マルコによる福音書8章1-21節、エゼキエル書12章1-7節「見えていますか救いが」

19/7/21主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書8章1-21節、エゼキエル書12章1-7節

「見えていますか救いが」

少し長く、三つの出来事をまとめて読みましたが、主題はつながっています。イエス様を救い主として信頼できない人間の不信仰。そして、その私たちを深く憐れまれるイエス様の憐れみこそ人となられた神様、救い主のしるしであるという主題です。イエス様の深い憐れみの内に、救い主であることが現れているから、その憐れみを見て、信じればよいのだと御言葉は招くのです。

2節でイエス様が言われた「群衆がかわいそうだ」と訳された言葉は「わたしはこの群衆を深く憐れむ」あるいは「はらわたがわななく」という言葉です。聖書でイエス様にだけ用いられる、救い主のしるしとも言える言葉、神様の断腸の思いが見える言葉です。

ところで、この4千人にパンと魚を分けた奇跡は、6章の5千人への奇跡と、うんと似ていますが、実はそこで登場する群衆が、ハッキリ異なるのです。先の5千人の時の群衆はユダヤ人。そして今回の群衆は、おもに異邦人。当時のユダヤ人は、自分たちは神の民だが、異邦人たちは汚れているし救われないと、神様中心でなく自分中心に考えてましたから、そこからするとえらい違いなのです。でもイエス様は全く差別をなさらない。むしろ同じ言葉で「深く憐れまれ」たと聖書は証します。そこにイエス様が、全ての人の罪を負うために、私たちと同じ人となられた神様である!という救いのしるしを見るのです。

この「しるし」というキーワードは11節に出てくる言葉ですが、記号あるいはサインと言える言葉です。ラーメン屋に行くと、たまに有名人のサインを壁に掛けていますが、何と書いてあるのか分からない。文字なのか?ホント記号のようなウネウネなんですが、それと似たのをうちに来られる宅急便の方は毎回見られます。これにサインお願いします。ウネウネ。ありがとうございました。本当にそれでいいのか?と、私が不安になるのですけど、わかる人にはわかる。それがサインです。

先に読みました旧約聖書では、預言者エゼキエルの行動が、人々に対するサインとなっていました。意味があるのです。その意味を求めて欲しくて、主は不思議な行動を預言者にさせたのですが、意味がわからんと、は?となる。あるいは、私には関係ない、と意味を求めもしない。

弟子たちも、相手が異邦人だろうと誰だろうとイエス様から注がれる救い主としての深い憐れみを見たのに、は?けんど私たちに、この群衆を、どうせえと言うがですか?と、わからない。イエス様のお気持ちがわからんと、救いも何もかも、やはりわからんのです。

ファリサイ派の人々も、救い主ならサインがあるはずだろう、それを書いてくれ、出してくれ、そしたら見分けられるからと言うのですが、彼らは、そのサインを、どんなサインだと思っていたのでしょう。自分らはそれを見分けられるという自信があるから言うのでしょうけれど、でも何を根拠に、これが救い主だというサイン、あるいはこれが救い主だというイメージを、自分は信じているのか、自問したことがあるのでしょうか。自分が信じていることは、実はそう信じ込んでいるだけじゃないかという自己批評、自己吟味を謙遜に行ったのでなかったら、自分が正しいと信じている神や救いのイメージに対して、ならそれが正しいと分かるしるしは何か?と、逆に問われるんじゃないでしょうか。

もし自分の心で感じる確かさの感覚や安心感があるからと言うなら、そうした確かさの感覚がどれだけ自分を欺いてきたか、まだ悟ってないということになるんじゃないかと思うのです。

例えば家に帰ったら、消したはずのエアコンが頑張ってたり。今日は絶対降らんと確信を持って干した洗濯物が水没してたり。安全運転しているつもりが、全く横を見てなくてぶつかりそうになったり。行ってきます。忘れもんない?と聞かれて、ない!はずだったのが、あったり。私たち、そんなに自分は信じられんということを、知っているはずなのに、その自分を、頑なに信じることがあるのです。

大学で社会学の授業を取っていた時、差別の仕組みを学んだことがあります。人は差別する時、自分が差別している相手には、差別され嫌われて当然の理由があると、その証拠をすぐに見つけて、ほら、と自分が正しいことを強化する。そうやって自分が正しいと信じていることは、やっぱり正しいと強化するのだと学び、これは他人事じゃない、人間は自分の正しさにおいて罪深いのだと思わされました。

自分が信じていることを証明するしるしなら、すぐ見つけるのです。でも自分が間違っていることを証明するしるしは、目の前に見ていても見ていない。というか目には見えているのに、心に見えていない。意識されなくて、求めてなくて、だから見えない。別の何かに、こだわっている自分が、目の内側に立ちふさがって、見るのを邪魔するのです。

私たち、もし自分は正しくない、間違っていると証明する証拠が出てきたら、自分が間違っていて、相手が正しかったと示す、そのしるしを信じるでしょうか?

つまり信じる問題は、何を信じるかより、それを信じるか信じないかの根拠、大前提としての、誰を信頼するかの問題なのです。しるしを見て、いや、そんなことはないと思う自分を信頼するか。あるいは、その通りだと言っている相手を信頼するか。自分が誰を信頼するかの問題。そこで自分を誰に委ねるかの問題なのです。自分に委ねるのか。相手に自分を委ねるのか。

イエス様を試そうとしたファリサイ派の人々は、前の頁の7章で自分たちが信じていた救いに対して、それは昔の人々の言い伝えに過ぎないとイエス様に諭されたこともあって、聞き捨てならんと。じゃあお前が本当に救い主なら、その証拠を見せろ、試験官として判断してやろう、試してやろうじゃないかと、自分が信じていることを基準にする。誰が救い主で、何が本当の救いか、自分はじゃあどうして救われるのかを、判断してやろうと、救いをイエス様に委ねずに、自分に委ねるのです。

それと同じことを、人はしょっちゅうやっている。イエス様を信じる弟子たちでさえです。

だからイエス様は「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われました。

パン種とは、パンを発酵させ膨らませるイースト菌のことですので、ファリサイ派やヘロデのパン種が自分の心にないか、よく注意してないと、知らん間に発酵して増殖するだけでなく、膨れ上がると言うのは、慢心して傲慢になるということでもあるでしょう。自分は正しいということがいつも基準で、人を裁き、神様さえ裁いて、自分を信じる欲望が膨れ上がって、イエス様を信じることを邪魔するのです。しかも自分を信じる欲望がプクプクプクプク発酵して臭い。よくわかるイメージじゃないかと思います。

かたやヘロデのパン種の、ヘロデは、6章で登場したガリラヤ地方の領主です。6章で、ヘロデがイエス様の噂を聴いて、こう言うのです。あれは私が首をはねた洗礼者ヨハネが生き返ったのだ。これまた、自分がしたことに対するこだわりが、うんと強い。自分への執着心から全てのことを判断して、イエス様のことを聴いても、あれは私がやった…と私が邪魔をして、イエス様を信じることができない。自分。自分に執着するパン種。しかもその自分は正しい、自分の信じていることは正しいと心の中で膨れ上がって、見ていても見えない。聴いていても聴こえなくさせるパン種に、よく気をつけなさいと言われるのです。

またこれをイエス様が、どういう流れでおっしゃったかも大事です。舟に乗って向こう岸に行く途中、誰かが言った。え?パン入れた籠は?人が入るばあの籠に7籠もあったのに…忘れた。あるのは1個。空気が変わる。今にも誰かのせいにしそうな空気だったのでしょうか。

でもイエス様は、そうやって誰かのせいにして、愛する人々が互いに裁きあうのは耐えられない方なのです。そればかりか、確かにこれは、あなたのせいだと、罪の責任を負わなければならない、裁かれなければならない罪の問題さえ、全部わたしのせいにしてえいき、赦されて、また人を赦して、家族として一緒に生きて行こうと、天の父もそうやって赦してくれるき、わたしのせいにして、あなたを赦して、神様の子供として生まれ変わらせて、本当に永遠に家族として生きてくれるがやきとイエス様は、十字架の赦しと救いを与えて下さる救い主なのです。

そのために来られたイエス様が、そんなパンを忘れたがは誰のせいなとか、そんながにこだわるがやのうて、もっと気をつけないかんパン種があるろうと、自分の正しさにこだわるパン種、また自分がしたことにこだわって、神様も救いも見えなくさせる、自分自分のパン種にこそ、注意しなさいと言われた。きっとユーモアを交えながら、笑顔で言ったと思うのです。だってイエス様が弟子たちと共におられるのです。パンは何とでもなるのです。

なのに弟子たちは「これは自分たちがパンを…」と、どうしても自分自分の話になってしまう。この弟子たちの頑なさを、私とは無関係だと言える人はおらんと思うのです。

でもならばこそイエス様が、そんな私たち全ての人の救い主として、十字架で、このどうしようもない罪を、自己中心性を、そのために人を傷つけ、神様を傷つけ、自分を傷つけて、なのに自分は正しいと信じてこだわる罪人の私たちの、一切を引き受けて、償って下さったのです。深い憐れみによって、自分を捨てられない私たちの代わりに、ご自分を捨てて下さった救い主が、でも、じゃあ、あなたがたはそのままでいいというのではなくて、その神様の救いを、信じて、信頼して欲しくて、まだ悟らないのかと求められる。それが、その名を愛と呼ばれる神様の救いであるからです。その深い愛が、この私に向けられているのだと、一人一人が自分のこととして、受け入れること、委ねること、信じることを、あきらめないで、求め続けて、見捨てないでいて下さる。

そのイエス様のもとで、だから私たちは今日も、その赦しの深さ、愛と救いの深さの内に、イエス様に自分を委ねることができるのです。