マルコによる福音書7章31-37節、イザヤ書35章「その人の身になる神様」

19/7/14主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書7章31-37節、イザヤ書35章

「その人の身になる神様」

イエス様に、耳の聴こえなかった人を連れて行った人々、この人々は耳が聴こえておったはずなんですけど、イエス様から「誰にもこのことを話したらいかんで」と言われたのが、まるで聴こえてなかったかのように、言い広めてしまいます。

何故でしょう。だって素晴らしいき、いかんと言われたけど、でも、素晴らしいことやいか、ということでしょうか。悪い噂を流しゆうわけではないのだからと、自分たちで思ったからでしょうか。私も、人の話を聴かんことがあるもんですから、わからんわけではないのですけど、でも「言わんとってね」と、誰かに念を押すこともある。だから、それを言われた時のイエス様の気持ちもわかるのです。この人々は、それがわかったのかなと思います。彼らはイエス様のお気持ちを果たして考えたでしょうか。考えなかったとしたら、人々はイエス様のことを、一体誰だと思っていたのでしょうか。

イエス様の言葉、神様の御言葉を、聴いているのに、聴かないという問題。これは特に、イエス様を私の救い主と信じて洗礼を受けた者たちにとっては、襟を正すような、あるいはシュンとなって、ごめんなさいと悔い改めを迫られるような大切な問題でしょう。でも、だからこそ、マルコがこの話を大切な話として、ここに記したということだとも思うのです。群衆が、イエス様のいないところで、したらいかんことをしたとか。またその群衆から、まるで引き離して、ご自分だけに引き寄せるようにして、イエス様が、耳の聴こえない人と一対一で向き合われた。そうでないと、本当にイエス様の言葉が聴こえてこない。イエス様と、一対一で向き合ってないと、聴いているようで、聴いてないってことが私たちには確かにある。その私たちに今も「開け」とイエス様は御言葉を語りかけて下さるのです。

イエス様が、人々に口止めをされた理由も、そこにあるのでしょう。相手がイエス様でなくっても、その相手と実際に会って、話を聴いて、またこちらも話をして、会話をせんことには、相手がどういう人であるのかが、やっぱりわからんということがあるからです。なのに、会って話をしてもないのに、相手をわかったつもりで好きなことを言うことが昔も今も多いのでしょう。人についても、神様についても。

だから、単に言葉を交わすだけでなく、会って話する〈会話〉が必要だと改めて思わされます。神様とも、人とも、一対一で、向き合って、しかも心と心が向き合うことを求めて、会話をするのです。

今朝の御言葉でイエス様が、耳が聴こえなくて言葉が通じない人と、でも心が通じるように、その人の身になって御業を行われた。イエス様が何をなさろうとしているか、目で見てわかるように。またそれだけでなく体にも触れて、しかも耳に指入れるって、なかなかできんですよ。舌に触れるのも、相手が舌を出さんかったら、触れられません。だからイエス様が手本で舌を出されたんでしょうか。こんな風にって。そして相手が出した舌に、ご自分の唾をつけた指で触れられるほどに、まるで親と子のような心と心の距離で、相手に触れられるのです。

またそれが本当に心と心の一対一の距離になるように、イエス様は、この人を群衆の中から連れ出して、この人に向き合われます。この人もまた、イエス様だけに向き合えるように、主と私という、個人的な関係のもとで、主はこの人に御業を行われるのです。

単に奇跡をなさって、人々が、わ~すごい!ってなることは、むしろ避けられます。それだと神様が私たちに求めておられる個人的で親密な関係を誤解して、え、神様って素晴らしいね、で終わったらいかんが?えいがやないが?と誤解してしまいやすいからでしょう。いくら神様は素晴らしい、イエス様は素晴らしいと思っていても、他の一般的な素晴らしいと同じように、私は、そう思う、素晴らしいと、になってしまうと、神様のお気持ちが、また神様との関係が、蚊帳の外になってしまうからです。

先週も申しましたが、この後で展開されていくのは、毎日イエス様を見て、イエス様と一緒におって、イエス様の話を聴いておった弟子たちでさえ、イエス様を誤解して、イエス様がわからん、という問題です。それで今朝の御言葉の出来事をイエス様が持ち出されて「耳があっても聴こえないのか?」と、弟子たちのために嘆かれるのです。イエス様の救い主としての言葉を、神の言葉を聴いているのに、聴こえてないからです。人の話を聴いているのに聴いてないのも、根の深い問題だと思いますけど、神様の言葉を聴いているのに聴いてない問題、これは一体、どうしたらよいのだろうかと、私は説教者として、神の言葉を取り次ぐ者としても、いつも考えるのです。取り次ぐ者として立てられた、私がまず、御言葉を聴いているだろうかと問われるからです。

まずは説教の問題として言いますけど、御言葉に語られる神様の言葉を説教者が聴いてなかったら、その説教が、いくら素晴らしいと思える話をしておっても、それは、神様が私たちに知ってほしいと願うことは伝えてないのです。おわかりでしょうか。神様の御心が蚊帳の外の説教ほど、虚しい話はありません。神様の言葉を聴いていないと、その人が話す言葉も、的を外した言葉になるからです。それは単に、話の構成でポイントがわからんという問題ではなくて、え、神様は?罪の赦しは?恵みは?イエス様は?という、福音が聴こえて来ないという問題です。神様という言葉は出てきても、え、その神様って、誰?という的外れの問題がある。的外れになっているというのが聖書の言う、罪という言葉の意味ですから、この問題は、単なる誤解ではすみません。

これは無論、説教の問題に留まらず、私たちの生き方が的外れになってないかに関わる問題です。というのは、私たちは、まず言葉を聴いて初めて、その言葉を語り、用いて、生きられるようにもなるからです。それが今朝の御言葉では、この耳の聴こえない人が、舌も回らなかったから、イエス様がその舌にも触られたと記してある理由でもあります。よく知られた話では、目が見えず、耳も聴こえなかったヘレン・ケラーが、それで言葉も最初は話せなかった。それをサリバン先生が我が身を犠牲にしてヘレンに教えて、聴いたことのない言葉を、指文字で教えるのですけど、ヘレンはその意味がわからない。それがある日、サリバン先生がガシャガシャ汲みあげたポンプの水にヘレンの片手を触れさせながら、もう片方の手に、水、水と指文字をつづった時、突如、ヘレンはその水という言葉が、今までも触ってきたし飲んでもきた、この冷たいものことなんだとわかって、これが水か!と、水という言葉と、実際の水そのもの!が結びついて、生きる世界が変わるのです。

私たちも同じく、神様という言葉、救いという言葉、罪の赦し、愛、キリストという言葉が、イエス様ご自身と出会って結びつく時に、あ、この方がキリストか!と、出会う。これが赦しかと出会う。そうやって私たちは真実の意味で、神様の御言葉に生きられるようになっていく。そしたら世界が変わるのです。的外れで虚しい世界や生き方から、その真実に出会う人生に変わる。それがキリストに出会うということです。キリストに出会い、キリストの御言葉が聴こえたら、その言葉を語って生きられるようにさえなるからです。

そして、その奇跡が起こるために、イエス様は、ただ耳に指を入れ、舌に触れられただけではなく、この人に全く新しい人生が開くために、天を仰いで、深く息をつかれた。天を仰がれたのは、無論、父なる神様に執り成し願われた、祈りの姿勢ですけど、そこで深い息をつかれた。これは、ため息と訳されることもありますが、聖書で多い訳は、うめくという訳です。例えばローマの信徒への手紙8章で、神様に造られた被造物全体が、言わば世界全体の救いを求めてうめいている。また救いの約束を頂いている者たちも、罪に苦しむこの体が完全に救われて罪の力と汚染から完全に自由にされることを、心の中でうめきながら待ち望んでいる。そしてその弱い私たちのために、三位一体の聖霊様ご自身が、言葉にならないうめきをもって執り成してくださっていると言われる。そのうめきを、イエス様が、ここで天を仰いでうめき苦しまれて、深い息をつかれる。それがイエス様なのです。苦しまないですむ力強い愛で救うだなんて、虚しい言葉だけの愛によって救う、絵空事の救い主ではないからです。

私たちが虚しい罪の生き方と、それ故の苦しみと裁きと滅びとから、私たちが救い出されて、償い出されて、私たちが本来生きるべき、神様の真実と永遠の命に生きられるようにと、イエス様は私たちの全ての罪を背負い、引き取って、十字架を負って私たちの身代わりに裁かれ死なれた。そのために人となられた神様は、その罪を負われて、またその罪に生きている私たちの苦しみを負われて、うめかれるのです。耳が聞こえなくて苦しんだ、この人の苦しみも負われたのです。全ての苦しみを負われたのです。負うために、人となられた救い主です。そのイエス様が、天を仰いで、そうです、父よ、わたしはこのために来たのですと、私たちの救いに向けて言って下さるのです。「開け」と。そこに、真実のいのちが、神の言葉に生きるいのちが開かれるからです。

そこで私たちが出会うイエス様との出会いは、その人その人にとって特別な、言わばイエス様オーダーメイドの出会いですので、比べることは無意味です。私はこんな風に出会ったから、あなたもそうあるべきというのは、それこそ嘘の意味を押し付ける的外れな考え方です。御言葉だけで癒された人もいれば、耳に指を入れてもらったり、泥を目に塗ってもらったりという人もいるように、色んなイエス様との出会いがあるからです。それは本当に豊かな恵みです。

だから、それぞれが受けた恵みを、教会は互いに分かち合って例えば今日は昼食を共にしながら、そういう時間を持つのです。どんな御言葉を聴いたか、どんなイエス様との出会いが与えられたか、あるいはその語り口がわからなくてシ~ンとしたら、皆でうめいたら良い(笑)。主が語られる御言葉を聴く。すべてはそこから開かれるからです。