マルコによる福音書12章18-27節、出エジプト3章1-6節「復活は神様の愛の力」

20/1/5主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書12章18-27節、出エジプト3章1-6節

「復活は神様の愛の力」

新しい年を迎えた新年の礼拝で、復活の御言葉を聴く。ここにも神様の粋なお計らいを見る気がします。その神様とは対照的に、復活を信じないサドカイ派と呼ばれる人々は、言わば復活を信じるなんてと馬鹿にするような話を創作して、ほら、だから復活なぞ信じるのはおかしいとチャレンジを試みます。お正月に色んなテレビをやっておりましたが、中でも多いのは、笑いを中心にした番組でしょうか。でも、中には人を馬鹿にして笑うものもあることを、皆さんも感じられたのではないかと思います。イエス様にバタバタと人が死ぬ話を聞かせて復活を馬鹿にした人々は、どんな顔で話をしたのかと思うのです。そしてその人々に、あなたがたがそういう思い違いをするのは、聖書も神様の力も知らないからじゃないか、それじゃいけない、知ってほしいんだと、御言葉から復活の恵みを熱心に証なさったイエス様の御顔をも、また思うのです。知らないことを馬鹿にせず、知らないのなら、知ってほしいと願われる救い主の心によって、私たちも復活の恵みを知って信じたのです。主が私たちを死者の中から復活させられると信じるとは、どういうことか。生き方が、信じる前とは変わるということです。死んだら終わりだ、という生き方から変わらざるを得なくなるのです。言い方を変えるなら、復活を信じるとは、自分が変わること、神様によって変えられることを恐れなくなる、むしろその力を、祈るようになるということでしょう。御国を来たらせたまえとは、神様のご支配の力を見させて下さいという祈りでもあるのです。

ここに登場したサドカイ派の人々は、でも、それを求めないのです。先週のヘロデ派とも似て、今がすべて。この世で祝福を得るかどうかの現世利益が、彼らにとっての祝福、信仰、宗教であり、神だからです。ですから、イエス様の存在は都合が悪い。サドカイ派は、神殿で犠牲を捧げたりの儀式を行う祭司たちが多かったそうです。決まったシステムに従ってやっていれば生活は保障され安定している。しかも神殿があるエルサレムはローマ総督ピラトのもとで一応平和なので、彼らにとって困るのは、今の生活と信仰を変えなければならなくなる言わば宗教改革を起こされることなのです。復活を信じるファリサイ派から、そら批判はされているけれど、それでも自分を宗教的に正当化できる聖書解釈も持っていて、不満はあるけど、やっていける状況に今はある。でももしイエス様が民衆のリーダーになって、偽善はいかん、癒着もおかしい、悔い改めて純粋に神様を愛して隣人を愛し、貧しい人を無視せずに共に生きる、神様のご支配に従おうという生き方が、国全体を変えてしまう大きな運動になったら、自分たちは変わらなくてはならなくなる。

例えばそれは今度パラリンピックが日本で開催されるにあたり、公共の建物、駅、道路、何もかもにバリアフリー化が求められていますし、大変良いことですが、それを行政や交通機関やホテルだけに、当たり前だと言うのではなくて、もし、それは国全体の責任だから、例えばそのための税金を設ける等、私たちの生活に少なくない負担・変化が求められたら、どうなるか。オリンピックらあ招致するきよと文句が出たり、一年たったら熱が冷めるき、何か言い訳して工事を伸ばしたら、全部がもとに戻らあえ、ということになりはしないかと危惧をします。そら、その人たちにとっては変えた方がえいろうけど、大変やきと、自分の大変は我が事に感じても、人の大変は他人事で、自分の大変が先に出て、言い訳も出てくる。今のままでと甘えも出る。来週の御言葉に出てくる「隣人を自分のように愛しなさい」という天の父の御心を後ろに引っ込める自己中心の罪が、変わりたくないという思いの背後にある。

復活も、私にはこれが必要ですという我が事にならないと、現世利益を求めるサドカイ派の罪によって、意味を奪われるのだと思います。

そりゃ、死んで終わりなら、現世利益になるでしょう。天に宝を積みなさいとイエス様は言われましたが、復活を信じないなら、神様から、良くやった、わたしの忠実な僕よと報われることを信じて自分を捨てるのは、捨て損です。だったら自分を守ればよい。死んで終わりなら。

それは聖書の扱いにも現れるのです。自分の思い、主張、今の自分を正当化するための、都合の良い読み方を、聖書に押し付けてしまう。

それに対して、主は言われました。それは、聖書も神の力も知らないからじゃないかと。復活についての考えも、単に今の世の時間延長だと思い違いしているからだ。それは違うと言われます。人が死者の中から復活するだけでない、むしろ世界全体が、永遠の罪のない世界に新しく変えられる世界では、生活の中に結婚がなくなる。それだけでなく天使のようになる。罪を犯さず、神様と人に仕えて、自己中心でなくなる。赦せないとか、自分の思いを通したいという、自分自分の罪の腐った感情が、古い世界と共に裁かれ滅ぼされ、消え失せるからです。残るのは愛です。ただ相手を愛し、神様を愛して、その名を愛と呼ばれる神様の賛美に満ちる。神様のものとされて良かったねという祝福のみが永遠に満ちる世界。それが天使に象徴される、復活です。

そして、聖書も神様の力も、知らないのなら、知ってほしいと引用されたのが、先に読みました旧約聖書で、神様が、わたしは誰であるかとご自分を現わされた「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という御言葉です。これは、昔アブラハムという人がいて、イサクという人、ヤコブという人がいて、その人たちは神様を信じた、数ある八百万の神々の中から、正しい神を選んで信じたが、あの彼らの選び信じた神がわたしなんだ、ということではありません。むしろ全く逆に、御言葉によってこの世界をお創りになられ、世界に住む一人一人に息をお与えになられた主なる神様が、その世界を救われるご意志の中で、神様がアブラハムを選ばれて、イサク、ヤコブを選ばれたのです。私たちが選ぶのではない。そもそも生きることを、私たちが選んだから生きるようになったのでもないし、死んで復活をするかどうかも、一体誰が自分で選ぶことができるのか。神様が選ばれるのです。そして選ばれたのです。人間を。聖書の扱いをも選ぶような、復活するかどうかも自分で信じるかどうかを選ぶんだと、聖書の何たるかも、神様の力の何であるかをも知らず、思い違えて、それを自分の力でどうするか選べると勘違いしている人間をさえ、神様は、赦して救うと選ばれるのです。キリストによって、その自己中心の罪と裁きを十字架で奪い取るのだと選ばれたのです。その力を、あなたは知らないのなら、知ってほしいとキリストは求められて、裁くのではなくて、愛されて、御言葉によって今も語りかけられる。それがアブラハム、イサク、ヤコブの神であり、わたしは主、あなたの神だと、ご自身を現わされる神様だからです。

その神様が、アブラハムに、起き上がれ、わたしのアブラハムよ、と呼ばれたら、アブラハムは起きるのです。神様にとって、わたしのアブラハムは死んでないからです。神様が、起き上がれ、わたしの森田光子よと呼ばれたら起き上がるのです。わたしの大石尚貴よと呼ばれたら、復活するのです。そうやって私たちの名を、生きておられる神様が呼ばれて、起きよ、わたしはあなたの神だと呼ばれたら、私たちも起きて、罪なき体と心に復活して、永遠の命と愛に生きるのです。

人間がどうにもできない罪と死を解決される、この神様の恵み、恵みの神様を、知ってほしいのです。この恵みに、キリストの十字架の愛に身を委ねる命を、主は、その御力によって変えられるからです。だから私たちは御国を求めます。復活が、私たちに選ばれた命だからです。