ガラテヤの信徒への手紙5章13-15節、創世記1章26-27節「人を大切にするのが愛」

18/6/17主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙5章13-15節、創世記1章26-27節

「人を大切にするのが愛」

「あなたがたは自由を得るために召し出された」。私たちもそうです。召し出されたと訳された言葉は、呼ばれたという言葉です。神様から、さあ、こっちに来なさい。わたしのもとに来なさい、あなたがたを自由にして、解き放つから、と呼ばれている。それは、皆、呼ばれているのです。誰一人呼ばれてない人はいない。

ならば、この神様の呼びかけに、はいと応えて、自由に生きる生き方は、具体的には、どういう生き方になるか。それが、今朝の御言葉の、うんと具体的なところです。それは、愛によって互いに仕える生き方。あるいは隣人を自分のように愛する生き方です。

この愛が、言わば普通に、当たり前のこととして現れているところには、自由な風が吹いていると言いますか、息がしやすいと言いますか、窮屈ではないとも言えるでしょう。何と言うか、愛は愛でも、愛さねば愛さねばと妙に身構えているようなところでは、愛されるのもしんどいような気がします。愛するのも愛されるのもしんどいというのは、まあ自由ではありません。

それを私は最近、大阪の釜ヶ先で働いておられるカトリックの司祭、本田哲郎神父が語られた文章を読みまして、改めて、そうだなと思わされることがありました。

釜ヶ先にはいわゆるホームレスの方々が多く生活しておられて、本田神父は、その方々と一緒に生活しながら、キリストの愛を分かち合っておられるのですけど、最初に釜ヶ先に赴任された時は、うんとビビっておったと言っておられました。寒い夜に毛布とおにぎりを持って、路上で寝ていたおっちゃんに「毛布いりませんか」声をかけたら、寝ていて急に声をかけられたもんだからビクッと反応して顔を見られた。神父は初めてのことなもんで、あ、殴られる、としか思いつかないで、思わず身を引いたら、おっちゃんがニッコリと笑って「兄ちゃん、すまんな、おおきに」と言った。そこで本田神父がおっしゃった文章を引用します。「そんなふうに受け入れていただいて、今まで本当の意味で福音、聖書に書かれているイエスが私たちに価値観として教えてくださった福音の内実を実感しました。…その労働者との出会い、ただこちらが一方的にびびっていた出会いによって、「人からよく思われたい」というような、しがらみがパラリと落ちたような。解放されるってこういうことなんだと、ようやくわかったのです」。

それまで本田神父は、自分は人から良く見られるような自分でなければだめだと思っていて、自分が良いと思っている、正しいと思っていることを、わかってもらわなければ、と神父になっても思っておられた。でもそれは、おかしいんじゃないかと、わかってはいたけど、どうしてもそこから抜けだせなかった。それが、パラリと解放された、自由にされた。それは、どこで自由にされたかと言うと、隣人と出会ったことによってなのです。

そして神父は、こう言っています。愛することより、大切にすることだと。そのことを本田神父は神様から隣人を通して学ばされるのです。そもそも新約聖書が用いている神様の愛、また神様が求められる愛は、もとのギリシャ語でアガペーという言葉なのですが、それは相手を大切にするという意味だ。それは相手に愛情を感じても感じなくても、好感を持てても持てなくても、自分が大切なように、相手を大切にしようと心に決める限り、薄れることも途切れることもありませんと、そう本田神父は言っておられた。

私がこれを読んで思い出したのは、16世紀にカトリックの宣教師ザビエルが日本に来まして、人々に宣教する時に、神の愛という言葉をどう翻訳したか。「デウスのご大切」と訳したのです。神と言うと、ごっちゃになってしまうので、ラテン語の神という言葉、デウスと、そのまんま言うのですけど、愛ではなくて、ご大切と訳した。本田神父が「愛することより、大切にすること」と言われたのも、同じカトリックですし、そこから取られたのかもしれません。

でもそこで重要なのは、どっちの翻訳がより正しいかということではなくて、愛するという言葉を用いようと、じゃあ愛するとは、どういうことなのかが、ハッキリしているということです。今朝の御言葉で、愛によって互いに仕えなさい、また隣人を自分のように愛しなさいと神様から命じられる時、その愛は、本田神父が言われるように、相手に愛情を感じても感じなくても、好感を持てても持てなくても、自分が大切なように、相手を大切にすることだからです。隣人を愛することの根拠は自分には無いとも言えます。自分が隣人を愛する根拠ではない。

先に申しました、隣人を愛する自由な風が、そこにもう吹き始めています。どこから吹いてくるのでしょう。自分からではない。隣人を大切にすることの根拠が自分には無くて、むしろ、この人を大切にするのは嫌だなと思っている時に、そんな風、自分から吹いては来ません。また目の前のこの人を大切にするの嫌だなと思う時、しかもその相手が自分に敵対しているような時には尚のこと、その人自身から自由な風が吹いてくるということもないでしょう。隣人を大切にする自由な風が、自分から吹いてくるのでも、相手から吹いてくるのでもなかったら、じゃあ一体どこから吹いてくるのか。

その隣人を、また私を等しく大切にして下さっている三位一体の神様から、隣人を自分のように大切にする自由な風は吹いてくるのです。

そこで隣人を大切にする、ということが実際になされる時、それは次の頁の5章22節で言われるように、そこでは聖霊様が結ぶ実である、愛が結ばれているのです。聖霊様が、そうだ、この人は大切な人だからと私たちを導いて下さって、一緒に実を結ばせて下さるからです。

また、そこで私がイメージするのは、目の前に隣人がいる。その隣人と私との間に、三位一体の御子、イエス様が父から遣わされて、この人はわたしたちにとって大切な人だから、大切にしてほしいと、その隣人を大切にする自由へと、イエス様が召して下さっていることです。

皆さん、それぞれに大切にしておられる人、大切にしていることや、ものがあると思います。ちょっと思い浮かべて頂きたいのです。自分が大切にしている人、こと、もの。きっと、そのそれぞれに価値があるに違いありません。あるいはそれは自分にとってのみ価値がある、例えばボロボロのぬいぐるみとか、もう、そんなん捨てや、とかって、人から言われても、だって、その価値は、その人にはわからんのです。価値は自分にとっての価値であるから、自分にとって大切だというのは、根拠は自分にあるのです。だから、いくら人から、もう捨てやとか、何で、そんながを大切にするがと言われても、どんなにその大切さをわかってもらえなくても、神様は、あなたの隣にいるこの人は、わたしたちにとって死ぬほど大切だから、そんなこと言ってくれるな、あなたも、この人も、わたしたちにとっては大切で、掛け替えのない愛する者だから、互いに大切にしてほしいと、おっしゃるのです。

その、あなたの価値、あなたの隣人の価値を、私たちは、神様がその私たちを罪と滅びから救うために、御子を身代わりに十字架で裁かれ、罪を赦して下さったことから知るのです。皆さんに、お尋ねしたいことがあります。ちょっと具体的過ぎて言いにくいのですが、答えなくてもよいのですが、皆さんは、私のために死ねますか。それが、皆さんにとっての、私の価値でしょう。その価値はバラバラだと思います。それは当然なのです。それが、でも私たちが生きている、私たちが自分で自分にとっての価値あること、大切なことを決めて、また大切ではないからと愛さないことを決めて、それで皆がバラバラで、愛されたいのに、愛されなくて、愛したくても、愛せなくて、こんなどうしようもなくバラバラになった罪の世界なのです。永遠に残るわけでもないものを大切にして、いやあ、でもそれは個人の自由だって、自由を肉に罪を犯させる機会にしてしまって、本当に永遠に大切な隣人を愛するって、どういうことだかも見失った世界に、しかし、神様ご自身が飛び込んで来て下さったのです。そして、このバラバラの世界の只中に、私たちの、神様にとっての真実の価値を映し出す十字架を立てられて、ここから一緒に、ここを拠点に、一つの愛の家を造っていこうと、神様ご自身が、私たちの新しい命の拠点となられたのです。

最後に… (ランカスターでの体験「ここにダイヤがある」の話)

これは私にとって、隣人を大切にする自由を体験した、原体験の一つなのだと思います。大切じゃない人なんて一人もいない。そして、この自由へと招かれてない人も、たった一人もおらんのです。神様が私たちを、この救いの自由へと呼んでおられます。

改めて御言葉の呼びかけを致します。兄弟たち、姉妹たち、あなたがたは、この自由を得るために召し出されたのです。

この自由を、私たちは救い主イエス・キリストという永遠の土台の上で味わって、そして、この世界に証するのです。ここに、あなたの本当の価値がある。あなたは神様に、そして私たちに愛されるために生まれたのだと、神様が与えて下さっている救いの招きに、共に応えて歩んで行くのです。