マタイによる福音書1章18-25節「神共にますクリスマス」クリスマスイブ礼拝説教

23/12/24クリスマスイブ礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書1章18-25節

「神共にますクリスマス」

神様が人となられて来て下さいました。人の手にはよらないで、三位一体の神様の愛の奇跡によって!でもまさにその愛が自分の手にはないからと、もう共に生きることをあきらめようと決心をしていた、ヨセフのような私たち人間のもとにです。神様は、大丈夫、愛に生きることをあきらめなくてよい、その人間の絶望からあなたを救いに来たと、人となられて来てくださいました。

それがこの神様の愛の奇跡、クリスマスの救いの知らせです。

ヨセフは絶望していました。それはきっと自分自身にも絶望していたことを、愛することに絶望したことのある者たちは、きっと自分のこととして知っているのだと思います。愛したかったに、違いないのです。共に生きたくなかったはずはないのです。でも激しい思いが、自分の愛の願いを裏切るのです。共に愛の中に生きてゆきたいと、人が人として当然願ってよい、本当に人間らしい願いに対して、無理に決まっちゅうじゃかと、激しい攻撃を自分自身に仕掛けてくる。

それが、マリアをひそかに去らせようと決心した、あるいは決心したのに心が決まらなくて落ち着かなくて、どうしようもない激しい思いを持て余していたヨセフが、このように「考えていると」と訳された言葉の元の意味です。怒りのように激しい思いの内にあった。それを具体的に言ったら、自分の中でグルグルグルグル悶々と考え続けていたという状態になるでしょうか。誰もが良くわかる状態。必ずしも怒りではなくっても、不満、嫌だ、逃げたいという感情が渦を巻いて、考えることをやめたくても考えてしまい不快が増す、誰かに感情をぶつけたくなる。

でもヨセフは「正しい人」だったから、いや、正しい人だったので、一人で考え込んで、激しい思いにグルグル巻きこまれておったのだとも言えるかもしれません。今年の初めから朝の礼拝はずっとこのマタイによる福音書から聴き続け、今7章まで来ました。この「正しい」という言葉が、神様の救い、また人間の罪を考える上で欠かせないキーワードであることも聴いてきました。自分は正しい!と人を裁く正しさ。その名を愛と呼ばれる神様の救いを必要とする人間の正しさが、ここに置かれます。そのために神様が来てくださったクリスマスの、愛の扉を開く鍵のように。でもその自分の正しさという鍵で、ヨセフは、共に生きるという愛の道をむしろガチャリと閉じようと決心する。その場面を元の言葉に即して訳すとこうです。夫ヨセフは、正しかったのでまた彼女をさらすのを望まなかったので、彼女を密かに去らせようと決心した。正しかったから、さらし者にするのを望まなかったのも確かでしょう。それは正しさの望みに違いないのです。でも正しかったから、自分から去らせようと決心した。自分の正しさが無理だと激しく詰め寄るのです。自分の正しさが、共に生きる道に鍵をかけ鍵をかけ、だって無理じゃかと激しく渦を巻く。そんな正しさがどうやって人を救うのか、人として当然願ってよい愛の道を自分からも人からも閉ざして、共に生きないと決心したからと誰がそんな正しさで救われるのか。

その救いを、ご自分を捨てに来られた神様が引き受けられるのです。誰も救われない自分自分の人間の正しさを十字架で引き取って、これは終わりだと、神様ご自身が一切の罪を引き受けて死んで終わらせる人として来て下さいました。罪を裁かれて死ぬ代表として。死から救われて共に生きる、神様の愛の命に新しく救われて生きる神の民の代表として。神様は我らと共におられて救って下さるという名前を、今日も十字架の上に掲げて世界を照らして下さっている。人となられた神様が、わたしはあなたたちと共にいる!と罪から救って下さる。死から救って下さる。滅びから、愛に生きられない自分が嫌だと腐る、腐敗からも、わたしが共にいて、あなたを救うと、そのお名前にかけて宣言されるのです。

その救いの宣言を刻んだイエスという名前は、神様の激しい決心から生まれた名前です。神様は激しい思いを知らない神様ではありません。むしろ正義の義しさの激しさを、罪を罪として裁く激しさを、誰よりも知っておられるから十字架で死なれる神様です。その神様を知ることが私たちを自分の正しさから救うとも言える、その激しさを告げる有名な言葉があります「愛は忍耐強い。愛は情け深い。」(コリント一13:4)。「忍耐強い」とは、先に言った「怒りのように激しい思いの内にあって」という言葉の「怒りのように激しい思いが、うんと大きい」という言葉です。怒りのように激しい思いを包んで相手と共に生きる大きさです。私たちが愛に生きる苦しみに耐えかねて激しい思いを抱く時、その思いを共にして下さり、共に耐える愛の苦しみを担って下さる神様が決して私たちを捨てないで共におられる。だから腐っても腐らず愛を滅ぼさず、共に生きることを死んでも選ばれる神様の名を呼べば良い。イエス様と祈って前を向けば良い。そこに義しい決心も生まれます。愛の扉が開きます。そのために来られた神様の名を、今日私たちは共に祝うのです。