ヨハネによる福音書21章1-14節「新しく出発するために」元旦礼拝説教

24/1/1元旦礼拝説教@高知東教会

ヨハネによる福音書21章1-14節

「新しく出発するために」

「既に夜が明けたころ」。もう夜は明けています。元旦礼拝にぴったりの御言葉です。元旦の旦という字には水平線から日が昇る姿が刻まれています。今年最初の御言葉にも、私たちの救いの光としてクリスマスに来られたイエス様が、私たちの罪と死に勝利され復活をされた光として岸辺に立ち、私たちを待っておられます。もう夜は明けた。光は来た。わたしだと。恵みの光のもとに私たち皆を呼び寄せられるのです。

そこでイエス様は、こう言われました。直訳はこうです。「子たちよ、食べるものを幾らかも持ってないのですか」。持ってないがでね、というニュアンスです。あなたの手の中には収獲がない。違うかと。キリストの光の中ではない夜中に収獲を求めて働く空しさを、確認させる問い方であるとも言えます。その働きも収獲も、ただ食べるための働きと収獲を既に超えています。その後で大漁であったのに網が破けてなかったと敢えて示されるように、これは主がくださった救いのためにお仕えする働き、そこに人々を招き入れる救いの収獲のしるしです。

それは人間の力によっては不可能なことが、人間の力では更に不可能な復活の光の中で改めて示されます。その光の中、主の恵みの中に立つように、改めて私たちを招き入れるのが今朝の主の御言葉です。

主は弟子たちに具体的な指示を出された後、直訳でこう言われました「そうすれば、見つかる」。ちょうど先月の朝の礼拝で聴きました、主の励ましの御言葉です。探しなさい。そうすれば見つかる(マタイ7:7)。父の恵みのご支配を、先ず探し求めなさい、そうすれば見つかると約束して下さった。その具体的な信頼のレッスンを主は与えられるお方です。自分のための収獲は、もう求めなくてよい。夜はもう終った。朝が来た。わたしだ、怖がらなくてよいと、今までも、何度も慰めて下さった主が言われた通りに網を打った。そして見つけた収獲は、でも余りに多く、これも直訳すると「引き上げる力が無かった」。それは御言葉を信頼して救いにお仕えする働き収獲が、人間自身の力ではない、神様の力であることを、神様でなかったら、人々を主のもとに引き上げる力は人間にはないことを教えられる、恵みのレッスンだったからです。

「主だ」。思わず言った。これも神様が恵みによって与えて下さる信仰告白の言葉です。「主だ」。これは、この同じ湖、しかも嵐のガリラヤ湖で、嵐の中、水の上を歩いて来られる主が弟子たちにはわからなくて、恐れ惑っていた弟子たちにイエス様が「わたしだ」と言って下さった(6:20)。それは出エジプト記でモーセに主がご自身を現わされた時に、「わたしは在る」と言われた主のお名前です。わたしはある。不在ではない。あなたが恐れ惑う嵐の中で、わたしはあなたと共にある、わたしは主、あなたと共にある神、「わたしだ」とイエス様がご自身を現わしてくださった。そのイエス様なのだと信頼して「主だ」と告白するのです。もう主は来られた。復活の光の中で「わたしだ」と主が共におられて、共に救いの働きにお仕えて下さっているのだと。

だから弟子たちは「主だ」と言える。「主だ」と知っているから。主との信頼関係を、主は私たちを見捨てることも見放すこともなさらない、恵みの主だと信じ告白しているからです。

そこには、すぐ前の20章で「私は決して信じない」と言ったトマスもいる。そのトマスにも、主が現れて下さったからです。そのイエス様に「私の主、私の神」と、トマスは信頼の告白をした(20:28)。

トマスだけではない。皆、そう言える。主だ。私の主、私の神様と。それを今朝の御言葉は12節でこう証しします「主だと知っていたから」。私の主だ、私のために命を捨てて罪を償い、よみがえられて、私と共に今もおられて、共に救いの働きにお仕えしておられる、私の主だと。

ペトロはその「主だ」という言葉に、これもきっと思わず、裸の上に上着を「まとい」、主のもとに飛び込んでいきました。「まとう」は主が十字架に向かわれる前の晩、弟子たちの足を洗うために、腰に手拭いを「まとい」と言われた、同じ言葉です(13:4,5)。神様ご自身が私たちを救うために、僕として仕えられる恵みの奇跡を思い出させる言葉です。ペトロはここで改めて主に仕える僕として復活の光の中を主のもとへと飛び込み急いだ。でも、その行為や態度が主の僕としての力を得させるのではない。救いの収獲のために働く力もそれを得る力も、全てはその私たちのために命を捨ててでもお仕え下さる神様の恵みの力でしかないからです。私たちが身を低くすればよいのではないし、やる気でもない。もうキリストをお与え下さった恵みによって、救いの恵みをまとわれた主が共におられる光の中で、そのご支配を、はいと信頼し歩めば良い。罪も恥も既に覆って下さっているキリスト恵みの中を、その恵みの僕!として、主と共に歩めば良い。そこに神様の力は現れます。

夜はもう明けています。人間の罪と死に恵みによって勝利され、さあ来なさいと招かれる主に、あなたが主ですと礼拝して歩み出すのです。