マルコによる福音書12章13-17節、詩編103篇「アメイジング・マーシー」

19/12/29歳晩主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書12章13-17節、詩編103篇

「アメイジング・マーシー」

一年で最後の朝の礼拝となりました。年の暮れの礼拝で、歳晩礼拝と呼びます。歳晩の朝の礼拝に、この御言葉が読まれる。「神のものは神に返しなさい。」神様の粋なお計らいを感じる気もします。私は古い落語が好きで、その中に大晦日の話がいくつかあります。あちこちの店から、年末のつけの取り立てにやってくる人々を、どうにかして追い返そうと知恵を絞るという話です。落語なら呑気に笑っていられるのですけど、今朝の御言葉で「神のものは神に返しなさい」という御言葉を聴いて、私たちはどう思うのでしょうか。

無論、歳晩礼拝だから、裁きの説教だというのではありません。既に交読文の中で「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められるものは、命あるものの中にはいません」と、神様に祈りを捧げたのです。そのために来られたクリスマスの主キリストを信じるのです。私たちの罪と裁きを引き受けに来られた主のクリスマスを喜ぶ日々を、教会は引き続き過ごしている最中でもあります。因みに伝統的な教会の暦では1月6日の公現日、主が公に現れた日を覚える、公現日までを、クリスマス、降誕節として守ります。

今朝の御言葉に戻りますが、「神のものは神に返しなさい」という主の御言葉が、礼拝の中で用いられている言葉、祈りの言葉になっていることを今回、改めて思わされました。この後の献金の時に、神様にお返ししますと祈る言葉があります。また教会によっては讃美歌にある献金の讃美歌を皆で歌う教会もあって、その2番に、こういう歌詞があるのです。「御前に今、返しまつる。みさかえのために用いたまえ」(548番)。今朝のイエス様の御言葉から与えられた祈りだと思います。

因みに私は、献金をお捧げしますという言い方をします。ただ、献金という言葉の中に、漢字は異なりますが、献げるという言葉が既に含まれていますので、馬から落馬するに似た感じがするからでしょう、献金しますと言ったがほうがスッキリする感じもあります。が、私は、何かそれでも、捧げるという言葉を付けないと、私は、ですが、まるで税金を納金するように、義務だから、これを行うというイメージが心に付きまとってしまうのです。なので、私個人としては、捧げると言ったほうが、神様にお捧げする気持ちを現わしやすい。神様の前に頭を下げて、献身のしるしとして、お献げするという姿勢になりやすいところが、私としてはあります。でもそれは、私自身の心の傾向に理由があるからだと、自分の性格に鑑みて思うのです。

無論、献金は感謝と献身のしるしですから、ここで問題になっている献げるということ、あるいは神様に返すということは、お金だけの問題ではありません。ただ、そこに如実に現れてくるので、お金をどう扱うか、用いるかは、神のものを神に返すということを考える時に、避けて通れないのです。それを、私を実例に、共に考えたいのです。

言葉で献金しますと言おうと、お返ししますと言おうと、捧げますと言おうと、どういう態度、どういう心で、私たちは神様の前に立つのでしょうか。でないと、言葉尻をとらえる話に陥りかねません。

先の、私にとっての税金と献金の違いに戻りますと、私には、税金は義務なのです。そこでの私の義務という「くくり」は、別に感謝や献身の態度が伴わなくても、義務なのだから、苦しくても当然だと、態度を抜きにしてできる。言わばビジネスライクに、仕事モードで、例えば、ドアを開けたら閉めるように。義務ですから、閉めたからといって誰かから、ありがとうと言われることを期待することはありません。閉めてやったのに誰もありがとうと言わない、と怒ることもない。当たり前のことです。でも逆に、開けっ放しにされると、閉めるのは当然だろうと思ってしまう。

それと同じで、献金も、私は常に意識しないと、するのは当然のことだからと、感謝と献金のしるしとしてではなくて、義務として、する、ということを、やってしまう傾向、心の傾きがあるなと思うのです。

それとよく似ているのが、ファリサイ派の態度とも言えます。律法を行うのは当然だと、律法に込められた神様のお気持ちを思う、愛の態度がなくても、自分の義務として、愛なき義務としての宗教を、する、という自己満足の宗教に陥っていた。する自分、行う自分は正しいと。

因みにヘロデ派は、当時イスラエルを支配していたローマ帝国から、ガリラヤ地方を統治する権限を与えられていた領主ヘロデが、どんなに宗教的にいい加減で無節操でも、まあ仲良くやって言うことを聞いておったら、こっちも得をするからという、言わば現実主義的な人々です。ローマ帝国への税金を取り立てていた徴税人たちが、特にファリサイ派から嫌われておった同じ理由で、普段は敵対しておった両者です。が、それがこの時は、まるでイエス様が漁夫の利を得ようとしておったように見えたのか、意見や価値観の違いを置いといて、イエス様を陥れようとした。イエス様が、ローマ皇帝に税金を払うべきだと言ったら、何で敵国に納税なんかと思っていた群衆の反感を買う。逆に、皇帝に税金を払うべきでないと言えば、ヘロデ派が、皇帝反逆罪として訴える計画。それが「彼らの下心」だったと翻訳されましたが「彼らの偽善」という言葉です。仮面をかぶった役者のことです。言葉尻をとらえてとか、今の日本の政治状況にも似ていますが、いつの時代のどこの国だろうと、同じ人間ということでしょう。真面目が好きなファリサイ派だろうと、不真面目でも得したもん勝ちのヘロデ派であろうと、結局は、神様を愛するより自分を愛し、自分にこだわっている似た者同士なのです。私は自分にはファリサイ派の傾向が強いと自覚してましたが、どの道、自分を愛する罪人だということを思わされます。

そういう私ですから、また話を戻しますけど、献金を、神様にお返しするという言葉は、自分が使うのには少し躊躇する言葉でした。神様のものを返すのは当たり前という、ファリサイ派の態度になってしまうので、それが嫌で、返すという言葉を、よう使わんかったのです。

ところが、この言葉は、イエス様がお用いになられた言葉であるということが、改めて心に留まりました。そこには、義務だから、というのとは異なる態度があるのではないか。イエス様が「神のものは神に返しなさい」とおっしゃった時、私たちに求めておられた態度は、それとはまったく違うのじゃないかと思うのです。

私は、やって当たり前のことを、自分がしていると思っているから、やって当然という態度になってしまうのではないか。でも本当か。自分のやっていることだけを見て、やっているという顔になって、でも本来やって然るべきことはシレっと見過ごして、また気づいてないふりさえしてないか。左の頁29節で神様が求められる掟はこれだとイエス様がおっしゃった律法があります。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」そして「隣人を自分のように愛しなさい」。私は、神様のものを返しているのか。返してないと思ったのです。あるいは神様に返そうにも、なくしてしまって、どうやって取り戻せばよいのかもわからなくて、返せなくなってしまった愛や、心や、思いがある。神様から、あの人を愛するためにと与えられた愛を、自分のために浪費して、主から、あの愛はどうなったと求められたら、どうお答えしたらよいのか。とてもまともに答えられない。それが御言葉に照らされて見える私なのです。

先に、歳晩礼拝は裁判の裁きの礼拝ではないです、と申しましたが、それは、裁きなんて考えなくていいということではありません。むしろ裁きを考えない礼拝、また生き方は、やがて生きている者と死んだものとを裁かれる再臨のキリストを信じない態度にさえなるのです。

しかし、ここが一番重要なところですが、キリストの裁きは、人間がいつも間違った態度で行う裁きとは決定的に異なります。聖書が教える裁きの態度は、人となられた神様ご自身が、十字架で罪人の身代わりに受けられた裁きに、ハッキリ明らかにされたからです。罪は罪として、裁かれなくてはなりません。けれど、その罪の負債を、私たちは人にも神様にも負っていて、それを返してくれと言われても、返せない負債があるのです。私たちの罪によって、本来その人が受けるべき幸せや愛や優しさを奪われてしまった人から、あなたに奪われた私のものを返してくれと言われたら、返せるのでしょうか。人にも返せないのに、神様のものを奪い続け、損ない続けて、積もり積もって山となった罪の負債、人生の負債を、私たちはどうするつもりか。返したくても返せない負債を、死んでも返せない罪の負債を、どうしたらよいのか。

だから神様が罪なき命を、私たちの身代わりに支払い償って、負債を償って下さったのです。永遠の御子を裁き死なせることで、罪に対する当然の報いを、神の子が返済されたからです。そして返済し終えて償い終えたしるしとして、天の父は、御子を死から復活させられて、全ての人の裁きの権限を、御子に委ねられました。その命で、全ての人の罪を償われたクリスマスの御子、主イエス・キリストにです。

その御子の十字架の裁きを思う態度で、「神のものは神に返しなさい」との御言葉を聴くとき、十字架は厳しいけれど優しい裁きであることを知るのです。罪に厳しく、御子にも厳しい十字架が、なのに私たちには限りなく優しく輝く、赦しと憐れみであることを知るのです。神のものだけど返さなくてよいのではなくて、神様のものは返すのが当然なのに返せない私たちを深く憐れんで下さっている主の前に、十字架の赦しの前に、信じて立つことができるからです。

それが献金の姿にも現れます。当然、返すべきを、返せない貧しさにある私を、主が憐れんで、負い目を負ってイエス様が返して下さった。だから感謝のしるしです。そして献身のしるしなのです。どれだけ身を献げても、それで返せるわけではありません。でも返す。精いっぱい、お返ししたいという態度として現れる。それが献身です。そこに、身をもって捧げられる感謝が現わされます。返せない負債を返して下さった主の招きに答える姿勢。神様の喜ばれる礼拝の姿勢がそこにあります。