マルコによる福音書7章24-30節、詩編86篇「恵みを受ける心の態度」

19/7/7主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書7章24-30節、詩編86篇

「恵みを受ける心の態度」

言葉の選び方、また聴き方って、難しいなと思います。下の段29節の「それほど言うなら、よろしい、家に帰りなさい」と訳された言葉も、何か違和感と言うか、イヤイヤ感たっぷりの言葉に聴こえるの、私だけでしょうか。もう本当は嫌やけど、それほど言うなら、しょうがない、という感じに、どうも聴こえてしまいます。

何故こういう言葉に訳してしまったのかわかりませんけれど、直訳は「その言葉を通って行きなさい」または「その言葉の故に行きなさい」という言葉です。言わばイエス様が、ああ、それは良い信仰の言葉だと喜んでおられる言葉とも言えるのです。

「家に帰りなさい」と訳された言葉も「行きなさい」という、弟子が派遣され、遣わされて行くような言葉でして「誰かのもとで導かれる」という意味の言葉です。この福音書では、例えばイエス様が復活されたことを他の弟子たちに知らせに行きなさいと、イエス様の墓に来た婦人たちが天使から遣わされて行く時に用いられる言葉で、積極的な響きがあります。

たまにこうした翻訳問題がありますので、聖書の言葉で、ん?と思うことがあれば、まずは自分で調べたり、または牧師にお尋ねください。「それほど言うなら」とは言いませんので(笑)。

ただ今朝の御言葉には、イエス様が実際に使われた言葉を、どう理解するかの問題もありまして、皆さんも思われたんじゃないでしょうか。小犬という言葉。いくらイエス様でも、小犬呼ばわりは…と。

無論これにも理由や背景がありまして、先ず言っておくと決して侮辱されたのではありません。

では何でイエス様が敢えて、そういう譬えを用いられたか。一つにはギリシャ人は小犬が好きだから。少しチコちゃん入ってますけど(笑)、26節で「女はギリシャ人で」と、わざわざ書いてあるのはそれが理由で、イエス様は女性がギリシャ人で、その文化圏では小犬を可愛がって飼う風習があることをご存じだったようです。ユダヤ人は、犬は律法で清くないとされているので、家で小犬を飼う風習はないのです。それなのにイエス様は、ユダヤ人が聞いて嫌がる犬という言葉でなく、そんな人であっても、見たら、う、可愛いと思ってしまうような小犬という言葉を敢えて用いて、でもね、これ子供たちのパンながよと、おっしゃった。

「子供たち」とは、この女性も目の前に見ている弟子たちのことで、この時イエス様と集中して時間を過ごす必要に迫られておったのです。だから冒頭でイエス様がそこにおることを「誰にも知られたくなかった」と、敢えて記したほどだったんですが、気づかれて、女性がやって来て足もとにひれ伏して、言わばイエス様も板挟みの状態になられたのだと思います。右の頁を前にめくったところでも、疲れて休みを必要としている弟子たちの前に、救いを必要としていた群衆が現れて、イエス様、その群衆を見てグッと来て、放っておけんのです。今朝のところでも、イエス様、足もとにひれ伏した母親を見たら、グッと来ますよ。けんどこれ以上、弟子たちを後回しするわけにはいかん。イエス様からしたら言わば親としての責任がある。この女性も親ならわかるだろう。小犬は可愛くてたまらんけど、子供のパンを取り上げるわけにはいかないと。

ただし、なのです。イエス様は、ギリシャ人でありながらもイエス様を信じてひれ伏したこの女性が、ではどういう言葉で返事するのかを、敢えて求められての言い方をされたのかもしれません。拒絶したのではないからです。「まず」子供たちに、という言葉は、次は、を求めさせる言葉です。小犬という言葉もそうですが、言葉を聴くということには、相手をまず信頼するということが求められると思います。そもそも信頼してイエス様のもとに来たのでしょう。なら、小犬という言葉を使った意味も、まずという言葉の意味も、わかるだろう。そのあなたがわたしを救い主と信頼するというのは、救い主の何を信頼するのかと。単に、救い主かそうじゃないかの二択、○か×かで○と信じるのではなくて、その救い主の何を信頼するのか。単なる奇跡か。力か。何なのか。信仰の本質が問われている言葉だと思うのです。その信頼を、救いの主は、この女性だけにではない、私たちにも求められるのです。

あるいは、この信頼を、ひょっとイエス様は、ここで集中して教えている弟子たちに、これだ、この信頼だ!と、わかって欲しくて問うたのかもしれません。と言うのは、この後の展開で明らかになっていくのは弟子たちの無理解だからです。次の頁の下段には「まだ悟らないのか、心が頑なになって、耳があっても聴こえないのか」。左下には「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とイエス様から言われるほど、弟子たちは、イエス様を信頼するということがわからんのです。信頼しながらも、それを邪魔する自分のことで心が一杯になって、神様の一体何を信頼するのかが、すぐにぼやけてしまうのです。

でもその弟子たちが、イエス様の十字架と復活の福音を、救いの恵みの何たるかを、世界に、人々に、証していかなければならない。けれどその何たるかが、わからなかったら証できない。その弟子たちのためにイエス様が、ものすごく集中して、言わば集中講座の時を守られたのが今朝の場面です。イエス様による集中講座。私も受けたい。

その講座をイエス様に中座させるのではなく、むしろその講座の特別講師のようにして、遣わされたのが、この女性だったと言っても良いのかもしれません。それだけの信頼の言葉で、イエス様に応えるのです。

まず「主よ」と呼びます。自分が自分の主ではないし、自分が娘の主でもないのです。人は自分の命さえ救えんのです。私たちには命の主がおられる。その方に向かって「主よ」と呼ぶのです。

でもそれを、口で言うだけじゃない。彼女は主の前にひれ伏します。また、それを形だけひれ伏すのでもない。信じて、信頼してひれ伏したことが、続く言葉からわかるからです。主であられるイエス様の、何を信頼しているかがです。主なるイエス様は、恵みの主であるから、私が何をしたからとか、ギリシャ人だからとか、ユダヤ人だからとか、子供だからとか小犬だからとかを超えて、主が恵み豊かな神様であられて、その恵みは、子供たちが受ける恵みの食卓からこぼれ落ちて、その下にいる小犬にも及ぶほど、溢れて、こぼれ落ちるほど、恵み豊かな恵みであるから、だから私もその恵みを頂くのです、私はあなたが、私たちの思いを遥かに超えて、恵み豊かな救いの主、命の主であられることを、信頼しています、恵みの主よと、その信仰を告白するのです。

自らを低くして。具体的には、イエス様の御言葉を先ず受け入れて、その御言葉の中で、自分はどこにいるのかと、イエス様がおっしゃった通りの小犬になって探したのです。私は小犬なんかじゃない!と自分の言葉が前に来るんじゃなくて、先ず神様の言葉を受け入れて、その中に身を置くところで、信頼は息をし始めるからです。小犬なんです。野犬なんかじゃないのです。ユダヤ風に言えば羊飼いが羊を可愛がるようにギリシャ人の私にも言って下さった。主はそうやって、世の全ての人の身になって、気にかけ、愛して、命を与えて下さる救いの主だからと、小さな小犬になって、子供の次に与えられるパンを探したら、ポロポロこぼれ落ちて来た。主よ、これが、あなたの救いの恵みでしょう、この豊かな恵みを下さいと、信じて主に告白した。その信仰をイエス様は、これが信仰だと喜ばれたのです。そしてその人を主の恵みを証する者として遣わされた。私たちも、この豊かな恵みのもとにいるのです。