マルコによる福音書8章22-26節、詩編36篇6-10節「少しずつ見える救い」

19/7/28主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書8章22-26節、詩編36篇6-10節

「少しずつ見える救い」

木のように見えた人って、どんな人やったがやおうと、ま、ちょっとどうでもえいことを、私はこの御言葉を読むたびに思ってしまうのですけど、ちょうど今年の「一粒の麦」の表紙の絵を、田中藍姉妹が描いてくださった。そこに姉妹が想像するペトロの髪型が、まあアフロみたいなモコモコした髪型で、私のペトロ像もそんな感じなんですが、ああ、それなら、木のように見えたかもな(笑)、うろうろ歩いてそうやもな、ペトロ(笑)と、一人で納得してしまいました。

今朝の御言葉は、何人かの人々がイエス様のもとに一人の盲人を連れて来て「触れて頂きたいと願った」ところから始まります。

触れて頂きたい。触ってください。そしたら癒されるでしょうから、ということなんでしょう。でも、もし彼らが思っている通りだったら、イエス様が、村の人々が色々と誤解をしたらいかんき、さあ、こっちに行こうと、村の外に連れ出すために、この人の手を取られた時に、もう触れちゅうのです。なら、ひょっと、この人を連れて来た人々は、あ、触れた、目が開けるろうか、どうやろか?って、この人をじっと見ておったかもしれません。

パワーストーン信仰みたいに、信じて触わるだけで力が働くのなら、もうその時点で目は見えるはずです。けれど単に癒されたらいいというのではなくて、本当に神様によって癒されるというのは、神様のパワーがとか力がというのでなく、そこには神様のお気持ちが働くのです。

神様を求める私たちの願いを、神様が聴かれて、神様ご自身がそこで癒しを願われるという思いの通い合い、一方通行ではない心の通い合いを、私たちの父なる神様は当然その家族に求められるからです。

ですので、以前、出血を患っていた女性が、イエス様に気づかれないように、そっとイエス様の服に触れて癒された時も、イエス様が、それに気づかないということはありませんでした。誰が触れたのかを、どうしても知りたくて、きょろきょろ見渡されて、その女性が、私です、と名乗り出るのを求められました。

そこに神様による癒しの目的がハッキリと示されています。人が神様に、救い主であるイエス様に出会って、この方が私の救い主です、私の神様ですと信じ受け入れて永遠に救われる。それが癒しのゴールです。そのゴールのために、キリストは人となられたからです。

ですので、サッカーで言えば、そのゴールの途中に、色んなプレイがあって、おお!と目を引くスーパープレイもある。それが癒しや奇跡と言えますが、サッカー見てて、そら、そういうプレイ見たい。でもそれがメインじゃなくて、メインはゴールです。地味なパスでつないででもゴールを求める。スーパーじゃなくても、それがベストプレイです。

ここに神様が教会をお立てになられて、その神の家に私たちがいる。そのゴールも同じです。礼拝のゴール、そこで御言葉が語られる目的、ゴールも、礼拝から私たちが遣わされて行く派遣のゴールも皆同じ。人がイエス様に出会って、イエス様を私の救い主と受け入れて歩む救いを共に歩むため。永遠に。それがゴールです。

目的、ゴールがハッキリしてないと、学校の勉強も、家の家事や、外での仕事も、礼拝生活も、何でこんなことをしなければならないのかということに、なりやすいんじゃないでしょうか。

目が見えなかった人をイエス様のもとに連れて来た人々は、どのようなゴールを求めて、この人を連れて来たのでしょう。この人が癒されることか。あるいは癒しのスーパープレイを見ることか。それともこの人が救われることか。

言い換えれば、イエス様を、癒してくれる人と見ておったのか。それとも罪の裁きから救い出して下さる救い主として信頼していたのか。

ここが急所ですけど、癒すことのできる方だとイエス様を見るのは、間違いではないのです。ただ、見え方が、まだボンヤリしている。

目の見えなかった人が、最初に目が開けて「人が見えます。木のようですが、歩いているから、木じゃないとわかります」と言った。それと同じように、イエス様は、癒すことができるから、ただの人じゃないとわかりますけど、でも赦しとか十字架とか、何か私にはハッキリしなくて、その救いがよく見えません、という見え方はあるのです。

その私たちが、ハッキリ見えるようになるまでイエス様は導かれる。それが今朝の御言葉の急所ですが、このテーマは次の27節以降にも続いて行きます。人々はイエス様のことを色々に言うのです。色々に見えている。洗礼者ヨハネに見えていたり。預言者エリヤあるいは他の預言者に見えていたり。ペトロには、救い主メシア、キリストに見えているのですけど、けど、そのメシアは十字架で死んだりしない、言わば強い、無敵で、人の罪を背負うとか、犠牲とか、そういうんじゃないメシアに見えているのです。イエス様の救いが、ボンヤリとしか見えない。

そんな私たちを、イエス様は、ボンヤリ見えているままで放置はなさらんのです。これっぱあ見えたら、えいえい、後は自分で頑張れ、ではない。

私たちのイエス様との歩みも、これっぱあ信じちょったらとか、これっぱあ神様がわかっちょったら、イエス様がわかっちょったら、聖書がわかって、信仰の基本がわかっちょったら…というのは、ないのです。

言い方を変えれば、結婚がゴールではなくて、家族となるスタートであるように、洗礼もゴールではなくて、スタートです。ゴールは永遠に罪も後悔も悲しみも苦しみもない、キリストに抱かれて復活して永遠の命に生きる、それがまさしくゴールです。

私たち、自分たちの命のゴール、また信じて救われて歩むゴールを、どこに見ているでしょうか。イエス様が見ておられるゴールを、一緒に見ているか。イエス様がキャプテンとして率いる同じチームで、キャプテンが見ている同じゴールを見て、同じ試合を走っているか。そのことを求めて、主は私たちの只中で、今も御業を行って下さっています。

最初はボンヤリと見えている。そういうものです。イエス様も、人が木のように見えると言ったこの人を、別に怒ったりはされません。最初からハッキリは見えんもんです。私もそうでした。前に言いましたが、私が最初に見ていた三位一体は、一人三役に見えていて、それは既に3世紀に教会で異端とされていた見え方だったと知って、うわ、危ない、俺、異端の見え方を人にも教えよったと、ゾッとしました。

でも、もし自分にはハッキリ見えているんだと誤解したままだったら大変なことになる。例えば、神様を、自己責任の神だと見間違えたり、イエス様の救いは何をやっても赦される救いだから何をやっても良いんだと、罪の裁きをボンヤリ見てるのに、いや、私に見えているのが事実だと思い込んで、それが行動に出ることはあるのです。

これも前に、お話ししたことがあると思いますけど、妻がまだ東京で仕事をしておった時分、夜遅く仕事を終えて、ヘトヘトになって、駅に向かっていると、道の向こうから白いフワフワした小犬がタタタタっと転がるようにして妻の方に走って来た。かわいいと思って、しゃがんでその犬を抱きしめたら、小犬やなくて、コンビニのレジ袋だった(笑)。ボンヤリ見え過ぎやろ(笑)と。

こういう話なら笑えるんですけど、私たちが、これがイエス様だと抱きしめているイエス様像が、本当に聖書で証されている唯一の神様、人となられた三位一体の子なる神様なのか、どうか。それはイエス様の前に自らをお委ねする他はないのです。そしたらイエス様が御言葉によってご自身を啓示して下さって、私たちが段々とでも、見えるようにして下さるからです。そしたら、ありのままのイエス様を見て、世界もまたイエス様が見ておられるように、段々、見えるようになっていく。

24節で「見えるようになって」と訳された言葉、これは「見上げた」という言葉です。

1枚右に頁をめくった7章34節、左の頁下の段で、耳が聴こえない人をイエス様が癒された時に、「天を仰いで」と訳された言葉も、同じ言葉です。また更に1枚右に頁をめくった左側上の段で、イエス様が5千人にパンと魚を分け与えられた時も、41節で「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで」と、天の父に向かって祈りを捧げられた時、同じ言葉が用いられます。私たちもそのイエス様と同じように見上げるのです。イエス様が天の父を見上げられて、父を信頼する信仰の眼差しのもとで、父の御業を、子としてなさったように、私たちも、同じ信仰の眼差しによって、父の御心を求めるところで、父の子として、救いの御業に生きられるようになるからです。

最後に、もう一つ、同じ言葉が用いられているのは、今度は左の方に頁をかなりめくって16章。97頁の方が多いと思います。16章4節で、イエス様が十字架で死なれた後、墓に葬られた。その墓の入口を塞いだ大きな石をどうやって転がしたらよいだろうかと、まだイエス様の復活を知らない婦人たちが話し合いながら墓に向かって歩いていると、4節「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった」と、言わば、これが私たちの見るべき神様の救いの現実だと、私たちは見るべきことを見ないで、どうしよう、どうしようと人間のことだけを見て悩んだりするけど、神様の救いの現実を見上げる時にこそ見えてくる、この世の現実があるのです。それはキリストが私たちの罪と死を背負い切られて、身代わりに裁かれ切って、死に切ってくださって、その死を終わらせてくださった、キリストを死に閉じ込めた墓石は吹っ飛んで、キリストは私たちのために復活された!という現実です。

その神様の救いの現実、キリストの復活の光のもと、十字架の赦しのもとにある、この世の現実が、ただキリストのもとで、段々と見えてくるのです。その現実に私たちが救われて生きられるために、そのゴールのために、主は生きて御業を行ってくださるからです。だから私たちは目を上げます。ゴールに向けて。キリストに向けて。その御手の働きは今日もなされるからです。