ガラテヤの信徒への手紙5章16-18節、エレミヤ書17章9-10節「心の中で対立する私」

18/7/1主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙5章16-18節、エレミヤ書17章9-10節

「心の中で対立する私」

二者択一。どちらを選ぶのか。霊というのは三位一体の聖霊なる神様です。その聖霊様が私たちの内で願い望まれ欲しておられて、こっちだと導いておられる道がある。かたや、その霊の望みに反して、正反対の方向へと、おい、こっちやろうがやと引っ張る肉の引力、重力のような欲望があって、どっちにしようかと。言わば朝起きる時と一緒(笑)。

選ぶべきほうなら、わかっているのです。違うでしょうか。言われるまでもない。のですけど、わかっているのに、肉の欲望を満足させてしまうことの、いかに多いことかと、この御言葉を聴いて、心の中で溜息をつかれた方もおられるんじゃないでしょうか。

ただ、ここで言われていることは、厳密に言えば、イエス様を信じて洗礼を受けて、三位一体の神様の霊、聖霊様を受けて、神の子とされたキリスト者が、それでも誤った生き方を選び、罪を犯し、欲望を満たすという現実は確かにあるということです。まるでかっぱえびせんのCMみたいに、やめられない、とまらない。もちろん個人差はあります。家に帰ったら、えびせんが段ボール箱で積んであるレベルもあれば、一袋だけ常備していたり、時々ならかまんろうというルールを自分で作ることで、でもやはり聖霊様の導きに従ってないということもある。そこが急所でして、単に良心の呵責や、道徳的な葛藤があるということでは、ない。問題は、自分の良心に従ってないとか、意志が弱いというような個人の問題ではなくて、あなた、神の子とされて、イエス様を救い主と告白し礼拝しているのは、聖霊様を受けたからでしょ、なら、聖霊様に導かれているのだから、その導きに従いなさいと、聖霊様と私という、二人の関係の話をしているのです。個人の話ではない。そこが急所ですので、今も、天の父から与えられて共におられる聖霊様に意識を向けて聴いて頂ければと願います。お一人様の宗教や道徳にならないように。そこが先ず大切な出発点です。

その上で、しかしこの聖霊様と肉という対立図式は、確かにいわゆる心の葛藤の図式と似ているということも、わきまえておくと、整理しやすいかとも思います。例えば、20世紀初頭に活躍したフロイトという人の精神分析というのがありますが、それは心の仕組みというのを、こう考えた。人の心には三つの力や原則が働いている。一つは親の言うことや世間の常識、こうしなければならないという上から自分を縛るような力。でもそれよりも原初的な快楽原則の力があって、自分に快いこと、気持ちよいことを言わば暴力的に欲する。常識が通用しない小さな子供をイメージしてもよいのですが、これが先の、上から自分を縛るような力と、葛藤する。で、どうするかと言うと、その真ん中に自我というのがあって、じゃあこうするかと両者の間で調整をする。例えば、えびせんが欲しい、ああ欲しいという力と、いかんちや、やめちょき、という力とを調整して、まあけんどストレスでハゲたらいかんき、四連の小袋の一つだけねと。まあ、皆さんも似たことをやってらっしゃるんじゃないかと思いますが、おわかりだと思います。これ全部独りでやっていることです。世間の目とか親の姿とかが、自分の心の中に組み込まれてはいても、それもまた個人の心の中でのこと。言わば心の中で独り相撲を取って葛藤するんですが、まあ負けても独り。勝っても独りです。

私たちの救いのために御子を与え、私たちを神の子にするため聖霊様を与えて下さった父、三位一体の神様は、そういう独りで頑張れという自己責任の話はせんのです。だから今朝の御言葉も、自分の心の葛藤の話ではありません。むしろ、聖霊様と肉の狭間で、確かに肉に負けることがあっても、負け続けても、それでもその肉が、あなたの支配者ではないだろう、あなたはキリストのものじゃないか、あなたの主、あなたの主人はイエス・キリストだから、さあ、こっちだと、キリストに心が向くように、聖霊様が私の内で私を導き続けて、私が一体誰であるのかを、一体誰になったのかを、何度も何度でも弁え知って、父よ、ごめんなさい、助けて下さい、と神様を父と呼んで、その父が与えて下さった救い主キリストを信じて、また従えるように、聖霊様が導いて下さっているのです。だからその導きに従いなさい。あなたはもう一人じゃないのだから、という話を聖書はずっとしているのです。

もう少し整理します。じゃあ、そこで言う私と肉の関係はどうなっているのか。かなり大胆な言い方で説明しますと、肉というのは、まるでほとんど、正確には違うのですけど、まるでほとんど、同じ体を共有している別人格のように、あるいはずっと長い間洗脳されて、これが私だと思っていたけど、あれ、それ、私じゃない、と目が覚めてわかった、本当じゃない私、でも同じ体を共有している肉が、神の子とされた私を従わせようと、時に暴力的に、時に詐欺師のように私を支配しようと、え、これが私やか、これ欲しいろう、そうそう素直になりやとか、神様に従うより、こっちのほうがリアルやろ、こっちが現実で、目が覚めてないのは神の子にされたとか、聖霊様が内におられるとか、キリストに結ばれているとか思っているそっちのほうやと、あるいは、まあ確かに神様はおるけど、これぐらいは気にせんとか、もっと自分のことを優先しいやと、引力のように、重力のように、神様から離れさせよう、神様に従わないように、自分自分にと、やがて罪故の裁きを受けて滅び行く死にゆく自分、肉に向けて私を引っ張るのが、肉です。それが同じ体を共有しているもんだから、混乱しやすい。

でも肉は滅びます。死にます。しかし聖霊様によってキリストに結ばれて神の子とされた私は、キリストと同じ、復活の体を頂いて、死から立ち上がるのです。そこにはもう肉はあとかたもない。復活の体を頂いた私が、その体を復活させて下さった聖霊様と共に、復活して永遠に生きるために、そのために人となられて私の身代わりに罪を背負って死んで下さったキリストと、共に立ち上がって、天にまします我らの父よ、御名があがめられますように!と礼拝、賛美する。それが私の将来なのであって、それが本来の私、神の子とされ、神の子として生きる私なのです。その私が本当の私らしく神の子として生きるために、聖霊様は、導き続けて下さっているのです。

聖書は至る所で、目を覚ましていなさい、と言いますが、本当だなと改めて思います。前に見たドラマで、独身の女友だちから人数合わせで合コンに誘われた既婚女性が、そこで魅力的な年下男性に誘われ、嘘でお付き合いするぐらいならいいかと独身のふりをした。で、恋愛ごっこを数カ月楽しんでいる内に、あれ、ってわからなくなって、混乱して、こっちが私?って、もういいかとよろめく寸前で、はっと自分が誰かに目が覚めて、私、解凍のお魚出しっぱなしだった、晩ご飯作らないと、あの人、一人じゃ何もできないからと、本当の自分、我に帰った。

私は誰なのか。誰とされて、今もそうなのか。それをお一人様で考えると混乱するのは、そのお一人様傾向が、自分自分の肉の引力であるからです。だから私たちには神様の御言葉が与えられ、それが本当に神様の導きなのだと心でわかるように、聖霊様がいつも導いて下さっているのです。だから、単に自分はダメだダメだって神様抜きで嘆くだけじゃなくて、神様に悪いと、心が父の御心に向くのなら、従ってなくて悪いと自分で自分を裁いても、それでも父に、またイエス様に向くなら、それは聖霊様がそう導いておられるからです。まだ洗礼を受けてなくても目が覚めて、イエス様が救い主だと父の御心に向いているなら、洗礼を受けましょう。神様が共におられます。そして導いておられるのです。