14/1/26教会設立記念朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章21-33節、創世記2章18-24節 「キリストの体の一肢として」

14/1/26教会設立記念朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章21-33節、創世記2章18-24節

「キリストの体の一肢として」

 

私たちはキリストの体の一部なのです。それは、うんとわかりやすく考えればこういうことです。キリストの体の一部をなしている私たち、高知東教会が、例えばキリストの小指の先に血液を流す血管の部分であったとしたら、これは責任重大な部分として大変重んじられています。だって、私たちが機能不全に陥って、本来なすべき働きができんかったら、その先にある小指は、血が流れて行かんなって死んでしまいます。私たちのせいで、死にかけている他の教会があったら、責任重大です。

さて私たちがキリストの体の実際どの部分かということは、それほど重要ではありません。あるいはその血管の部分が働かんかったら死んでしまう小指こそ、私たちであるかもしれないと考えるなら、途端に近くの教会の働きが気になるかもしれませんし、逆に私たちの働きが近くの教会に多大な影響を及ぼしているのだということを、もっと敏感に感じ取れるようになるかもしれません。例えば名前を出すのは何ですけど、南国教会や高知中央教会に対して、私たちはどういう役割を果たすようキリストから託されているのか。教団に対してはどうか。この役割をどう高知東教会として特に長老会が自覚して、どんな働きを担ってきて、教会員全体に呼びかけ、現在、高知東教会全体として担っているのか。月次長老会報告や4月の教会総会での報告を思い出して頂いたら、あ、そういうことかと、よくおわかりになるのではないかと思います。

私たちがキリストの体の一部、全体に対する一部だというのは、そういうことです。この体には他の部分もあって、その部分とつながっておって、しかも互いに責任を負っているというつながりで、互いにつながっている。そこで何より大切なのは、そのつながりを、では誰が決めたかということです。長老会で決めた覚えはありません。キリストの体のどの部分になろうか、どの部分とつながろうかなどと、私たちが決めることはできません。この体の頭であられるキリストが決められました。私たちがではない。キリストに対する畏れをもって互いに仕え合いなさいという御言葉は、ならばそれぞれの教会が、自分のなりたい自己実現に走っているのか。それともキリストが望まれ、それ故に命じられる、キリストの体実現に向かって献身しているのか。これを自覚させ、自分の正体をハッキリ見させる、鏡のような御言葉だとも言えるでしょう。

今日、私たちは高知東教会設立記念礼拝を捧げております。私たちをご自分のお体の部分として、召し入れ、組み立て、教会として立たせて下さっている頭なるキリストに、改めて襟を正し、私たちは互いに仕え合いますと、キリストに対する畏れをもって礼拝する。それが教会設立記念礼拝に相応しい礼拝態度です。高知東教会に与えられている教会としての責任を、どう自覚するか。やはり明確な自覚は必要です。それは単に感情的に盛り上がるとか、もっと主体的に自覚を持って頑張らねばというのではありません。単に、いかん世の中に流されよった、自分を見失ってぼんやり生きよったと我に返るのが、自覚するということではありません。そこでは自意識は強くなっているでしょうけど、自覚するというのは、単に、ようし私は頑張るぞ、自分を見失わないぞというのでなくて、そこで見い出す自分とは、どういう自分であるのかを御言葉から明確にわきまえ覚えるということです。自分は誰であるのかを明確にわきまえるなら、主体的に自己実現に走っていってしまう教会のおかしさを、御言葉から自覚して避けられるからです。キリストが語られる自分を覚えれば、自分が、ではどう流されて、どれだけ本来の自分の姿から離れて、歪んで、おかしくなって、汚れてしまっているのかをも、覚えわきまえることができます。そして、その自分が、ではどうやって本来の自分の姿へと回復され、立ち返り、悔い改めて戻れるのかをも、本来の自分が誰であるかを、わきまえ直すところで、知るのです。

そこでわきまえる自分とは、キリストと一体とされている自分です。キリスト抜きで考えて自分を見失っていた嘘の自分に、キリストご自身が、違うろう、あなたはわたしと一体じゃか。わたしを無視してのあなたはあなたではない。わたしにとっても、あなた抜きのわたしはわたしではないように。だってわたしたちは一体だと、キリストが言われるのが私たちの自分です。夫が妻を無視して自分はというのがおかしくて、その自分は、じゃあ独身の自分ですか?妻と一体でない自分は嘘の自分だと言われているように、私たちにとっても、キリストを抜きにして、けんど自分としてはなどと言うのは、全くおかしい嘘の自分なのです。結婚して夫と妻が一体となり、一人の人となってしまい、自分とは即ち一体となった相手を含む自分であるように、キリストを救い主と信じて教会で洗礼を受けたら、キリストと一体となる。その体の一部となって一人の人となってしまい、自分とは即ちキリストに結ばれたキリスト者、キリストの体なる教会の教会員である自分以外ではなくなるのです。

無論、私を例に言えば、私がまるで独身のように妻を無視して自分を考え自分の好きなことをし自己実現ばかり求めることは可能でしょう。しませんけど。何故か。それは嘘の自分だからです。あるいはこう考えたほうがわかりよいでしょう。そこで自己実現に走りゆう自分が気づいてない自分の一部、つまり妻が自分の中で傷ついている。自分がです。また相手がどう傷ついて、どう思い、じゃあこのことに対して何をするだろうか、ということをわきまえるなら、嘘の自分は、ごめんなさいと悔い改めて、本当の自分になるために、夫として生きる他ない。同じく教会も嘘の自分を悔い改めて、本当の教会となるために、キリストの体の一部として、自分をわきまえ直して生きる他はありません。でないと相手がいますから、キリストは生きておられますから、聖書が厳粛に語るとおり、自己実現を求める教会は、その結果としての裁きを刈り取ることになります。そして私たちは、そんな実現は求めません。キリストに対する畏れを、御言葉から聴いているからです。キリストは生きておられます。その御体の一部こそ、私たちであるという自覚に、私たちは改めて、今日の教会設立記念礼拝で立ち返るのです。キリストの体の一部でありながら、もっとイメージしやすく言えば、キリストの一部でありながら、もし、キリストの思いを考えず、それ以外の何者かになろうとしておったなら、どうか、お赦しくださいと、キリストに襟を正せばよい。キリストはご自分の一部を無情に切り捨てたりはなさいません。今日の29節で言われるように、かえってキリストが教会になさるのは、我が身を養い、いたわることです。御言葉によって罪から清め救い出されます。私たちがキリストの一部だからです。自分の体をいたわるのは当たり前じゃないか、そうだろうと、キリストがそれほどに教会を自分自身とされ、あなたがたはわたしから切り離せないわたしの一部だ、わたしたちは一体だと言われますから、だから教会は自分が誰であるのかを自覚して、その自分として生きればよいのです。キリストの一部としての真実の自己実現を熱心に求めればよいのです。

そこに、体の他の部分に対して仕えるという私たちの責任も、自分のこととして自覚されます。こう言い換えてもよいのです。例えば他教会への祈りや献金、会の出席、奉仕に関して、何で私がと考えるときに、何でキリストがと考えたら良い。何でキリストがあの教会のため、また何でキリストがこの人のため、自分を犠牲にせないかんのかと考えるなら、何でキリストが私のためにと、問いは自ずから生まれ変わります。そこにキリストの答えだけ残ります。救われて生きて欲しいからです。永遠に神の家族となるために、今の全てがあるからです。