マルコによる福音書4章1-20節、詩編126篇「収穫までが御言葉です」

19/3/10受難節第一主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書4章1-20節、詩編126篇

「収穫までが御言葉です」

先週に続いて、この御言葉から聴いています。今日は、種蒔きの譬えそのものを説き明かしてまいります。

百倍もの実を結ぶ。いいですね!実家の金柑がそうで、プッと口から出す種一粒から、甘くて酸いパンチが効いて風邪予防に抜群の、百倍の実を結ぶ木になる。無論、時間はかかります。でも時間はかかっても、そういう人になってほしくって、神様は私たちに御言葉を語られます。この説教もその一つです。更に具体的に言うと、聴く私たちに御言葉が実るとは、イエス様は、きっとこういう話し方をされる、聖書が教えるように、こういう態度で接して下さる、こういう考え方で行動をなさるというイエス様の実が、私たちの生き方や態度そのものとして結ばれるのです。そして、ああイエス様はこうやって神様から与えられた救い主なのだという証が世になされる。それが神の国の秘密、神秘です。

これが御言葉のゴールですが、そのゴールに皆を導かれるイエス様の十字架の愛が見えないままで、この御言葉を聴くと、ひょっと責められているように思うかもしれません。私は良い土地ではないんじゃないかと。でも、誰が神様を求めて聴く人なのか、人が決めることではない。石だらけのように見えて、すごく求めているヤンキーとかいます(笑)。神様は、人を見て種を蒔く蒔かないを決めません。皆を愛するのです。効率なんか考えないで誰にでも伝える。それが神様の愛の言葉です。

私自身、留学先の米国で教会に行き始めた頃、この人は関心がないと思われていました。英語力がなくて質問できんかったからなんですが、私の隣で質問しながら聴いている日本人が、心を開いて御言葉を聴いている求道者だと思っていたと後で聞きました。でも彼は、自分が熱心に祈ったことが叶わなくて、だから神様は信じないよと言って、教会から離れ、逆に黙っていた私が信じて洗礼を受けました。

皆さん、自分はサタンに御言葉を奪われることがなく、一度も御言葉につまずかず、世の思い患いや欲望に御言葉を塞がれることなど一度もないって人、おられるんでしょうか。ここでイエス様は、まるで血液型で人を裁くような冷たい人間分析をされたのではありません。むしろ、もし、これを聴いて心がハッとするなら、そこに御言葉の種が芽を出しているんじゃないですか。その種を、あなたはどうしますか。サタンに奪われないよう、また信仰の根をイエス様に伸ばすよう、また茨を悔い改めて、御言葉が実を結ぶよう求めんでしょうか。神様は求めておられます。あなたに実を結んで欲しい。それがいつもゴールです。

この種蒔きの譬え、今の日本の農業の感覚から言うと、何で道端や、石だらけの地面や、茨がある所らあに種を蒔くのか。ちゃんと耕した所に蒔かんきよと多分なります。もっと効率の良い農業をしいやと。で、よく聴く説明が、当時はちゃんと耕したところに種を蒔くのではなく、まるで花嫁がブーケを後ろ向いて投げるように適当に種を蒔いておったからで、昔はそうだったんだと。でも改めてこの御言葉を読みまして、確かに今ほどは効率よく耕して肥料をやってということはしてなかったかもしれんけど、昔だって、今の日本や欧米のように食べ物が余っているわけではありませんので、そりゃ効率よく種を蒔いてということは、やっておったろうと思うのです。

ですので、実際の農家の姿がここに描かれていると言うよりは、実際の農家の姿より、もっと効率の悪い種蒔きの描写を敢えてイエス様は人々に説教されて、それで聴く人が、ん?と考える。何の話をしゆうがやろうと考えさせ、答えを求めさせる話し方として、一見うんと効率の悪い種蒔きの譬えを敢えてなさったのだと思います。そして、これは、神の言葉を蒔く時に起こることだとイエス様は説き明かされましたが、これ、本当にそうだなあと、心に訴えるのではないでしょうか。神様の言葉が実を結ぶのを邪魔する、様々なことが私たちにはあると。

これは神様の言葉だけでなく、人間関係でもそうですが、言葉が実を結ぶとは、例えば、親が子供にテレビは1時間だけ、どうしても見たい映画とかあったら2時間見てもえいけど、その前に必ず宿題を終わらせてね、という言葉を蒔いて、ハイと返事はしても、まだ実ってはない。あるいはテレビ見んかったらえいがやろう、宿題したらえいがやろう、という態度で、テレビも見ん、宿題も帰ってすぐ取りかかっても、親と話もしない、顔も見ない、それより自分の部屋で自分のしたいことを、というか一人暮らししたいき、お父さん、私がもらうことになっている遺産の分け前をください…なんか放蕩息子の兄と弟をミックスした譬えになってますが、急所はお分かりでしょう。言葉に従うって、どういうことかなのです。神様が何でその言葉を私たちに語られるのか。私たちを罪から救い、神様との愛と信頼関係の中に、神様の子供として新しく生かすためです。そのために、この御言葉が語られたのだと、その愛を信頼して聴き従うところで、種は実を結ぶからです。御言葉の形を取った愛の種、救いの種が実る。キリストの種と言ってもよいのです。

その神様の愛の言葉を、サタンは、子供たちから奪う。具体的には、私たちの心を奪うことで、その心に向けて語られる御言葉を奪う。別に御言葉忘却ビーム!とかってビームを出したりはしてはいません(笑)。関心や求めを奪うのです。愛を奪うとも言える。つまり私たちが何を愛するか、私たちの求めを牛耳れば、神様との関係に生きる以外の生き方を愛し求めさせれば、神の言葉を聞いても、だから?となる。マザー・テレサは愛の反対は無関心であると言いましたが、その通りだと思うのです。例えば誰かが私に、乃木坂なんとかの誰それがこう言ったとか、欅坂なんとかが歌う言葉の種を蒔いてくれたら、笑顔で話を聴きますけど、私の関心は、むしろそれを話してくれる相手との関係を大事にすることにありますから、よほどのことがなければ、そのアイドルの言葉は入って来ない。ほぼ関心がないからです。

神様の言葉、イエス様の言葉が入って来ないのも同じでしょう。

ま、乃木坂なんとかにサタンは関与しないと思いますが(笑)、関心を持つというのは愛の具体的な現れですから、神様のお気持ちと愛を自分とは関係ないと思わせ、それよりも自分にとっては、このことが自分を幸せにしたり救ったりするんだと思わせられたら、御言葉は、聴いても奪われてしまいます。

無論アイドルを目の敵にしているのではありませんが、アイドルとは本来、偶像の意味ですから、アイドルが神になっていたり、その言葉が福音になっていたり、そのファンを増やそうと伝道する人はいると思うのです。そしてそれが何だろうと神様の場所を奪っているなら、それが偶像です。でも問題は、偶像そのものにはありません。それは単なる人や物に過ぎません。問題は、その偶像を私たちの心の王座に据えさせ、人の心を道端に変容させ、御言葉を私たちから奪っているサタンです。その偶像の裏に隠れているサタンを追い出す道が、ヤコブの手紙4章の御言葉には、こうあります。「だから神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば神は近づいてくださいます。」(7-8節)

次に、石だらけの所に蒔かれた種ですが、「自分には根がないので」と言われます。雨の降らないパレスチナで、植物はどこから水を得るか。地面の中にある水分を根で吸収するのです。その根がないとは、つまり神様との関係に根ざしてなくて、御言葉を聴いても自分の気持ちだけで受け止めて、神様のお気持ちは考えない。愛のお気持ち、即ち御心から語られた御言葉として受け入れたのではない。何故なら、信じるとは、信じる相手に、留保なしで自分の身を委ねて、私はあなたを信頼していますと、自分の人生や体や命を預けてしまうことでしょう。そうでなく条件付きで自分を預けて、例えば彼氏彼女関係で、あなたといて幸せな間は付き合うけど、そうじゃなくなったら別れましょうというのは、ご利益宗教と同じです。確かに人間相手なら、信じて身を委ねて、裏切られることもあるでしょう。でもならばこそ神様は、そんな裏切る私たちの犠牲となって、罪人を罪と滅びから救うために人となられたのですから、その十字架の愛を信じて命を委ねることが、信じることなのです。

そしてこの神様との愛と信頼の関係が根となって、神様と結びついていると、激しい日照りのような艱難で、自分の感情が渇いて、自分から出る思いや言葉は自分を潤さなくて、責める言葉や何で私が私がという自分自分の思い、損した損したというカラカラの感情しか、自分からは出なくても、信頼できる相手と結びついているなら、その相手の言葉、またその言葉を虚しくしない相手が払った犠牲から、生きていくための潤いが得られる。神様から、神様と結びついている信頼関係の根から、自分から出たのではない潤いが与えられる。それが十字架のキリストを信頼して洗礼を受ける信仰です。信仰とは、この根のことです。

また茨の中に蒔かれた種は、先のサタンが関心を奪うのと同様、永遠のことより、この世での自分の幸せに関心が奪われるのですが、神様に関心がないのではない。というより神様に関心も信頼関係も持ってはいる。が、その関係を具体的に生きる前に、私はこう生きるんだという別の関心が具体的な生き方のパターンを築き上げてしまっていて、御言葉に従って生きようと思っても、そのパターンを打破できず、従えない。既にあるパターンを繰り返して、御言葉に生きてキリストの香りがする人格の実、言葉と思いと行いの実が結ばれない。教会で最も多い誘惑と悩みかもしれません。でもそれはつまり、人間なら誰も避けられない、罪との闘い、不信仰との闘いがここにあるからです。そしてそれに対する答えと鍵も、神様はイエス様がこの後、十字架を見据えて8章で言われた次の御言葉によって与えておられます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(34-35節)そして主は十字架を負って、私たちに神の愛の勝利を見せて下さいました。自分を捨てて神様の言葉を信じる者に、十字架の主は百倍にも報いて下さるのです。