マタイによる福音書7章13-14節、箴言14章12節「捨てて見出す道がある」

23/12/31歳晩主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書7章13-14節、箴言14章12節

「捨てて見出す道がある」

「それを見い出す者」。「それを見つける者」という言葉です。前の頁、7節に「探しなさい。そうすれば見つかる」と、ヒントのように置かれた救いの言葉です。では、何を探し求めるのか。6章33節で主が言われた神の国をです。罪人の救いのために、御子を与えられた父のご支配を。直訳で言うなら「探し求めなさい!先ず、父のご支配と、父の義しさを」。そうすれば見つかると約束をされての、今朝の御言葉が始まります。

それを見つける者が少ない。貧しい羊飼いたちが見つけた飼い葉桶の御子を。心の貧しい者たちに、父のご支配を約束された(5:3)十字架の憐れみのご支配に生きる道を、先ず探し求める者が少ない、見つける者が少ないのだと主は悲しまれます。だからこそ訴えかけられるのです。

誰でも求める者に父が与えて下さる憐れみのご支配を、なら教会の門をくぐれば自動的に見つけられるか。具体的な話です。私たちはここで何に注意を払って求めているか。その意識を持って探し生きているから、見つける何かがある。私たちは何を見つけて歩んでいるでしょう。

前の頁、二つの「探し求めなさい」に挟まれた御言葉で、主は兄弟の目におが屑を見つける譬えをなさいました。自分の目には梁があるのに何故か見つける人の罪。不満な点。罪の世界です。見つかるに違いない。だから御子が償い救いに来られた世界に、私たちは何を探すのか。その人を赦しなさいと言われる神様を信じない方が広々と生きられると思う理由も、きっと見つかるのです。だって皆そんな生き方しやせんと思う。自分の義しさを信じ自分の幸せを求める道が、広く義しく見える世界の中で、あなたはどこに自分の命と、愛する人の命を、探し求めるのか。あなたは何を見つけたいのかと、失われた羊たちを探し求められ、身を投げ出して来て下さった主が、求められるのです(18:10ff)。

見つけるという言葉は、この後も用いられる救いのキーワードです。左頁8章10節では、イエス様にこそ、神様のご支配があると信じた百人隊長を、主は見つけられます。しかも驚いて!こんな信頼をイスラエルで「見つけたことはない」と、異邦人の救いを大層喜んで言われます。

10章39節では、今日の御言葉と同じように「自分の命を見つけようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを見つける」と言われます。自分の命を棄てに来られた神様に、私の救いがあると信じ、この世での命は失うようにしてキリストに身を委ねる者が、あれ?と驚いて、命の幸いを見つけるのです。主は生きておられ、泣きながらでも主に自分を委ねた者に、アメイジング・グレイス!驚きの恵みを見つけさせて下さることを、もう私たち知っているのです。

「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい…わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを見つける」(11:28ff)。くびきとは例えば牛が二頭で畑を耕す時、首に木を負って繋いで、馴れてない牛は師匠の牛から、歩み方を学ぶのです。主がそのようにくびきを負って共に歩んで教えて下さるから、イエス様の御言葉を信頼し、よし、歩んで行こうと。礼拝で主の御言葉を聴いて、あなたを信じ、お従いしますと賛美し祈って、でもその後で先とは逆の意味で驚くことがある。主に従えない、愛せない自分を見つけるのです。イエス様のくびきを負っても安らぎを見つけないじゃないかと思うかもしれない私たちに、イエス様はおっしゃるのです。わたしのくびきは、その自分を失って、憐れみのご支配に生きるくびきだから、わたしから学びなさいと、十字架のくびきを負って共に歩まれるのです。あるいは、ばぶれて足を止める私たちを引きずるように、共に歩む重さをこらえて、私たちをくびきと共に負って主は歩まれる。ゴルゴタの丘へ向かう父の憐れみの救いの道を真っ直ぐに真っ直ぐに私たちを背負われて歩まれたように、主は私たちを今もこれからも共にくびきを負って愛され歩んで行かれます。その細い道を、ついには命に至る道を、私たちはイエス様のくびきに負われながら学び見つけるのです。

失って見つける道だから、見つける者が少ないのでしょう。失いたくないと思うから、見つけたくないとさえ思う。その私たちを探し見つけに来られた神様のご支配を、イザヤはこう約束したのです。「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように…捕らえられ、裁きを受けて、…彼は自らを償いの献げ物とした。…わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。」(旧1150頁、イザヤ53:6-11)

道を失った羊を見つけ担いで、父の憐れみのご支配はあなたのものだと約束される主が、この細い道を歩み通されて招かれるのです。わたしのもとに来なさい。あなたはわたしに安らぎを見つける。だからこの道に命を委ねて歩んで良い。その幸いなくびきを神様が担われるからです。