ガラテヤの信徒への手紙4章1-7節、イザヤ書53章「受難週でもクリスマス」

18/3/25棕櫚の主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙4章1-7節、イザヤ書53章

「受難週でもクリスマス」

以前、霊的二歳児からの脱却という説教をしたことがあります。二歳児の特徴というのがありまして、何でも、自分で自分で、と執着する。車で一緒に出かけるためチャイルドシートに載せようと抱っこすると、自分で自分でと、よじ登り、シートベルトしようとすると、自分で自分でと、どんなに急いでおっても、どんなに留め具がはまらなくっても、自分で自分で。アドバイスにさえ怒る。大変です。

まさに今朝の御言葉の言う、未成年という感じですが、さて問題は、大人になっても、自分で自分で、の二歳児と同じ態度、生き方、考え方で生きてしまうばかりか、と言うか、むしろ一見、立派な大人のように見えるのに、これが救いの話となると、別。自分で自分で、自分を救うんだと二歳児のように執着してしまうのは、何でなのか。

御言葉は3節でこう答えます。「世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」。だからだと言うのです。

諸霊と訳しましたが、世の諸々の力とも訳せます。もとは基礎となる原理という言葉です。例えば土や火や水や空気といった世界を構成する基礎となる物質があって、それらによって世界は基礎づけられていると考えられた。でもそれが単に物質的な話だけでなく、例えば運命のような法則があるんじゃないかと考え、星の観測をして、そこに世界の運命を支配する原理、ルールみたいなのがあるんじゃないかとか、そこには神々がいて、世界を支配しておってとか、当時の人々は考えておった。のですが、同じようなことを今もやってないか。占いを信じたり、縁起を担いだり、え?そんなん何で信じるが?理由もはっきりしないのに。だってそういうものやきと、信じちゅう訳やないけど、まあ、念のためよえ、とかって考えることを停止して、何となく、と言うよりは、訳のわからない力の言いなりになって、それを実行し続けていることって、案外ないでしょうか。

さっき言った霊的二歳児の原則もそうでしょう。何で、もうえい大人なのに、自分で自分でって、自分にこだわるのか。自分が好きな相手に対しては優しくするのに、好きでない相手や、いわゆる他人に対しては優しくしなくても別にえいやか、という考えになってしまうのか。人にされたら嫌なことを、どうして人にはしてしまうのか。わけのわからん決まりやルールに従うってこと、他にもあるんじゃないでしょうか。

例えば、皆がやっていることはやってえい。いや本当は皆じゃなく、あの人がやりゆうき、やってえいことにする。例えばお金の使い方も、これは浪費じゃないと。あるいは性倫理において、本当はいかんけど、かまんと。深く考えないことにする。また、ほとんどの宗教と言うか、人の歴史を通じて、また世界各地で、つまりどういうわけだか人間全体に共通する考え方や態度として、悪いことをしても、それはこれこれの正しいことをしたら相殺されてチャラになるき、だから大丈夫という、え?その保証は?という訳のわからない決まり、ルール、世を支配する諸霊が差し出す、要するに、ほら、人間はこういう行いによって救われるがよやという、まさに聖書がサタンと呼ぶ、世を支配する霊の下で、人は、どうしても行いによる救いを、つまり自分を信じたい。

訳のわからんルール。教会でもよくある。うちの教会の礼拝の仕方が正しくて、けんど何で、あの教会はあんな礼拝を…とか、あんな教えをとか、他の教会や兄弟姉妹を、しかも軽々に裁くことが絶えない。その自分の正しさを保証するのは誰でしょう?キリスト?じゃあキリストは私たちが裁く相手の保証はしないのか?キリストが人となられたのは、では一体何のため、一体誰のためなのか。私たち、そして全ての人が、そんな世を支配する馬鹿ばかしい諸霊の力や諸原理から贖われ、買い戻されて、そんな支配から鎖から、もはや自由になって、キリストのものとして、キリストのように、人を裁くためでなく、十字架の愛に生きるためではなかったのか。キリストのように、神の子となって生きるためではなかったか。

私は先週皆さんに祈られて行ってまいりまいたリフォユース500青年大会で、このことを改めてガツンと受けてきました。後で詳しい報告をしますが、1時半から6時迄、四つの説教と熱い賛美がほぼぶっ通しの熱い礼拝を約1000人で捧げました。奇跡を見させて頂きましたが、その最初の説教者が、ルター派で、牧師ロックスというロックバンドで伝道している関野牧師。ロッカーですので、メッセージもシンプルで熱い。イエス様が命を捨てて愛してくれているのに、その愛を人々に届かせないように邪魔をしているような壁は、もう全部ぶっ壊せよ、イエス様の十字架の愛があったら恐いもんなんてねえだろうと、まさに生きたLIVEの福音を語られた後、日本のカトリック教会のカリスマ、晴佐久神父も同じことを語られました。キリストが命をかけて愛して下さっている。それで私たちは一つになれるじゃないかと。私は、アーメンと、ぐっと来ました。だって、キリストが唯一真実の基礎だからです!それ以外のものは何一つ基礎には成り得ないからです。

私たち全ての人の身代わりとなるために、死ぬため、裁かれるため、呪いを引き受けるために、神様が人となられた。三位一体の御子が。始まりもなく終わりもない永遠の存在であられる神様が、私たちと同じ、苦しみを負う人間として、死ぬ人間として、女から、しかも律法の下に生まれた者として遣わされた。それがクリスマスの主、十字架の贖い、復活の命そのものであられるイエス・キリストです。

律法の下にとは、律法によって裁かれる者として、という意味です。神様だからといって特別扱いしないと言えばわかりよいでしょうか。

例えば学校で、先生、私らあ生徒にはパーマしたらいかん、校則違反やき言うて、けんど先生はパーマして学校来てズルイ、って言われて、だって先生は生徒やないきと言い訳をしたら、つまり先生は校則の下にはないということです。キリストは、そうなさらなかったのです。

でも、律法の下にはあっても、一つも罪を犯されんかったから、罪に定められることはない。律法を仮に学校の生活指導の先生として擬人化して言うなら、聖書の授業で学生であるイエス君にやり込められた先生が、ちょっと、律法先生、この生徒は授業中にこんなことしゆうけど、これは学校の規則に反してないですか、と問うても、違反はしてないと生活指導の律法先生は言う。違反してない?ない。何一つ?何一つ。

なら、律法によって裁かれても、罪を犯してないなら、罪に定められることもないし、そんなのは裁かれないのと同じようにも思えますが、そのキリストが、十字架で裁かれるのです。しかも律法によってです。罪がないなら、律法によって、罪はない、と裁きの判決を受けなければならないでしょう。それが正義でしょう。なのに、神様は律法によって罪のない御子を十字架で裁いて死なせられた。そこに、神様が、御子を律法の下に生まれさせられた理由と目的が満たされます。

それは御子が、私たちの罪の責任と罰を、私たちの代表責任者として引き受けて、その代わり私たちを裁きから救い、贖い出すためでした。それが私たちの主となられた方の、なさったことです。

私たちは何をしたか。罪を犯しました。神様の愛の掟を破り、神様と人を傷つけ、罪の被害者を作り出しました。その全員の顔を覚えているでしょうか。その人々は私たちが罪を犯さなかったら、罪の被害者なんかにならなくて良かった人です。被害者としての自分の痛みを考えればお分かりになると思います。それが罪を犯すということです。なのに、その被害者の気持ちや、犯され踏みにじられた正義は考えないで、いやけんど、自分はこれをしたき、あの件は相殺されるとか、その事は水に流されていいじゃないかと、相手の正義や関係の話ではなくて、あの事とか、あの件とか、自分で後始末できそうなことに替えたりさえして、それで仮に相手が死んでしまって後悔しても、これこれをしたら償いになるろうとか、結局は自分の気持ちの問題にすり替えて問題をすり抜けようとする。そうした世を支配する諸霊の下での典型的奴隷根性とも言い得るような考え方や態度から抜けられない。

そんな、罪や諸霊や律法の奴隷と化していた私たち、律法の下で罪に定められ、聖なる神様の裁きと、死と、永遠の断絶の宣告と、その執行を逃れられない私たちの前に、その私たちに代わるためにこそ、御子は律法の下に生まれた人として遣わされたのです。唯一つの目的のため、私たちの身代わりとなるためにです。御子が人として父なる神様の前に立たれて、聖なる裁き主である父よ、律法の下にある、全ての人の代表として、わたしが、その律法の裁きを受けますから、わたしが罪に定められ、永遠の裁きをこの身に受けますから、この人たちに罪を負わせないでください。わたしが、彼ら彼女らの代表責任者、主として遣わされたのは、このためですからと、主が、十字架で、全ての人の罪の責任をご自分の命を捨てて引き受けられて、裁かれて、死んで葬られ、陰府に降られました。

それが、私たち教会が世界中で、この一週間を、受難週として迎える理由です。

この受難週を過ごすために、一番大切なことは、単に罪の悔い改めをするとかではありません。自分の罪深さを意識しながら、もしキリストを意識することが無かったら、まるでキリスト抜きで、たまごとウサギだけのイースターを、ハッピーイースターとお祝いするようなもので、それもまた世を支配する諸霊とは無関係ではないからです。キリストに向き合うこと。自分に向かう方向から、キリストに向かって方向転換をすること。それが聖書の教える悔い改めだからです。諸霊が教える悔い改めは、単なるお一人様の悔い改めですが、聖書が教える悔い改めは、キリストの招きに応える悔い改めですから、一人でやる暗~いもんではありません。あるいは6節の御言葉で言うなら、御子の霊と一緒に父に祈るのです。父よ、私の罪を赦して下さい、雪よりも白くして下さい、イエス様の死を虚しくせず、主の招きに応え、主の愛に、従う者として下さいと。受難週の悔い改め、また復活祭への備えはそこにあります。