マルコによる福音書12章1-12節、詩編118篇19-29節「愛は最後まで期待する」

19/12/15待降節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書12章1-12節、詩編118篇19-29節

「愛は最後まで期待する」

イエス様は、譬えで話し始められました。「始められた」というのは、後で、先に読みました旧約聖書を引用されるからです。この話が裁きで終わる話ではなくて、裁きを受けて然るべき者が、なのに救いに招かれているという、神様の不思議さに、驚くばかりの恵み、アメイジング・グレイスに気づいてほしいからです。目が開かれてほしいのです。正義の裁きを受けて当然、という話なら、イエス様から聴くまでもないことじゃないでしょうか。そこに神様の救いがあるでしょうか。人間だけで事足りてしまうのじゃないか。でもそこに、クリスマスはないのです。人間の怒りや不満、裁かれて当然だと思って赦しの光が届かない世界にこそ、神様は人となられ、罪を負うために来られたのです。

そこで光の中に身を置くよう招かれ語りかけられたのは誰でしょう。私には赦しは必要ないと思う人。それが譬えによってイエス様が語りかけられた当時の指導者たち、祭司長、律法学者、長老たちでした。

譬えとは、そこに自分の身を置いて初めて、わかる話です。これ、私のことじゃないか?と気づくところで、その私に注がれている赦しの光に気づくのです。その中に、一緒に身を置いて、そこでイエス様が語られた、熱心に、わかってほしいと語ってくださった神様の愛に、改めて心を潤したいのです。神様の赦しの光に照らされたいのです。

この譬えを聴かれて、皆さんは、どんな印象を持たれたでしょうか。私は何度も読んだ御言葉ですが、改めて読んで、このブドウ園の主人は愚かだと思いました。何度も同じことを繰り返すのです。因みに、この主人は神様のことです。神様なのに愚かなのです。どうしてそんな話をイエス様は聴かせて下さったのか。神様に対して無理を通しても何とかなると考える人間の愚かさと、その結末から、本当に私たちを救い出すのは、神様の愚かさだということを、信じてほしいからでしょう。

この譬えの中で愚かであるのは、しかし、主人である神様だけに留まりません。不思議なほどのこの愚かさは、主人の使いたちにも伝染してしまっていて、先に送った使いがひどい目に遭ったのに、それでも農夫たちのもとに行くのです。使いは侮辱され続け、殺されさえする。それは旧約時代、神様に逆らうイスラエルの民に遣わされた預言者たちのことを意味しますが、同じことは、教会の時代にも全く当てはまります。ですので、この譬えは、当時の祭司長たちだけに当てはまる話だと聞いてしまうと、だから何?という話になってしまうかもしれません。教会の歴史は、実にこのことの繰り返しでもあったのです。

先日の十市クリスマスコンサートで、ガブリエルのオーボエという曲が演奏されました。フィギュアスケートでもよく使われる曲だそうで、ご存じの方もおられるでしょうか。33年前に作られた映画ミッションの挿入歌であると演奏者が説明をしてくれました。私の大好きな映画でもあります。イエズス会の宣教師がオーボエを吹きながらアマゾンの奥地に入っていって、言葉の通じない人々に、でも音楽なら通じるんじゃないか、そして神様の愛もきっと通じるはずだと信じて、その前に行った宣教師が殺されたのに、それでも行くのです。そこに住む人々に神様の愛と救いを伝えるために。彼らに救われてほしいから。そのために命を捨てて行くのです。自分ことを考えていません。愚かじゃないでしょうか。この世界では、学ばないで繰り返し同じことをする人を、愚かだと言います。私たち自身、そういう愚かさを知っていると思います。同じことを繰り返して、ちっとも学ばんことがあるのです。でも宣教師たちは、きっと学んでいるのです。わかっているのです。死ぬかもしれないと。それでも行くのは、今度こそ、わかってもらえるんじゃないかと、希望を持って行くからです。何も考えてないわけではない。本当に考えるべきことを考えて、考えた末、希望が勝つと知るのです。今度こそと信じる信仰が勝つのです。

神様と同じように愚かになってしまうとも言えるでしょう。神様は、神様ですから、無論、知らんわけではありません。聖書を読んで私たちが知るのはそのことです。裏切られ続ける神様です。なのに神様は、人の救いをあきらめないのです。今度こそわかってくれるだろう。信頼と愛に答えてくれるだろう。そんな神様に私は愛されているのだと、理屈でなく知ってしまったら、同じようになってしまうのです。

そうやって私たちの国にも宣教師たちが来ました。そして私たちにも福音が届きました。救いが届きました。だから、ここに教会が立って、私たちは、ここでキリストを礼拝しています。実に私たちが捧げている礼拝は、その神様の愚かさの勝利のしるしなのです。

映画ミッションで引用される御言葉があります。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(コリントの信徒への手紙一13章13節)。この信仰と希望と愛が勝つことを、私たちもまた信じて前に進むのです。

それぞれに、思い出してほしいと思います。私が今ここにいるのは、誰かの愚かさのおかげではなかったかと。愚かな誰かが、私に断られるかもしれないと思いながら、それでも拒絶される恐怖を捨てて、自分を捨てて、希望を選んで、誘ってくれたからじゃなかったか。そうやって愛を選んだ愚かな人がいたからじゃなかったか。私は、どうするのか。

それは主の僕たちによって繰り返されます。神様がそうだからです。拒絶されても愛することを、受け入れることを選ばれる神様です。拒絶されると知っていながら、けれど、その拒絶を、じゃあそっくりお返ししてやると、あるいは人間がそうするように、仕返しすることは望まれんのです。

確かに人は、自分の蒔いた種は刈り取ることになります。捨てるなら捨てられる。自分のしたことが、そのまま報われる。あなたは、それをしてよいと思ったのだろう、それがあなたの選んだ正義なら、その正義を受けよと、同じ報いを受けることで正義の裁きがなされると、確かに聖書は教えます。

だからこそ、です。その正義の神様は、しかし、それならば誰が一体救われるだろうかと、人間の罪と正義の報いとの間に、稲妻のように割って入って来られた。それがクリスマスなのです。神様を捨てた報いとして捨てられるのが当然の人間を、神様は、なのに見捨てることができなくて、だったらわたしが身代わりになると、身代わりに人となられた神様が、わたしは、また!捨てられていいから、神を捨てる罪の責任はわたしが拾うからと、十字架で裁きを受けて捨てられて下さった。神様が人として身代わりに捨てられるなら、あなたは捨てられなくてもよいからと。捨てられてくれるな!わたしが身代わりになると、神様が人となってくださった。それがクリスマスの恵みであるのです。

人となられた神様は、最初から十字架を目がけて来られた。私たちの救い主として、捨てられに来られたのです。

それが、この譬えの後で、ここをこそ目指してイエス様が語られた、10節の預言の御言葉の意味でした。

「家を…」

家。神の家。神様の家族として一緒に生きるはずの神の民です。その家を、でも人々は神様からも、自分たちからも奪って強盗を働いていたのです。パレスチナの石造りの家で、親石として必要な揺るぎない石。家全体を支える石。それはイエス様じゃないと、人々は捨てたのです。赦して救う救い主など必要ない。馬鹿にするなと思って捨てた。そして救い主は捨てられてしまう。神様の愛は捨てられてしまうのです。

その捨てられた神様が!なのに、その捨てた人々の罪を、償い赦して救う救い主として、永遠の神の家を建てる揺るぎない土台として選ばれていた、人となられた神様イエス・キリストであることを、どうしてもわかってほしくて、主はこの譬えを語られたのです。そのゴールに目を向ける中でのみ、大変厳しく聞こえる9節の、農夫たちへの裁きの言葉も、十字架の光の中で聴けるのです。

9節でイエス様は「さて」と、譬えをまるで遮るように、聴く者たちに問いかけるのです。実際、マタイによる福音書では、人々が、この問いかけに、そら、殺されるでしょうと答えて譬えは終わるのです。マルコは、それを一貫してイエス様が語り、言わば人々の意見を代弁する形で記します。そうだろう、それが考えうる当然の結末だろうと。

しかし、です。殺された腹いせに、殺すのであれば、不思議でも何でもないのです。この世界でずっと繰り返されてきた愚かな罪の悲劇が、そこでも繰り返されたという話で終わるのです。そこには何にも始まらない。神の子は、その悲劇を止めるために来られたのです。人間が思い描く当然の結末は、神様の犠牲によって、全く違う結末になるのです。だから神様は御子を与えられたのだ。罪を赦して救われるのだと。

それを聞いた人々は、自分たちに当てつけて、この譬えを話されたと思いますが、「当てつけて」という翻訳は手垢がついた言葉です。祭司長たちの気持ちに感情移入し過ぎたのでしょうか。直訳は「彼らに反対して」という言葉です。彼らは、神様が求めておられた道と違う滅びの道を歩んでいた。そして指導者として、民をも違う道に迷わせていた。だから!当然、人となられた神様は、その道に反対して言われるのです。その道ではいけない。その道に進むことは、滅びを意味すると、無論、反対されるのです。何でもかんでも受け入れて、肯定して、そうだね、そういう道もあるねと言うのは、無責任な人間の言うことです。そんな大人から子供たちも学ぶのでしょうか。その背後には祭司長たちと同じ恐れがあるのです。人から拒絶されたくないという恐れ。けれど自分は変わりたくないという罪。変わりたくない。そのどうしようもない罪をキリストが負われたのです!背負って、変わって下さったのです。神様が、死ぬ人間になられて、これを解決されるのです。すぐには変わらなくても、このアドベントキャンドルの光のように、一本ずつでも、光は増えていくのです。そして罪の愚かな闇の暗さは、神様の愛の愚かさによって負けるのです。人はその恵みを愚かにも信じてよいのです。