マタイによる福音書2章19-23節、イザヤ書11章10節「悪を避け時を待つ日々」

23/1/29教会設立記念礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書2章19-23節、イザヤ書11章10節

「悪を避け時を待つ日々」

25年前、前の狭い会堂で設立式を捧げた後、お茶とお菓子を配っている時に電話が鳴った。側にいた枝重姉が、高知東教会ですと出られた。すぐ前まで南国教会大津伝道所だったのに、スラっと高知東教会ですと名乗られた。しかもその高知東教会の一員として、ものすごく自然体で名乗られたので、皆、嬉しくて笑った。そうだ、ここに主が高知東教会をキリストの御体を建てられたのだと嬉しくなりました。

今朝の御言葉を黙想しつつ、そのことを思い出し、でも待てよと思いました。ひょっと電話をかけて来られた方は、え?自分は南国教会大津伝道所にかけたのにと訝られたかもしれません。高知東教会?と。

キリストが「ナザレの人と呼ばれる」というのは、そうした、え?という呼ばれ方なのです。ナザレ?あのガリラヤ地方の?と。

この2章の初めは、イエス様がユダヤ地方のベツレヘムでお生まれになったと始まり、続けざまに東方の学者たちがやってきて、こう言います「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」。つまりイエス様は、ユダヤ人の王と呼ばれる、約束の救い主キリストであられるのだから、本来2章の初めで、彼はユダヤ人の王と呼ばれると預言されていたことが実現するためであった、と言われても良いのに、言われない。むしろ当時のユダヤ人の王ヘロデに殺されそうになって、親に抱えられてエジプトに逃げるのです。王なのに、救い主ともあろうお方が、人間の罪と欲望に翻弄され、それで今朝の御言葉で、ヘロデが死んだので、やっとイスラエルに帰れる。ではどこに帰るか。ユダヤ人の王、ダビデの子として約束されていたキリストなのだから、ダビデと同様に、ベツレヘムで生まれ、ベツレヘムで育ち、やがてエルサレムに王として上るのが御心だろうとヨセフも考えたろうのに、ベツレヘムがあるイスラエルの南、ユダヤ地方には帰れないで、北のガリラヤ地方に引き込もる。ユダヤ人の王なのに、ナザレ人と呼ばれるのです。

純粋な、あるいは本来は、という考え方を正統派と言ったりします。ものごとが本来あるべき姿で正しく系統立って進んだら、こうなるのが正統だと。このことあのことは、こうあるのが正しいと。ただ、それで人生を考えると、行き詰まる。そうならんからです。けんど本来は、と考えて、行き詰まるだけでなく、息が詰まることがないでしょうか。

ヨセフが、本来はユダヤ地方に行くべきであろうのに、ユダヤ人の王なのにと、イエス様のことを考え、けんどユダヤに行くとイエス様にも家族にも危険が及ぶのではないかと恐れたのは、当然のことでしょう。誰だって、選ぶなら安心できるほうを選びたい。考えたら恐ろしくなるほうは、とても祈りなしでは考えれんし、祈るのです。教会のことも、本来は、だけで考えたら行き詰まる。教会設立25周年を迎えて振り返り思うのは、いくつもの恐れがあったことです。大水や会堂建築だけではない。人に言うことではないので驚かれるかもしれませんが、私自身、牧師を続けていくことを考えて恐れたことは一度ではありません。一度だけ先輩牧師に相談しましたが、祈らずには相談もできない。苦しみと恐れの中で、あるいはヨセフもマリアに相談できず、苦しみが続くことに耐えられませんと祈り叫んだに違いない。その恐れを御言葉は隠しません。むしろ色んな恐れを抱えて祈る私たちに、神様は応えて下さると慰めるために、恐れを恥じないで分かち合うのです。神様が、恐れるなと言われるのは、恐れるらあて恥ずかしいというのでなく、恐れなくても大丈夫だと、恐れてしまう状況でも、大丈夫で、一緒におるきと約束される、神様の恵みのご支配の宣言が、「恐れるな」だからです。

それがここでは「お告げがあった」に含まれます。「交渉する」という言葉です。一方的な命令ではない。神様は、私たちの恐れと祈りを聴いて下さり応えて下さる、私たちの憐れみ深い父であるから、大丈夫だと告げて、恐れる私たちに慰めを語るのが、この御言葉です。

それでユダヤでなく、「ガリラヤ地方に」引きこもるようでも帰ったらよいと神様に導かれ、これは御言葉が「実現するためであった」と保証されるのです。本来は、の目には妥協や恥に見えても、憐れみ深い神様のお考えでは、これが御心だという、深い憐れみの御計画がある。人間の目には挫折でも、神様の憐れみの御業は実現している。この神様に、キリストに背負われて祈る私たちなのだと信じて、祈って示された道に進めばよい。最後までキリストが背負い続けてくださるからです。

そのガリラヤから、キリストは、実に神様の目に正しいユダヤ人の王としての救いの業を開始されます。4章で「異邦人のガリラヤ」(4:15)と呼ばれる、異邦人をも背負われる王としてです。それが私たち全ての人の王として来られた御子イエス様なのだと、マタイは十字架の憐れみのご支配を最後まで告げ知らせ、その御子の十字架の頭上に、この言葉を刻むのです「これがユダヤ人の王イエスである」(27:37)。この恵みの王が私たちと共におられるから、祈りつつ前に進んで行けるのです。