ガラテヤの信徒への手紙5章13-15節、レビ記19章9-18節「自己実現からの自由」

18/6/10主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙5章13-15節、レビ記19章9-18節

「自己実現からの自由」

「互いに」、「互いに」、「互いに」と、三つの「互いに」が並んで言われます。一つ目は「互いに仕えなさい」。互いに僕となりなさい、という言葉です。それと対照的に、敢えて比較して言われますのが次の二つのセット「互いに噛み合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように」。全く違う「互いに」が比べられます。どうでしょう。皆さんはどっちの「互いに」を選びますでしょうか。聖書が両者を並べるのは、そういう意図があるのですけど、これ、もしここで私が、学校の教室で先生が生徒に尋ねるように、では、~さん、言うて指名して、どっちの「互いに」を選びますか?と尋ねたら、どういう答えが返ってくるかは何となく予測されると思います。わかりやすい二者択一であるとも言えるでしょう。

ただ実際の現場で、もし皆さんが、まあ先生の立場とは言わずとも、誰かから相談を受けて、ちょっと聴いてやと、その人が誰かともめて、あるいは相手から噛みつかれるような事を言われて、言われたほうとしたら腹の虫がおさまらん。で、ちょっと聴いてやと相談を受けた場合を想像してください。しかも今日の御言葉に沿って先ずはわかりやすく、同じ教会の兄弟姉妹か、別の教会の兄弟姉妹、つまりキリスト者から、相談を受けたとして、しかもその相談してきた兄弟姉妹に言葉で噛みついてきた相手もキリスト者である場合、こんなこと言われてよ、ねえ、どう思う?と相談されたら、どういうアドバイスをされるでしょうか。同じキリストを信じている兄弟姉妹に対して。それが、今朝の御言葉の状況です。しかも「互いに」が大変に強調された上で、さあ、ここに、実際の教会の姿が見えてくると問われるのです。私たちの実際の状況はどうでしょうか。

ともすると、互いに僕となって生きるどころか、自分ではない誰かを相手として共に生きることが、個人の選ぶ生き方の一つのオプションになっている昨今の時代では、さっきのような相談を持ちかけられた時、もう、そんな人、無視したらえいわえ、という答えが、同じ兄弟姉妹に対しても、スルっと口から出てしまうのではないかと思うのです。共に生きることは、生き方の一つのオプションであって、何も、それだけが答えではないだろう、他にも生き方を選ぶ自由があるのではないかと。

それが御言葉が問うている、自由を口実とする一つの現れ方ではないかと思います。それは単に、自分がどう生きるかを考える上で、どんな生き方を私は選ぼうかという選択の自由が言われているだけではない。その私は、誰かと生きているのです。言わば否応なく、隣人に囲まれるようにして誰かと生きている。皆さんは、どういう誰かの顔が浮かんできたでしょうか。その顔をもつ隣人たちに囲まれて、あなたはどう生きることを選ぶか?が問われる。そしてそこで「互いに」が問題となる。いや問題と敢えてしている。あなたにとって「互いに」は問題ではないですか?と、御言葉は私たちに問いかけるのです。

無論、そこで相談を持ちかけてきた人の自己責任にして済ましてしまって、あんたが頑張って、その人を自分のように愛さないかんわえ、とやってしまったら、そこでイエス様から、いや先ず、あなたが目の前にいる隣人、問題を抱えてあなたの所に導かれてきた隣人を自分のように愛しなさいと言われてしまいますから、どんな場合でも自己責任にして済ますことはできません。むしろそこでこそ、愛によって互いに仕えることの、スタートの合図が、パン!と天から響くのだと思います。そこで相談に乗りながら、互いに自分のこととして悩みながら、もう本当にどうしたらえいろうと悩む。これで解決、はい、終わり、なんてことはないでしょう。もしあったとしたら、相談に来られた人が、主によって自由を味わって、ああ、わかりました、神は愛ですねと、賛美を捧げる時でしょう。でも、もしそうやって、その場で満たされて悩みから解放されることがなくても、ああ、こうやって互いに主の前に謙り、答えを探し求めることもできるのかと、決まり切った正解を振りかざし押し付けるような、噛みついてくるような正しい答えは、そうやねえ、何一つ全うせんねえと、神様の正義を指し示す律法全体は「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされると慰める今朝の御言葉の意味が互いに心でわかると思うのです。

「互いに」が御言葉のキーワードであることは、おわかりいただけたと思いますが、これはまた聖書が教える「愛」を知り、神様が求められる愛の生き方へと進んで行くためのキーワードでもあります。そのことを今朝は説き明かします。

聖書が教える愛、今朝の御言葉でも「愛しなさい」と命じられる愛は「互いに」を目指しています。その名を愛と呼ばれる神様が求められる愛、三位一体の神様から出て、私たちがそれに生かされ、生きる愛は、「互いに」を目指す愛です。

先に、互いに仕える生き方は、個人が選ぶ生き方の一つのオプションになってしまっていると申しましたが、これは今の時代がイメージする愛のイメージにも当てはまるかと思います。愛するかどうかを、自分が選ぶ。相手がどうであろうと、私は愛すると、私が選び、決める。他の愛さないというオプションもある中で、いや私は愛すると。ともするとそれが罪人を愛される神様の愛、あざける者たちのために、彼らの罪を赦し給えと十字架で祈られた主イエスの愛のイメージと重ねられることもあるかもしれませんが、その神様は「互いに」に、こだわられる神様なのです。相手がどうであろうと自分は愛するというのではない。神様は単に隣人を愛せよと命じられただけでなく「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と命じられた神様です(ルカ10:27、マタイ22:37、マルコ12:30)。愛を私たちから求められる神様です。無論、よく言われるように、愛する見返りとして、あるいは愛するための条件として、私たちの愛を求められるのではない。条件が満たされなかったら、何だ愛して損したという自分中心な損得勘定の愛は、十字架の神様の愛ではありえません。が、だからと言って、相手に愛を求めないのでもないのです。よく勘違いされますが、神様は私たちに愛を求められます。それは愛が、三位一体の永遠に共に生きておられる父・子・御霊の三位一体の神様から出る愛が相手と共に生きることを求めるからです。

その愛が、私たちを求められたのです。御子を私たちの身代わりとして罪の裁きに引き渡されて、その代わりに、私たちが罪の裁きと滅びから自由にされて、失われることなく、生きることを、しかも神様と共に永遠の命に生きることを、神様が求めて下さった。それが、その名を愛と呼ばれる神様の愛であるなら、相手と共に生きることを求めないで、自分の愛の行い、自分が愛することに終始するのは、愛することを手段とした自己実現になっています。

愛をさえ自己実現、自己満足の手段として用いようとする自分自分の人間の傾向、破れ、汚れ、罪の根源を、聖書は「肉」と呼ぶのです。肉が、愛をも利用して、神様が世界の創造の最初から求めておられる、共に生きる関係の満たしとは反対の方向に、私たちの関心を向かせてしまいます。つまり自分に向けて、です。自分で自分を満たし、自分の求めを実現しようとして、神様に逆らい、罪を犯させる。そこに隣人と共に生きるための、愛の足場はなくなってしまうのです。隣人は、そこで、私はどこに立ったらえいが?と自分の場所を見い出せない。皆さんは、そういう寂しい思いをしたことはないでしょうか。共に生きたいと願いながら、一緒に生きる足場を求めながら、この人の心は、どこにあるのだろうと寂しくなる。あるいは、そうやってどちらも同じ寂しい思いを抱きながら、仕方ないとあきらめてしまったり、相手に、主にある兄弟姉妹にさえ愛を期待しなくなることが少なくないのかもしれません。

しかし、神様はあきらめないのです。その名を愛と呼ばれる神様は、共に生きることを、そして私たちの愛を求めることを決してあきらめない方です。具体的には、このすぐ後16節以下、6章に入って最後まで、詳細に丁寧に、じゃあ、神様はどのように共に歩んで下さり、導いて下さり、私たちが互いに愛に生きられるようにして下さるかが教えられます。一言で言えば16節で「霊の導きに従って歩みなさい」。三位一体の聖霊様が、あなたには与えられているのだからと、とことん、あきらめないで、私たちを求められる神様の愛による解決が示されますが、今朝の御言葉で、それを言うなら「隣人を自分のように愛しなさい」。やはりこれに尽きる。隣人にまなざしを向けるのです。けれど、そこでまるで自分に関心を向けるように、隣人を見つめるのです。じゃあ、自分への関心はどうなるのか。肉が、自分やろ自分自分とうるさく言う、自分はどうなるのか。そこでこそ、キリストが与えて下さった自由という足場に立つのです。その自由に立って選ぶのです。相手を。何故なら、そこで誰を選ぶか、自分か相手かを選ぶ自由の足場には、キリストが立っておられるからです。キリストは、それ以外の自由を与えてくださってはおりませんし、その自由の足場において常に私たちを、この自由に向かって召し出し続け、こう言って、招き続けておられるからです。わたしについて来なさい。自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。そしてあの人に、共に仕えようと、隣人に向かって、隣人と共に生きる父の御心に向かって、さあ、ついて来なさい、と召してくださっているからです。

そのイエス様の召しに、はいと応えて、自分の愛や力なんかを信じるのではなくて、御霊の力によって仕えさせて下さる主の約束と、招きの真実を信じて、キリストを信じて、隣人に仕える。そこに神様の御心の実現はなるのです。