マタイによる福音書1章1-17節、ルツ記2章20-23節「救いの約束を担う神様」

23/12/24降誕祭主日礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書1章1-17節、ルツ記2章20-23節

「救いの約束を担う神様」

二千年前のクリスマスに神様はその救いの約束を担われて、人として生まれて来て下さいました。それがこの系図、救いの約束のファミリー・ツリーです。

その約束が、もし守られなかったらどうなるか。人間関係においても、約束を守るというのは大変重要です。中には時間を守るように、ごめん、うっかりと忘れて守れない約束もあると思います。でも人の生き死ににも関わる、うっかりでは済まない約束もある。例えば教会の結婚式で、あなたはその健やかな時も、病む時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命の限り固く節操を守ることを約束しますか。約束しますと答える。だから守る。でも愛する約束を、うっかり忘れること、ないでしょうか。まして敬うことを守れずに、こいつと思うことだってある。お互いに罪人だから、それでも愛することは大変な苦労を負う。だから約束を守ると言うよりは、約束を担うと言ったほうが真実じゃないでしょうか。時にうめきながら、泣きながらでも担う。担っているから苦しみもする。愛するのは簡単だと言える強い人なんて一人もいない。もし言えるなら、それが愛かは疑わしいのではないでしょうか。相手を掛け替えない人として愛することを担う。愛することを守れない時にこそ担う。その私たちを担って下さって決して捨てられない神様を思えばこそ、信じて担える約束。そういう約束を、たとえ相手が約束を破っても、それでもあなたを救うと、罪人を担って救う約束を、神様が与えてくださった。それがどのように担われて、またこれからも担われ守られて私たちが救われるのか。それがこの系図の示す約束です。

これを記したキリストの弟子マタイは冒頭のアブラハムの子孫であるユダヤ人に向けて、おもにこの福音書を記しました。神様の約束を代々、受け継いでおった、言わば約束のファミリーだったからです。神様が、アブラハムの子孫によって、すべての人を祝福される、世界を救われる。それが救い主キリスト誕生の約束でした。が、これを受け継いでおったファミリー・ツリーは、至る所で途切れかけるのです。

ユダヤ人たちは知っているので敢えて書いてないこともありますが、初代のアブラハムからして、神様の約束を信じ切れず、言わば根元から木が倒れるところを神様が救われて、イサクが生まれるのです。続いて、ダビデの子と言われるのは、彼も神様から、救い主はあなたの子孫から生まれると約束をされた王だったからです。偉大な信仰者の王でした。でも罪を犯した。大事な部下ウリヤの妻を奪って、ウリヤは暗殺した。救い主の約束をいただいた後に!です。6節の段落の区切りは、まるで感謝して受けた約束を自分の罪によって切り倒しかけた傷にも見えます。その傷跡をこの救いの系図は「ダビデはウリヤの妻によってソロモンを」と隠さんのです。それでも約束を担われる神様の恵みによる救いなのだと明らかにするためです。

続く段落の切れ目にあるのは、ダビデだけじゃない、約束の民であるユダヤの民が犯し続けた罪の累積が雪崩れ、はち切れて、裁きとしてのバビロン捕囚が起きた。もういよいよ約束の木はその枝を失ったのではないかと思うほど細く見えなくなっていった先に弱く貧しいヨセフの妻、マリアの胎の中に救い主、ヘブライ語でメシア、ギリシャ語でキリストであるイエス様が聖霊様によって宿られて、お生まれになったのです。神様の救いが、罪によって見えなくなっている人間の目には、どんなに細く弱く見えて、もう神も救いもないと人間の力を信じたほうがましだと、約束をいただいた人間のほうで約束の絆を断とうとしても、それを十字架の赦しの愛の傷によって完全に担い切って救われる、神様の約束は断たれない!そう宣言しているのが、この神様の約束の系図、救いの約束を担い切られるキリストの救いの証言だからです。

先に読みました旧約聖書ルツ記で、直接の約束の家系でないモアブ人であるルツが、後に結婚することになるボアズの畑で落穂を拾います。その神様の恵みのご支配のことが系図の5節で「ボアズはルツによってオベドを」もうけたと、救いの約束の内に担われます。ボアズ自身5節で「サルモンはラハブによってボアズを」と担われている。母ラハブも異邦人でした。約束の外にいる人々だと、あるいは自分は選ばれた選民だけどと間違い高ぶって考えていた人々から差別されていた悲しみを、ボアズは自分の悲しみとして担っていたのだと思います。それがルツに、刈入れが終わるまでうちで落穂を拾いなさいという優しさとして現れる。やがて来る刈入れの日を待つ世界に、すべてを担われる救い主の憐れみと優しさが現れたように。誰も神様の約束の内に拾われないで捨てられてしまうことのないように、すべての悲しみを担われる神様が人としてお生まれ下さいました。すべての人の罪を担い、世界の救いを担われた主が、あなたを捨てない、捨てるために来たのではない、わたしは主、あなたの神だと来て下さった。この救いの日を世界は共に祝うのです。