ガラテヤの信徒への手紙3章26-29節、ゼカリヤ書3章「洗礼でキリストを着る」

18/3/18受難節第五主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙3章26-29節、ゼカリヤ書3章

「洗礼でキリストを着る」

こんな話を聞きました。ある人が宿泊を予約した宿に電話で尋ねた。そちらの朝ご飯は朝食ですか(笑)。は、はい。聞かれた人も困ったと思います。を言いたかったのかと。たぶん和食ですかと尋ねたかったのでしょう。では、何故それを尋ねたのか。パン食だと小麦アレルギーがあるとか、何か理由があって尋ねたのに違いありません。

聖書を読む時も同じです。人の話を聞く時も同じですが、相手が何を言っているのか。また何故そのことを言っているのか。何か理由あるいは目的がある。何を何故、伝えようとしているか。この二つに思いを寄せることがコミュニケーションの基本です。神様とのコミュニケーションも、神様が、聖書の御言葉を通して、何をおっしゃっているのか。また、何故そのことをおっしゃっているのかに心を集中するのです。

今朝の御言葉は一見色んな事を言っているようですが、それは色んな角度から、しかし唯一つのことを言っているのです。要するに、あなたがたは皆、と言うのは、キリストを信じて洗礼を受けたあなたがたは皆という意味ですが、そのあなたがたは皆、等しく、神の子たちだ。何故ならキリストを着ているから、またキリストの中にあって一つだからと色んな角度から強調し、だから、あなたがたは神の子たちなんだから、と29節で結論を言うのです。なら、取りも直さず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人だと。

先の朝ご飯は朝食ですかに倣って言えば、あなたがたはアブラハムの子孫ですか?という問いに、その通り!と断言するのです。

おさらいになりますが、当時のガラテヤの教会に、自分たちは律法を守って、割礼も受けているから救われるけど、割礼を受けてユダヤ人にならない者、つまりアブラハムの子孫にならない者は救われないと教える人たちが来て、教会を混乱させていた。ん~、やっぱり律法を守らないかんがや、いや、だってキリストの恵みを信頼して洗礼を受けて救われるなんて、やっぱりそれは都合が良過ぎたろうか、やっぱり頑張ってないと、割礼も頑張って受けないと…って混乱していた。それが、何故ここでアブラハムの子孫という話をしているかの理由です。

相続人というのは、右の頁15節からの御言葉で、遺言とか相続という話が出てきた続きです。何で、そんな話が出たかと言うと、遺言で約束された相続を得るのは子供たちだからです。あなたがたが、その子供たちだ。神様から、永遠の命を受け継ぎ、天の御国を相続するのは、神様の子供たちだから。それは家族の当たり前として相続するのであって、子供が親から相続するって、決して頑張って何かを勝ち取るようなことではないだろうと言うのです。そんな家族は壊れているからです。

それを別の言い方で言うと、信仰によって、と言うのです。信頼関係以外に何か頑張ってないと家族の一員としては認めないとか、あってはならんでしょう。天の父がその子供たちに求めるのは、父と子の信頼の関係であって、信仰とは要するに、その関係を結ぶ絆、信頼です。その絆、信仰によって、父が与えてくれたキリストと一つに結ばれて家族になる洗礼を受けたなら、あなたがたは皆、神の子以外の何者でもない。自分が何故、神の子と呼ばれるか、わきまえよと言うのです。

二週前、ルカによる福音書の放蕩息子の弟のほうを読んで、この家族関係の真理を説き明かしましたが、今日は、その時は時間の都合で読まなかった兄貴のほうの話を読んで説き明かします。新約141頁。ルカによる福音書15章25節から。

「ところで兄のほうは…」。

頑張ってたんです。兄は。弟と違って。真面目とも言えます。自信もあるんでしょう。言いつけに背いたことは一度もないと言います。一度も!言える人おられるでしょうか。自分はこんなにもやっているという自負が伺えます。それが怒りになる。怒る理由になる。だって私は頑張って守ってきたのに!守らなくて、戒めを破った弟のために、上等な子牛を屠って。私のためには子ヤギ一匹すらくれない。自分が言いつけを守ったのは無駄だったと思ったのか。報われない、ただ働きさせられたと思ったのか。もしそうなら、兄は父との関係を、雇用者と労働者の、雇用関係だと思っているのです。これこれを行うから、これこれの報酬をもらえる関係。それは弟が、父との信頼関係を破ったから、もう息子と呼ばれる資格は失ったから、雇用関係で雇って下さいと考えた。でもそれを弟に言わせなかった父の気持ちを、兄も、わかってないのです。その兄に対して父は「子よ、わたしのものは全部あなたのものだ」と、雇用関係の報酬の話ではなくて、父子の相続の話をするのです。何かをするから、その見返りでもらえるのではない!そんなのは親子関係ではないだろう、子よ!と。兄は父を一体何だと思っておったのでしょう。翻訳では、お父さんに仕えていましたと訳しましたが、直訳はあなたに隷属してとも訳し得る言葉で、お父さんとは言わない。兄は父を父だと思っていたのでしょうか。父に、何と呼びかけていたのでしょうか。

イエス様は、だから、あなたがたは祈るとき、こう祈りなさい。天にまします我らの父よ、とおっしゃった。それは父のもとから遣わされてきたイエス様が、口伝えで教えて下さった、最も大切なことなのです。父は、私たちとの信頼関係の回復を求めておられる。単に天国に行くだけとか、まして、頑張ったら、その見返りで等という考えは、父の心を引き裂くだけのものでしかありません。

それに対して今朝の御言葉は、父から遣わされたキリストを信じて、信頼関係の絆である信仰によって、洗礼を受けて、キリストに結ばれたあなたがたは皆、神の子だと言う。そこには人種も身分差も男女差さえ関係ない。皆、神の子たちだから。これがあなただ。それとも自分は別の誰かだと思っているのか。あるいは誰だと思いたいのか。自分の行いによって自分はできる人物だから認められて当然の人物だとか。まさかユダヤ人はギリシャ人よりも勝っていてという人種差別や、それでいつまでも戦争が絶えない民族意識によって、自分はアブラハムの子だからユダヤ人だからと言いたいのかと。そんな差別や憎しみの温床を自分の救いの根拠にして、だから自分は救われていると自分を誇りたいのが、まさかあなたではないだろうと言うのです。

皆さんは、どうでしょう。自分が誰であるか、神様の前に安心と感謝を持って言える、これが私ですという自分を持ち得ているでしょうか。自分は誰であるという安心が、自分は何々をしているからという安心に勝っているでしょうか。もし劣るなら、自分が誰であるか、神様が私をご覧になられる時、私の何に心を込めて目を注がれているか、考えられたら良いのです。私の行いにか。それとも神様との関係において言わば神様さえ安心される揺るがない関係のある私にか。自分の親子関係や、他の関係で考えてもわかることです。人の行いしか見てない人。嫌な奴じゃないでしょうか。神様を、もし嫌な奴にしているなら、ごめんなさい、父よ、本当にあなたは私をあなたの子として見ておられ、求めておられるのですかと、尋ねたら良いのです。そしてイエス様が、そのために何をして下さったのか。父と私との関係をただ信頼関係によって結ばれるために、どんな犠牲を払って下さったのか。イエス様、ありがとうございますと言えるまで、償いの十字架を見つめたら良いのです。

さ来週のイースター礼拝で一人の姉妹が洗礼を受けられますが、何故洗礼を受けて神の子とされるのか。26節で、信仰によりキリストに結ばれて神の子だと言われるように、洗礼という行いが神の子を保証するのではありません。洗礼は受けたけど、自分が誰か、そんなのは知ったことじゃないという態度なら、そこに相手との信頼の絆はないでしょう。家族となる洗礼ですから、結婚式と同じでお一人様の洗礼なんてない。それがよくわかるのが、続く27節で「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは」という言葉です。直訳は「キリストの内側に洗礼を受けたあなたがたは」。キリストの内側に。まるでマリアの胎に聖霊様によって神の子イエス様が宿られたように、神の子イエス・キリストの内側に、洗礼を受けた私たちが神の子として新しく生まれ、神の子としての永遠の命を相続する。それはまさしく神秘的な言い方ですが、29節でそれをこうも言い換えるのです「あなたがたがもしキリストのものなら」。そして、事実、父がくださった救い主、人となられ、私の罪を負って身代わりに聖なる裁きを十字架で受け切って、私の罪を償いきってくださったイエス・キリストを、あなたが必要ですと信じるなら、それは父を信じるのです。父は、その信仰を見て、ならばあなたはキリストの内にいる。わたしはそのために御子をあなたに与えた。御子があなたを包み込み、あなたとなって身代わりに死んだから、あなたも死んだ。そしてあなたは、復活した御子と共に、御子の内に、御子と同じ神の子としての関係を、わたしと持って共に生きるために、そうだ、あなたはわたしの子として、御子の内側に新しく神の子として生まれたんだ!子よ、わたしのものは全部あなたのものだ!と、天の父は笑顔で言って下さる。

それが、私たちがキリストを着ているということ、私たちがキリストのものであるということです。それが洗礼の神秘です。

そしてそれは、キリスト、そしてキリストをくださった父との信頼の絆によってのみ、そうだ、あなたはキリストを着ている、あなたは片時も離れずキリストに固く結び合わされていて、キリストがあなたを離れることなど、たった一瞬の瞬きの時間さえあり得ないほどに、あなたはキリストのものだと保証される、キリストによる命の確かさです。

だったら、そこまで信頼の絆、愛と信頼によってのみ真実で嬉しい絆であり得る神の子としての命の相続を得ているのなら、先の放蕩息子の兄のような生き方の態度は、脱ぎ捨てたら良いのです。だってもう既にキリストを着ているのですから。その上に、自分を誇るような生き方や態度を着るのは、全く似つかわしくありません。それは私がここで金のタキシードを着るようなものです。嫌でしょう。キリストを着ているのですから。また、私も洗礼でキリストを着たいと思われる方、ぜひ一緒に着ましょう。あなたのためのキリストが、笑顔で待っておられます。