マタイによる福音書3章1-12節、イザヤ書40章1-8節「晩鐘が鳴り終わる前に」

23/2/5主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書3章1-12節、イザヤ書40章1-8節

「晩鐘が鳴り終わる前に」

「悔い改めなさい。何故なら天の国が近づいたから。」悔い改めるとは、人生の向きを神様に向き直すという、聖書の言葉、救いの言葉です。

この御言葉を黙想していて、仏国の画家ミレーの晩鐘を思いました。夕暮れに畑で仕事をしていた夫婦が、教会の鐘の音を聴いて手を休め、祈る姿。彼の祖母がそのように鐘が鳴ると孫たちの仕事の手も止めて、天に召された人々のための祈りを唱和した、その想い出から描いたそうです。畑の作物で体の命は保てる。でも永遠の人の命、その人の人格的存在は神様しか救えない。だから命の向きを神様に向けて祈るのです。キリストの赦しと命をくださった神様、お救い下さいと。

天の国。神様のご支配という意味です。だから「天の国は近づいた」とは、神様のご支配が、それほどキリストによって近づいた。完全には来てなくて、晩鐘は鳴り終わってない。でも神様の恵みのご支配、赦しのご支配が、ほら、もう始まっているから、その神様に人生を向き直りましょうという神様の呼びかけです。主の祈りで、御国を来たらせ給えと祈るのも、神様のご支配のもとで私たちが生きられるよう、死んでも救われる、恵みのご支配に生かして下さいという祈りです。場所ではありません。ラピュタみたいなのが来るのではない(笑)。国、支配を時代と言い換えると分かりよいでしょうか。キリストを迎えた人生に新しい時代が来る。洗礼者ヨハネが、私はキリストの履物を脱がす価値もありません、だって神様です!と敬うキリストが言われるのです、あなたの罪と死を背負う、わたしは主、あなたの神だからと。その方を迎えたら、私もそうでした、人生が新しい時代を迎える。イメージで言えば、今の中高生青年が高知東教会の長老役員になる時、親たちの時代は過ぎた、私たちの時代になったから!と、例えば讃美歌も新時代で新しくして、慈しみ深きカモンカモン、高知東REMIX(笑)とか楽しく想像するのですが、もし!そういうリズムじゃ賛美できん人にも責任を持つ支配で、教会を導くのでないなら、神様のご支配にお従いする教会の生き方は、近づいてはいるけど、まだ来てない。あるいは来ているけど、まだ完全じゃないから、さあ自分が求めている宗教や救いでなく、神様ご自身のご支配、恵みのキリストに、はいと向き直りましょうと招くのです。

人がどんな生き方や態度の実を結んでいるかで、その人がどんな支配のもとに、実際には身を置いているかがわかります。当時の宗教的指導者たち、ファリサイ派やサドカイ派の人々が、神様が求めるのはこんな生き方だ、こんな神様だからと、どんな生き方で示していたかが、それ故、厳しく指摘されます。人を死なせる毒を持つ蝮の子たちと呼ばれるのです。どんな毒か簡単に言うと、これをやりゆうき救われると考える形式主義、頑張りズム。つまり相手の気持ちより、私はこれをやりゆうがやきと自動的に自分を正しいとする支配が、神様との関係を死なせるだけではない。人間関係をも死なせる毒である。私たちのよく知る罪の実態ではないでしょうか。まして、神様を父として持っている信頼関係に生かされる恵みより、我々は父アブラハムを持っているから救われると思う、人間の人間による人間のための宗教が自分を救うなどと思ってもみてくれるな、神様に向き直りなさい、神様ご自身に、あなた自身を向けなさいと訴える気持ちは、わかると思うのです。

そして、そんな私たちを救いに来られたキリストのことを、キリストの救いを語り始める気持ちも、わかるのではないでしょうか。洗礼それ自体が自動的に人を救うのではない。人となられた神様ご自身が、悪い実を結んでしまう私たちの罪を、自ら引き受けられて救われるのです。斧がもう木の根元に置かれている。自分の罪を知る者に、襟を正させる言葉です。神様は無責任な支配はなさいません。すべての人に対して、すべての罪に対して、正義の責任を果たされる神様、道を曲げない神様です。その道を、いやでもと曲げる人間の罪で、裁かれない罪はない。すべての罪が焼き払われ、完全な報いが支払われなければならない。罪の犠牲者が、しょうがないなどという言葉で正義が踏みにじられることはお怒りになられる、すべての罪に正義の裁きを執行なさる神様です。そのすべての罪に向けられた正義の斧を、神様は十字架ですべての人の罪の償いとなられたキリストに振り下ろされて、この償いにより、この正義の執行によって、わたしはあなたたちの罪を赦すと、罪ある世界に宣言されたのです。あなたたちの罪をキリストによって償うと。神様に向き直るとは、このキリストの救いの神様に向き直ること、キリストに向かって、私の救い主、私の神様と向き直ることです。その私たちに、キリストご自身が聖霊様と火による洗礼を授けて下さいます。罪が火に焼かれ、十字架で負われて、聖霊様によって神様の子供とされる洗礼によって救って下さる。そのキリストの慰めを、預言者イザヤはこう告げたのです。苦役の時は今や満ち、あなたの咎は償われた。このキリストの慰めを、疲れた者、重荷を負う者は誰でも受けて良いのです。