マルコによる福音書4章1-20節、イザヤ書6章1-13節「ミステリアスな神は愛」

19/3/3主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書4章1-20節、イザヤ書6章1-13節

「ミステリアスな神は愛」

少し長い御言葉を読みました。これを今日と来週の二回に分け、先ず今日は10節から12節の御言葉を中心に説き明かします。

10節で言われます「イエス様の周りにいた人たち」。素直なと言いますか、イエス様の説教を聴いて、わかったふりしない。また、わからんことを、そのままにしないで尋ねます。知りたい。わかりたいと。これどうぞ皆さんも、わからんことあったら遠慮なく私にお尋ねください。この説教がわからないのか、なんて言いませんから(笑)。まイエス様も笑いながら、きっとおっしゃったと思います。だって、嬉しいですよ。聴いてくれるって。この人たち、聴きたくて、残ったんです。

イエス様も「聴く耳のある者は聴きなさい」と、聴きっ放しじゃないようにと励まされました。説明してハイ終わりという、仕事で説教しているわけじゃない。言いっ放し、教えっ放しはされなくて、こう言えばよいでしょうか。聴く人に、求めさせる教え方をなさるのです。譬えて言えば、馬を水場に連れて行くことはできるけど、水を飲ませることはできないと言われます。でも、飲んで欲しくて連れて行くんでしょう。じゃ、どうするかなのです。説教することはできるけど、信じさせることはできない。救い主のもとに導くことはできるけど、その人に救い主を受け入れさせることはできない。その人が、信じるしかないのです。これは私たちのジレンマですけれど、神様のお気持ちに沿って言えば、神様が人を愛することはできるけど、私たちの救いのためなら十字架で命を捨てることさえできるけど、その愛を信じさせること、神様を愛させることはできない。でもそれを、神様は求めておられるのです。

愛って本当に手に負えないと思います。自然に愛することもあれば、手のひらを返すようにして憎んだりする。神は愛ですけど、人は罪だな自分中心だなと思わされます。愛さえも自分中心に回っている。

でもその私たち全ての人間を神様は愛されて、私たちが救われるために命を捨てて、罪の償いを十字架で負って下さったのです。そのことを神は愛ですと言います。この救いの道、福音を聖書はミステリー、神秘と呼びます。謎めいてわからない。それなのに、この愛を信じて、この神様に身も魂も、死んだ後の永遠の救いも一切をお委ねして生きることが起こるからです。先の譬えで言えば、この愛を飲むために神様は人をイエス様のもとに連れて行かれるけど、飲ませることはできない、のだけれど、この愛を飲むことが起こる。御言葉を聴いてわからなくても、でも聴きたい、イエス様、どういうことですかと尋ね、求めることが、起きている。信じさせることはできないのに、です。

何が起こったか。まさに神秘。それが11節でイエス様が言われた「神の国の秘密」です。もっと具体的に言えば、神様の愛のご支配の神秘。その神秘を私たちは、わからなくても、でもご支配は体験するのです。信じさせることはできないけど、でも信じることができる、体験できるご支配が、十字架のキリストによる神様の愛のご支配が、もう来ているからです。

そのことをイエス様は、神の国の秘密、ミステリーという言い方で言われたのですけど、そこで私たちの側で何が起こったか、後で振り返るようにしてですけど、何が起こったか、一つわかることがある。求めたのです。神様から与えられる真理、答え、救いを、神様に求めた。人は色んなものを求めますけど、その求めが神様に向いて、人生の答えや、大切な問題の答え、救いの答えを得たいと、求めた。それが、どこからどのように起こるのかは本当に謎です。が、皆さん、ご自分がどのように求めて、やがて信じて洗礼を受けたかを思い出したら、そうだなって思われるんじゃないでしょうか。求めた。

イエス様の話を聴きたい。そしてわかりたい。話の内容じゃなくて、その話が指差している本物の中身を、神様の何か、救いの何か、それが何かわからんけど、でもそれを得たら、もう得ている人たちのように、信仰の喜びとか平安とか愛とか、自分はまだそれを得てないから、正直謎のような言葉だけど、でも、それが私のものにもなるのだろうかと、求めて、神様の御言葉を聴くようになったんじゃないでしょうか。

そして、そこにもう一つ起こっていることがあるのです。その時に、その人はもうイエス様の外にはいなくて、イエス様のもとで、求めて、御言葉を聴いています。それが11節で言われる今朝の御言葉の急所なのです。「そこで、イエスは言われた。…示される」。

イエス様の命によって与えられる神様のご支配の中に、全ての人が招かれていますが、そこで神様から命の答えを求め、救いを求めて、主のもとに来る人々が起こるのです。その求めをイエス様はうんと喜んでくださり、神の国の秘密、言い換えれば神様の愛のご支配のミステリーを体験し、味わわせて下さるのです。その秘密、ミステリーというのが、福音と呼ばれる、キリストの赦し、十字架による世界の救いです。

でも、この愛の中に身を置くことを、求めなくて、外にいて、神の愛とは聞くけど、何やろうねと、言葉はわかっても、自分にとってそれが何を意味するかわからん、でも求めないで外にいる、となると、つまりイエス様の存在も、救いも、譬えが示されているまま止まりなのです。譬えとは、わかりにくい事をわかりやすく説明するため、似ていることや具体的なことに置き換えた話のことを譬えと言います。

イエス様について言っている話が頭でわかっても、で、それが何?となると、譬えと同じで、話はわかっても意味がわからん。キリストが、何で必要なのか、意味がわからなくて、譬えのまま止まり。そしたら、神様が求めておられる、愛すること、信じることが謎のままで、だから神様に立ち帰って赦されるということが、自分のことにならないのだ、ということをイエス様は説き明かしておられるのです。

12節は日本語に訳し難くて誤解しやすいのですが、まるでイエス様がわざわざわからん譬えを言って、わからん?じゃあ立ち帰って赦されることはありません、なんてことでは、まさかありません。外の人々じゃなくて、イエス様を求めている人もわからいでイエス様に尋ねたのですから、わかるわからんの話じゃなくて、わからんかったら求めなさい、そうしたら神の国の秘密を分かち合うから、そのために来たのだから、わたしがその秘密だから、わたしを知ったら、全てわかるから、わたしのもとに来なさい、外じゃなくて、ここに入って来なさいと、イエス様は招かれるのです。十字架の赦しによる神の国に、あなたも入って来なさい、求めなさいと。神の救いの説明をして、へ~で終わるような説明ではなくて、神様の求めが見えるために、愛が見えるために、求めさせる話をなさるのです。求めて欲しいのです。そしたら見えるからです。神様がどんなに私たちを求めておられるか。頭でわかる説明なんかで愛がわかるもんですか。わかったところで自己中心の愛止まりじゃないんでしょうか。俺は正しい、何で私の求めていることがわからんという愛ならキリストを十字架に着けた人々こそが主張していたのです。でも、そんな私たちのために、ご自分を捨てて、赦して救われて、あなたは、わたしのもとに帰って来なさいと求められる神様の愛は、頭でわかっても意味がない。それこそ譬えで止まっている神の愛だと、私たちの人生を変えることも、世界を変えることもできません。

私たちは、神様に、また救いに、何を求めているのでしょう。神様は私たちの本当の必要が満たされることを求めて、御子を下さいました。求めなさい。そうすれば、神様の愛と救いの秘密が与えられるのです。