マルコによる福音書4章21-25節、エレミヤ書8章8-13節「何を基準に生きるのか」

19/3/17受難節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書4章21-25節、エレミヤ書8章8-13節

「何を基準に生きるのか」

「持っていない人は」と言われるのは、先に読みました旧約の御言葉から、お分かりになると思いますが、どうも単純に持ってない、というよりは、持っているつもりになっている人のようです。

持っているつもり、というのは、本当は持ってないのに、そのことに気づいていない、ということでもあるでしょう。気づいてない。だからイエス様は、もしそうなら、気づくように、自分の胸に手を置いて確かめなさい、自分が何を聴いているか、注意しなさいと促されます。

この、つもりの問題。私たち、ついうっかり、ということは、よくやるのじゃないかと思いますけど、逆に、うっかりが多い人の方が、私、大丈夫かなと、確かめるのではないかとも思います。

私も度々うっかりをします。私は外出する時いつも胸ポケットに百円ショップの老眼鏡を入れて、玄関で更に胸ポッケを触って確かめてから出るのですが、先日、何の会だったか、さて書類を読むという時に、胸ポッケから眼鏡を取り出して、かけて見たら、え?ぜんぜん読めない。うわ俺そんなに目が悪くなった?と思って、はずして見たらサングラスでした(笑)。きっと皆、私がいきなり部屋でサングラスかけたの見て、あぶない刑事か、と心の中で突っ込んだと思います(笑)。ま、老眼鏡を持っていたつもりという小噺ですが、聖書が指摘しているのは、そういう単なるうっかりではありません。主が注意を促しておられる、持っているつもりの深刻さに耳を傾けたいのです。

私たち、イエス様が「何を聴いているかに注意しなさい」と言われた神様の救いの言葉を、持っているでしょうか。初めの譬えで言うなら、ともし火を、救いのともし火を持って、神様と歩んでいるでしょうか。これが私に永遠の救いを与える、死んでも生きる永遠の命を与えると、いや、その命がもう与えられている、それを約束し、保証し、平安と、また生きる希望を与える神様の約束を、持っていますか。救いを与える神様の御言葉を、持っていますか。

あるいは、もっとズバリ、御言葉が約束する救いを、あなたは持っていますかとイエス様はお尋ねになるのです。無論、それを確かに持って欲しいからです。イエス様は、そのために人として来られた、私たちの救いの光そのものだからです。

そのためにも、私たちはイエス様から、聖書から、またその説き明かしである説教から聴いた御言葉を、神様の言葉として、これを聴いて、生きているかが問われるのです。持っているか、持ってないかは、そこで具体的にわかるからです。

ともし火の譬えがわかりやすいのですが、ともし火が与えられても、もしそれをベッドの下に隠したりしておったら、まあ、それをともし火とは思ってないという証拠でしょう。むしろ、それで照らされて見えてしまうもの、例えば自分の罪や裁きがあることを見たくなくて、隠しているってことでしょうか。もしそういう聴き方をしているなら、それが神様の言葉を、ともし火として聴いてない証拠になってしまっているのです。ありがたい話だろうけど、今の自分には、いらない光だと。

そうやって神様の言葉を、私たちは自分の基準で量ってしまうことをしてしまいます。量る、測量すると言ってもよいでしょう。自分を基準にして、自分の物差しで、これは神の言葉だけど信じなくていいとか、心に響く言葉があったら、いいことを聴いたと思っても、自分が基準になっているなら、何を聴いているのか、私は天地を造られた神様の言葉を聴いていると、わかっているのか、注意しなければならない。

逆に、聖書で神様がおっしゃっている通りに、毎日の生き方、また、将来に向けての生き方を、神様基準で測量して、これは神様が喜ばれること、これは傷つけ失ってしまう罪だと、御言葉の光に照らされた道を歩むなら、その人は御言葉を持っているだけではありません。愛する人と言葉を交わしながら生きるのと同じで、神様との交わりに生きる喜びや平安を、救いの喜びと共に、自然と味わい生きることになるのです。それが御言葉による信仰生活の醍醐味です。

ちなみに、醍醐味という言葉は、仏教に由来する言葉で、乳製品の中で最高においしい味のことらしいのですが、今ではその醍醐と呼ばれる乳製品の作り方がわからんので、謎の味なんですが、カルピスのような味だったんじゃないかということらしいです。

何でそんな話をするかと言うと、今朝の御言葉22節で「秘められたもので、公にならないものはない」とイエス様がおっしゃった。御言葉のともし火に照らされ導かれて、神様と共に生きる救いは、え~そんなん本当にあるのかと、秘められたことのように思えるけど、しかも神様が人となられて十字架で私たちを償って救って下さるなんて、そんなこと聴いたことがない、ありえない、自分で頑張って自分を救うんじゃないのかと勘違いして思っていても、実際にイエス様は現れてくださった。そして救いの道となって下さった、その救いは味わうことができるのですから、秘められては、ないのです。御言葉によって神様と共に生きる信仰生活の醍醐味は、失われた秘密の味ではない。それを味わった人にとっては、本当に公のことであって、さあ、これを味わいましょうと、ともし火をベッドの下に隠すなんて、そんなんありえない。この醍醐味は皆と一緒に味わいたいのです。もう理屈とか義務じゃなくて、本当に分け合いたい。だから、うんと身近な例で言えば、ねえ、新しいツタヤ行こう(笑)、お金出すき、みたいな喜びが、救いの喜びなのです。

福音に照らされた、神様の救いの御心は、もう秘められていません。それは全ての人の代表責任者として人となられた三位一体の御子が人間の罪を償って下さったこと。そしてその完全な償いに基づいて与えられる神様との信頼関係に入ることです。イエス様は、だからあなたたがは神様を天にまします我らの父よと呼びなさいと教えて下さったのです。救いとは、キリストに結ばれて、神様と親子の関係を持つことだと。

そして、ここが急所ですが、神様との親子の関係に入るのに、試験はない。何かをしなければ、その関係に入れないというのは、その名を愛と呼ばれる神様の基準で定められた、親子関係ではないからです。

新聞を開くたびに私たちを悲しませている、子供の虐待の背景には、そうした、これこれをしなければ子供として愛される資格がないと考える、ねじ曲がった関係理解があるんじゃないかと思わされます。昨日の朝刊には、虐待を受けた子供が親に誓約書を書かされていたという記事があって、その誓約の中に、怒られることはしません、とありました。じゃあ大人は神様に怒られることはしないのでしょうか。するでしょ。なのに自分のことは棚に上げて、子供には誓約させる。でも、そもそも誓約とは、例えば結婚の誓約でも、他人だった者達が、これからは他人ではなく家族になりますと約束するものであって、家族は最初から家族でしょう。何かをするから家族になるのか。言う通りにしないと愛される資格がないのか。私たちの天の父は、決してそうではない!と言われるのです。怒られることをしたら、怒る。でも愛する。あなたの罪を、御子キリストに負わせて、わたしはあなたを全力で愛し抜く。あなたはそのわたしを他人のように扱わないでくれ、わたしはあなたと家族として生きたい、永遠に共に生きたいと、全能の父は言われるのです。

私たちは、救いを勘違いしてないでしょうか。何かをするからという条件をつけて、まるでそれが神の愛であるかのように、父の恵みに生き損ねて、キリストの十字架の救いに生き損ねてはいないでしょうか。

無論、正義に生きることは求められます。悪を選んで、罪を犯したら罰がある。正義を無視して生きるのは、信頼の生き方ではないし、愛する生き方でもありません。でも愛のない正しさは、その人が持っているつもりの正義なだけであって、それは愛を基準とした正義ではないでしょう。なのに愛のない正義が正義の名で呼ばれて、俺が正しい、いや私が正しいと争って、子供が傷ついて。そんな罪だらけでボロボロの世界を、それでも見捨てないと神様が代わりに死んで下さったから、そのことで愛とは何かを知らせて下さったから、だから私たちは知っているのです。罪とは何か。その愛に生きないこと。人も神様も愛さない。それが愛の正義に背中を向ける罪なのだと。

何かをするから愛されるのではない。すべきことをしているから愛される資格、子供と呼ばれる資格があるのではない。むしろ、すべきことをしていないのに、愛に生きてないのに、罪を犯して、父の名を汚し、無視するような歩みであっても、でも、ならば尚のこと天の父は、その私たちを見捨てることができなくて、永遠の御子である三位一体の御子を人として、人間の罪を負わせて償いを成し遂げて、私たちを、この愛の正義の関係に招かれたのです。正義を十字架で貫いて、私たちを愛し抜かれる全能の父との関係に入ること。これが私たちを救う、キリストによって満たされた正義だからです。

私たちは、この正義を持っているでしょうか。キリストを持っているでしょうか。持っているつもりほど恐ろしいことは、やっぱりないのだと思うのです。私たちが御言葉から愛という言葉を聴いても、それでその愛を持っているつもり、その愛に救われたつもりなら、危険だからです。イエス様が「何を聞いているかに注意しなさい」と言われた。そのことは本当に真実です。その愛は、私たちを罪と裁きから本当に救い出し、父との関係に歩ませてくださる、神様の愛であるからです。

私たちは何を聴いているのか。私たちが聴いているのは、生きておられる神様の言葉です。神様が、共に歩もう、永遠の愛に共にだと、永遠に父との親子の関係に歩んで下さる。その全能の父との親子の関係に、はい、と信仰告白して生きる。キリストをくださった神様との信頼関係を持っている。これが私たちの行く道を照らす、永遠に確かなともし火なのです。