこの牧師はえいろう(笑)…あり得ません。使徒が!必要としておった祈りを、誰が一体、もういらんと言えるでしょうか。神学生であろうと牧師であろうと、信徒であろうと、私たちのこの口が神様によって開かれて、福音の神秘を大胆に語り輝かすには、皆さんの祈りが必要です。そして祈るなら、そこにはメッセージが与えられます。

その与えられるメッセージには、ただグッと来るとかでなく、確かにそこに神秘の急所もあるのですけど、どうしてその神秘がグッと来るかというと、神様から与えられるメッセージには言わばキリストの香りが詰まっているからです。キリストのエッセンス。ああ、その通りです、これがキリストの救いです、これが私たちの救い主キリストです、この方が神様です、と思えるから、聖霊様によってグッと来るのでしょう。心にキリストの恵みがわかると言っても良いと思います。

福音の神秘を大胆に、聖霊様によって示すことができるとき、聴く人の心を、同じ聖霊様が動かされます。そこはもう聖霊様の独壇場です。そこで聴く一人一人に示される事は、具体的には色々あります。不安な心に、キリストが共にいて下さる事実が押し寄せて、平安になったり。あるいは、ごめんなさいと罪を神様に悔い改める働きだったり。お捧げしますと、召された召しに献身する思いが新たにされたり。神様の愛の力にただただ感謝だったり。他にも一人一人色々ですが、そこに福音の神秘が示されるというのは、キリストが!そこでご自身の香りを放っておられるから以外ではありません。十字架で私たちの罪を担い切られたイエス様の、安心しなさいという香りが、人となられて救い主となられて、私たちのために死んで下さった神様の恵みが、福音の神秘として心に届く。心に触れる。心を包む。あるいは心を開放する。そのイメージもまた色々ですが、それが単に聖霊様抜きでの感情的な感動ではなく、聖霊様に動かされて起こる出来事であるなら、そこにはキリストがおられるのです。それを、キリストの出来事として頭で理解するかせんかはありますけれど、聖霊様によって動かされるなら、そこにはキリストが届いている。キリストがおられる。そのキリストが、福音の神秘です。そのキリストが、聴く人に示されますようにと祈るのです。

神様が、ということだけではない。それは言わば福音の前提で、神秘というのは、その神様を、ああ、神様ねえ、おると私も思いますよと、ひょっと思われているかもしれない方が、その神様は、私のために!他でもない私の死後の裁きを全部身にお引受けになられて死なれた、恵みの神様であると、そしてその大いなる愛の前に私をいま招いておられるのはキリストであると、キリストが私の救い主として示され、届いて、キリストを否定できない。この方を私は神様として礼拝しますとなるのが福音の神秘の力です。神様はおると信じながら、でも自分でやっていける、救いも自分の力でと、キリストを拒否する所には、人間あるいは宗教の常識はあるのですけど、福音の神秘、キリストの犠牲による恵みの救いは、心から遠い。遠いのが人間なのです。自分の力でやりたいのです。それで挫折して、苦しんで尚、それでも自分を否定したくない。その私たちをこそ神様は、あなたを否定したくない!わたしはあなたを受け入れるために、御子をあなたの身代わりに十字架で裁き死なせて、我が子を否定して、あなた!をその身代わりの裁き故に受け入れると、三位一体の永遠の御子を、私たちの代表責任者、主として人として生まれさせ、十字架で死なせて下さった。そして私たちの主として復活させられて、ならばあなたも復活すると、私たちの主イエス・キリストの故に救って下さる。この救い主の恵みが、福音の神秘です。

先に、神様から与えられるメッセージがグッと来るところに、確かに神秘の急所があると言いました。グッとという表現が適切か、響くかはありますが、言い換えれば、自分事になる。私の事だ、と思うから引き込まれる。いや、それがキリストの香りを放つメッセージであるなら、キリストの前に引き出される。そこで私を支えていて下さっている方の輪郭や全体像はハッキリしてなくっても、でもそこで心でわかっていることがある。頭はひょっと否定したくても、心でわかっていることは、いま私を支えて下さっているのはイエス様だと、私はイエス様の恵みと赦し、大きな憐れみに包まれ、支えられ、立つことができるのだと、心でわかる。神様は私を愛しておられるとキリストの故にわかるのです。

その福音を、パウロは、私の福音と呼ぶこともあります。私の、と言えるほど、福音が自分事となる。そしてこの福音の神秘、キリストは、また、あなたの事でもあるのですと、教会は祈って皆に伝えるのです。

14/7/27朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章18-19節、詩編126篇 「祈る教会は愛を届ける」

14/7/27朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章18-19節、詩編126篇

「祈る教会は愛を届ける」

 

私のためにも祈って下さい。と、この新共同訳は訳しました。明治の文語訳はこれを、我がためにも祈れ、と訳しました。祈れ。それが直訳です。ま、現代の日本語で、私のためにも祈りなさい、と言われると、何か偉そうと思う人がおったらいかんと配慮したんでしょう。それで、祈って下さいと訳したのかもしれませんが、そこに微妙なニュアンスが入り込む恐れがあるかもしれません。何故なら18節では、全ての聖なる者たちのために…祈り続けなさいと、命令形で訳されていたからです。そりゃあ教会が聖なる者たち、つまりキリストに結ばれ、神様に属する聖なる者とされ、神の家族とされた教会員、一人一人のために祈るのは当然だ。神の家族として皆で家族のために祈り合う。それが教会だから当たり前。けれどここでは、この手紙を書いた使徒パウロが、私個人のためにも、教会で祈って頂けると助かりますと、個人的要望をお願いしているのだと、もし間違って理解してしまうと、この頁の下の段全体、神の武具を身に着けなさい!と命じられてきた御言葉全体が、ボヤっとしてしまうのです。

改めて問います。何のために、神の武具を身に着けるのでしょうか。単に自分らの身を誘惑や試練から守るためか。そうではない。むしろ、自分の身を、キリストの体の一部として、人々の救いのために捧げることが、できるようになるためです。そのためにキリストの体の一部として、倒れてしまうのではなく、立つことができるようになるためです。私はキリストの体に結ばれて救われた、キリストの体の一肢であると、その掛け替えのない自分を守るため、キリストの体の一肢としての私が悪魔の策略に惑わされて倒れないために、キリストの愛による武装をするのです。何とか、教会がその愛から離れて、愛の闘いをあきらめて、救いのことらあ、もう考えん、ってなるように悪魔の策略と誘惑が襲ってくる。その只中で、しかし教会が、パウロのために祈れ、と命じられているのは何故か。パウロが、当時のキリストの体の、言わば口の部分として大胆に、しかし柔和なキリストの口として、キリストの救いを、神様の愛の福音を、皆に語るためです。

では、パウロが口なら、他の教会員たちは、どの部分か。一人一人が色んな部分でありながら、しかし、一心同体なるキリストの体として、福音を告げる口を支えるために、忍耐を尽くして祈る各部分部分です。一人としてキリストにとっては欠くべからざるご自身の体の大切な部分です。何故なら私たちは、キリストご自身の一部だからです。その故に御言葉は、私たちに、神の武具を身に着け、キリストの愛で武装して、キリストの愛に立つことを求めます。武具を身に着けたのは、このためでした。救いのヘルメットをかぶったのは、このためでした。その兜に燦然と輝く十字架の旗印の下、人々の救いのために、仕えるためです。

先週の水曜、木曜と、高知県西部の中芸地区で、夏期恒例の集中伝道を行ってきました。例年ですと、3500枚のトラクト、特伝案内を、猛暑の中、郵便受けに入れ回って家々を歩くのですが、今年は1000部だけ。というのは昨年のクリスマスに、今まで借家で会堂をかまえておった町の隣町、奈半利町の一等地に、以前歯医者やった建物を購入しまして、新しい伝道拠点とした。それで引越しの挨拶も兼ねて、近隣の町のみ、ピンポン、ごめんくださいと顔と顔を合わせて挨拶をして、特伝の案内を手渡しするという伝道、訪問伝道を、今年は行ったからです。

当然、と言うと、うんと悔しいのですけど、あんたらあ、エホバ?って言われましたし、実は家々を訪ねた伝道者たちも思っているのです。たぶん間違えられるろうねゃ(笑)と。それでも二人一組で訪問した。というのは、その計画を立てた牧師が言うのです。断られたら、しかも連続で厳しく断られたら、思ったよりショックで、次のドアを叩くのにひるんでしまう。その時に、後ろで祈ってくれている友がおるとおらんとでは違いますと。実際、私も、一軒目を訪ねて、よくわかりました。追い返される剣幕で怒鳴られて、肝が縮みました。が、一人じゃなかった。今思うと、神様!と祈られたのでしょう。腰はひけてるんですが、顔は一生懸命にその方を見て、耳を傾けました。そしたら、急にその方の表情が変わって、まあ、けんどあんたらあも折角もって来てくれたがやき、それ何?と、案内を受け取って下さいました。訪れた方々の皆がそうだったわけではありません。午前中二時間で、受け取って頂けたのは一組で大体30部。全体で延べ二日間、軽く千軒以上訪れて約380部。後の案内は結局ポスティングする他ありませんでしたが、終わった後、西村牧師が、満面の笑顔で言いました。380人以上の方々と顔と顔を合わせて、ひょっとしたら生まれて初めて見る生きたキリスト者と出会って頂けて、声を聴いて頂けて、手ずから案内を受け取って頂けました。380人以上もの方々に!それを聴いて私は思いました。ああ、もっと皆に、この中芸伝道のため祈って下さいとお願いすれば良かったと。

先週は教会婦人会連合の教会訪問や、青年大会の献金のお願い、教会幼稚園後援会の献金のお願いと、色々あったのも事実ですけど、それでももっと頼めば良かった。祈りの説教を語りながら、ここでパウロが求めたように、私のためにも祈って下さいと、どうして言えんかったのだろうか。祈りなさいと語りつつ、教会で祈ってもらわなくても、何とかなると思っていたのじゃないか。案外、そういうところに出るのです。祈ってもらっても結果に出にくい。なら献金のお願いしたほうが結果に出ると(笑)。前に教団の伝道委員の先生が、伝道委員会と言いながら、その内容はお金のことばっかりやっていると嘆いておられました。無論、パウロも献金を集めましたし、天に宝を積むことなしに伝道が進むこともないでしょう。献金は献身の徴であればこそです。献身なしには伝道にならない。けれど献金が伝道の代わりをするわけではありません。その献金によって具体的に支えられながら、伝道の最前線で、一人の人にキリストを手ずから伝える献身者が、しかしもし、祈りによって支えられてなかったら、伝道の一番重要な部分は自力でやるのか。献金が祈りの代役をするわけにはいかない。人に救いが手渡されるためには、祈りが求められるのです。

ですから改めて、皆さんにお願いをいたします。もはや私のために、という機会は逸してしまいましたが、本日午後二時、その案内を配った特別伝道礼拝が中芸教会で行われます。その伝道礼拝に、案内を手にした方々がいらっしゃるように、聖霊様によってお祈り下さい。人の心を動かすのは、しかも永遠の救いに向かって、見えない神様に向かって、救いを求めるように動かされるのは、三位一体の聖霊様のお力によってのみです。神様の愛の求めに背中を押されて、人はまことの神様を求めるからです。そして、そのように心を動かされるのが、聖霊様であればこそ、御言葉は私たちにこう命じるのです。御霊によって祈りなさい。教会の働き、伝道の働きが、どんなに尊い献身に支えられておっても、それが人間の業でなく、神様の救いの御業となって、人が神様を求め、イエス様を救い主として受け入れるには、聖霊様がそこでご介入下さる以外にはないからです。そのことをパウロは知っておったので、後ろで祈ってくれゆう人がおるとおらんとで、人が神様の救いの奥義に巻き込まれ、聖霊様のお力の只中で、救われるか救われんかが違ってくると、神様のご介入がなかったら、伝道が伝道にならんから、あなたがたは、教会のため、キリストの体に結ばれた全ての聖徒たちのため、そして、私のために祈りなさい。何故なら教会は、神様の救いの神秘の只中で、人が救われるために祈り、その祈りによって、聖霊様によって伝道するのが教会だから、あなたはその教会に属する欠くことのできない聖徒の一人、聖なる祈り手として祈りなさいと、一人一人に命じるのです。

今日は私たちの教会でも、同じく午後二時から、南国教会、安芸教会との教会学校キャンプが行われます。約50名!初めて参加する親御さんや、普段は教会に来てない子供たちも参加します。このキャンプが伝道キャンプになるように、キリストのご臨在を運ぶキリスト者によって、子供も親も、キリストの神秘的体に触れることができるように、お祈り下さい。十市では二時半から聖書を読む会を行います。まだ求道の方は誰も来ていません。聖霊様によってお祈り下さい。私が話をします。私のためにも祈って下さい。伝道する教会は皆さんを祈り手として必要としています。キリストの体の欠かせない部分として必要としています。そして福音の神秘が現実化して、キリストの救いがなるのです。