14/2/2朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章1-4節、申命記5章16節 「正しい親子の育て方」

14/2/2朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章1-4節、申命記5章16節

「正しい親子の育て方」

 

子供たちに、そして父親たち、むしろ両親に対する、とても具体的な御言葉が語られました、すぐそのところで、子と親の両方が、共にこの御言葉のもとにあるという右の頁、5章21節の御言葉を改めて聴くのが良いと思います。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」互いに、とは、ここでは子が親に、そして親が子に対し、両者ともキリストに対する畏れをもって、キリストに向かって襟を正して、その御前で、子は親に、親は子に互いに仕え合う。そのそれぞれの立場での仕え方はこうですと、具体的に教えておりますのが今日の御言葉です。

でもともすると、子には、従いなさいと言われているのに、親に対しては怒らさんように育てなさいと言われておるのは、あるいは十代の子ではなくっても、何か不公平だと感じられるかもしれません。それは、従うという言葉で浮かぶイメージが、不公平なイメージしか浮かばんからじゃないでしょうか。もう少し丁寧に言います。どちらも相手に仕えるのです。しかもキリストに対する畏れをもって。ただ、子は子としての立場、親は親の立場が神様から与えられておって、それは放棄することのできん責任ですから、もし放棄しても責任は問われますから、子は子としての責任を、親は親の責任を果たすのです。が、不幸なことに、その責任を互いに果たす幸福な家庭のイメージを多くの人々は抱きにくいのも、事実ではないかと思うのです。だから不公平だと、つい思ってしまう。ある意味、無理もないのです。またそこには教会の責任もあるのです。御言葉に従う幸福なイメージを世界に見せる責任が、です。

私も十代の頃は思いました。なぜ親に従わないかんのかと。どうして例えば夜遊びはいかんとか、煙草吸うたらいかんとか。大学らあいかんと俺は俳優になる言うたら反対されて、で、私は高校卒業して家出したいう話を教会HPに載せておりますが、それはともかく、何で自分の思いに従いたいのに、親に従うのか、つまり親を優先するのか、私は家出して家を不幸にするまで、わかりませんでした。母を病気にして納得しました。親を不幸にさせて自分が幸せになるはずがないと。それが大学に行くことにした唯一の理由でしたが、そこには私も親も知らない理由があって、私は行った大学でキリストに出会い、私の救い主と信じ、洗礼を受けて、神の家族になりました。だから従ったほうがいいですよ、と言うよりは、ま、十代の頃の私がそんなん聴いたら、へ、誰が従うかと思いそうなので、そうは言いませんが、むしろ親の皆さんに申します。神様が、親に従うことは正しいと言われるのは、それが親にとって正しいからというような親の自己正当化や自己満足のためでは決してなく、そうやって子供が神様の救いを受けるから正しいのです。その他の幸福があるでしょうか。前にも言いましたが、どんなに地上で、この世ではプラスだ、マイナスじゃなくプラスだ!と思う人生を送っても、全ての人の人生の最後には、その全ての人生が括弧でくくられて、その前に死のマイナスが、グッと引かれる。だから、むしろ先に読みました申命記の約束として語られている幸福や長寿は、神様がくださる永遠の幸福、神様の家族とされて永遠に生きる救いの幸いを証する幸福です。これはこの世で幸せになりたきゃ親に従えというご利益マニュアルでは断じてありません。ついでに申しますと、いわゆるこの世での様々な幸福を得ているキリスト者がおられたら、それはおもに天の父がおられることの証のためです。無論幸いは喜んだらよいのですけど、喜ぶにも他者への配慮は必要ですし、幸せな喜び方というのもあるのです。愛がなければ喜びも虚しい。幸せも虚しい。その虚しさに本当の幸せを、永遠の幸せを吹き込み、注ぎこみ、満たして、溢れさせ、人々への恵みとして分け与えさせてくださるのが、キリストの十字架の愛、神様の愛です。ですから親に従って幸福になるのは、皆そうなってほしいと招いておられる天の父による、神の家族の幸せへの招きなのです。

どうして親に従うのか。そこにしかるべき正しい救いの道が、開かれ見えてくるからです。またその道を親は子供に見えるようにする、そういう責任を持っています。親に従うというイメージが嫌なイメージしか浮かばんというのは、あるいは嫌々従わせられたイメージの蓄積であるのかもしれません。きっと従って良かったっていう良いイメージや記憶だって探したらあるのでしょうけど、回数や印象で負けるのでしょう。じゃあ従って良かったっていう良いイメージを増やす。しかも印象深く増やすのが、主に従って子供を育てる責任の、具体的イメージだと思います。一つには、わかりやすく言えば、褒めるのはやはり大切だと思います。例えば大人の礼拝中、子供ができる範囲で礼拝できたら良いのですし、そのためには主の祈りの暗唱を一緒にするなど時間と労力が必要ですけど、主の祈りを一緒に祈れたら私はすごく嬉しいです。アーメン言うだけで嬉しいです。ましてや天の父が嬉しくないはずはない。幼子が大好きなイエス様なんて、あ、主の祈り祈った、あれわたしが教えた祈りですよと、父に自慢しているかもしれません。そういうイメージ。

そして、そこに天の父のイメージもあるのです。イエス様は弟子たちに、わたしを見たのは、天の父を見たのだと言われました。イエス様はファリサイ派などに見られた権威を押し付ける強権的な権威主義の態度に対してこそ怒られました。天の父の私たちの育て方は、上から目線の上から押し付けるやり方ではありません。むしろイエス様に見られる父の愛は、当時いわゆる罪人と呼ばれた人々への憐れみに現れています。また人々がまるで幼子のように、私に関わって~、癒して~、助けて~いうて怒涛の如く押し寄せて来た、その人々を深く憐れまれ、自ら積極的に関わられた主のイメージに、父の姿はハッキリ現れています。そしてもちろん幼子をわたしのもとに来させなさいと言われた主のイメージも、父のイメージそのものでしょう。私たちが天の父の幼子として生まれ変わって生きるために、キリストは父のもとから遣わされたのです。その父のイメージに親が従い、子供がまるでイエス様や天の父にお従いするような喜びを我が子に教え育てて、嘘~従うって幸せやいかって、何度も何度も喜びが増えたら、イメージは自ずから変わります。無論、それには親が先ず、天の父に従う喜びを御言葉に従うことで養われ、いや~ほんと父に従うって喜びや。自分を捨てたら不幸やと思いよったけど、それ嘘や。父よ、ありがとうございますと、天の父との関係の喜びが増えたら、それを子育てに、そのまま当てはめたら良いのです。

また子供たちも、機会がなくてまだ洗礼を受けてなくても、天の父に愛されていることは間違いない!言われるまでもないですね(笑)。なら自分の親に、お父さん、お母さん、従うって自然なことでねえって、親に見せてあげたら良い。まあ!親の顔が見てみたいってなる(笑)。でも冗談じゃなくて、それが三位一体の神様の救いのご計画であるのです。そこに教えや理論だけでなく、現実に父に従う幸せ、子を育て愛する天の父の喜びが、一番証されるからです。三位一体の神様の計画と言ったのは、そのことで御霊の満たしが教会に与えられ、教会がキリストの体としての栄光を放ち、そこで救いがなることを、この御言葉は5章6章と具体的に語っているからです。この御言葉には、子供たち、あなたたちの出番が、ここに用意されているのです。イエス様に従って親に従って、こう言ったら良い。私を見たのは、イエス様を見たのですと。親にイエス様を見せて下さい。最も小さい者たち、あなたがたの出番です!そして大人も、私たちの出番を精一杯努めます。お互いそうやって仕え合います。そして天の父の愛、キリストの救いを、皆に証するのです。