14/2/9朝礼拝説教@高知東教会
エフェソの信徒への手紙6章1-4節、申命記4章39-40節
「福音が親子を救う」
子育てという言葉を私たちはよく使います。でも親育てとは、あまり言わんかもしれません。しれませんけど親が親として育てられなくて、どうして子供を育てられるかというのは、皆さん、アーメン、そうだと思われるのではないでしょうか。
別に、子供を育てる、子供を子供をって、育てる対象を子供に限定しなくてもよいのです。親も育てられることがなかったら、子供も育てられません。また逆に、親として親としていうて自意識過剰になっても、子供を親育ての道具にしてしまうことになるでしょう。そもそも子供あっての親であり、子供には親が必要ですから、どっちが先とか、どっち優先とかでなく、コインの両面のような相互関係です。一息で、親子を意識すればよいのです。親子育てをする、と考えたらよいと思います。
よく、子供が産まれ子供中心の生活になったという言い方もします。親になった人の気持ちとしたら、的を射た言葉だろうとも思います。それまで夫婦中心か、他の家族を含めての家族中心か、あるいは仕事中心とか、自分中心とかだったのが、子供中心になる。部屋にキャラクターグッズが幅を利かせ、大人っぽいジャズとか聴いていたのが、童謡や、アニメソングに席巻され、時計の針もカレンダーも子供中心にグルグル回るというのを子供中心と表現するのかと思いますけど、これも、親子中心と言い直したら、それだけでイメージが変わるのかもしれません。子供中心に思える生活イメージを、まず親子中心に置き換えてイメージしてみたらどうでしょう。子供中心というのは、子供が中心でなければならないという脅迫的なイメージに展開したり、親は子供のために自分を犠牲にしなければ親失格だというイメージにすらなるのかもしれませんが、それは、何と言いますか、聖書の教える自己犠牲の愛のイメージに似ているようで違うのです。むしろ今日の御言葉が教える通り、聖書の語る神様の教えは、主を中心とした親子育てであって、無論、主の愛が子育ての模範ですから、親は子供のために十字架を負い死ねる心構えが求められますが、それは子供中心だからではない。中心は、そうした親子関係を育んで下さる、主イエス・キリストです。救い主を中心に、しかし、親子がまるで時計の長針と短針のように、グルグル回っているイメージ。長針が頑張って一周回っている間に、短針はちょびっと進むだけですけれど、進みが遅いようですけれど、刻んでいる時間は同じです。あら、じゃあ私は秒針だわってお母さんもおられるかもしれませんけど、やはり刻むのは同じ時間。不公平だって思うかもしれない。その責任の、一部分は、家族にもあるかもしれませんけど、そこでまず意識すべきは、やはりここ。毎度お馴染みになってくれていると嬉しいですが、5章21節の御言葉です。キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。夫婦が、そして親子が互いに、キリストに襟を正して、まずキリストと向かい合って、キリストから、あなたはその人に仕えなさいと召されている召命を受け入れる。召されているから、互いに仕え合える。それがキリスト中心の家族関係、主にある家族の営みです。
その中心は子供ではない。親でもない。キリストです。しかも主と呼ばれます。こう問うてもよいでしょう。私たちの家族で、誰を主としていますか。問いを間違えませんように。誰が主となっていますか、ではありません。誰かを批判するのではなく、私は、誰を主としているか。誰中心に生活をしているか。いつでもこれが正しい質問です。こう問い直すこともできるでしょう。私はいつも、誰を意識しているか。人の目を意識したり、家族の表情や振る舞いを意識したり、多かれ少なかれ、私たちは誰かを意識して、あるいは自意識過剰になってしまう。そんな私たちがキリストに襟を正して向き合うところ、キリストを中心、主とするところで、歯車は正しく噛み合って、恵みの時間を刻み始めます。消費されて行く時間でなくて、永遠に実が残る確かな時間を、あなたも一緒に刻みなさいと、永遠の主が私たちを招かれるのです。
その永遠に価値ある時間を具体的に刻むところの一つが、子供たちとの時間です。そのために主は、親を育てられます。まず親として召してくださいました。よく子供をつくるという言葉を聴きますが、畏れ多い言葉です。子供は命の主から与えられるのであって、どうせ言うなら、親こそが造られます。そしてそのための愛の教育を、子供以上に必要としています。だって、子供から敬われなければならない存在として召されたのです。畏れ多い召しです。どうして敬われるか。その子の命の主である神様の代理として、子供を育てるよう召されたからです。命の主である神様の、愛の教育をするためでもあります。そうやって愛の社会をつくります。ハーモニーある平和の世界をつくります。イエス様が、平和をつくる人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれると山上の説教でおっしゃった。それはまことに真実です。その平和をつくるため、神様は親をつくられます。その子供たちを神の子として救い育て、主がしつけ諭されるように育て養い、家族で命の主を畏れ敬って生きることで、世界を祝福するためです。主を主とせずに狂ってしまった人間中心、自分中心の世界の時間を、そうやって正しく刻み直していく。それは右の頁で今日の御言葉が展開され始めた16節の具体的展開でもあります。時をよく用いなさい。直訳すると、時を買い戻しなさい、永遠に至る時としての今を買い戻し、今が全てだという悪い時代から、時を買い戻し刻み直しなさい。そのためには、17節、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。親として召された者に対する主の御心はこれです。主がしつけ諭されるように、育てなさい。そのことで三位一体の御霊なる神様、聖霊様に満たされて、永遠の時が、私たちのただ中で、失われ得ぬ時を刻むからです。
そのために神様は親を親として親になるようにつくられます。先週は子供たちに、どうぞ皆さんの親に、イエス様を見せてあげて下さいと、説き明かしをしましたが、その前に先ず、やはり順番としては親が先につくられ、教えられ、育てられる必要があります。やはりグルグルと、短針をリードするように先だって進むのは親です。皆さんも経験があると思いますが、アナログ時計に限りますけど、狂った時間を合わせるのに、短針をまわす人はおりません。長針をグルグル回すと短針もついてくる。神様も親子育てをそうなさいます。主がしつけ諭されるようにという親子育てを、まず知っているのは親です。主が私たちのために何をして下さったか。天の王座から降りられないとは考えず、身を低くして私たちと同じようになられて、仕えて下さった主を知っている。怒りも知っています。主の怒りです。しつけに伴うとも言える怒りです。でもそれを主は十字架で自らに向けて、怒りの責任を自分で引き取られた。自己責任にしてぶつけない怒り。それが主のしつけであることを知るように、そうやってしつけることができるように、主が先ずしつけられる対象は親です。そこで、主のしつけを知っている私たちは、自らにこう問うこともできるのです。私は子供のために死ねるか。幸生、あなたは自分に与えられた子供のため命を投げ出す準備があるか。いつも問われます。そこで以前かわら版でも紹介した八木重吉の詩を私は思い出します。「もも子よ おまえがぐずってしかたないとき わたしはおまえに げんこつをくれる だが 桃子 お父さんの命が要るときがあったら いつでもおまえにあげる」。
これが単なる精神論だけにならんためには、具体的な指針も必要だと思います。言わずもがなではありますが、まず子供のために祈る。その中に、我が子のために毎日自分に死ねますようにという親子育ての祈りも含まれるのだと思います。親の意気込みを高めるのが祈りではありませんので、祈りの中心から自分を退け、キリストに対する畏れをもって恵みの父にお願いをする。子供の信仰、洗礼、主の僕として育てる召しについてなど、子供の召しについて祈りつつ、子供をキリストの御前に置くのです。親の思いを押し付けたり、子のために死ぬ思いとかを押し付けなくてよくなるよう祈る。キリストがもう死んで下さったのです。主から召された子供のために、召された親として執り成すのです。
そして正義と憐れみの両方が成り立つしつけ、主の十字架のしつけを行うためには、イエス様がそうなさったように、感情的にでなく、明確な意思決定として、私は親として子のために死にますと、神様の召しに応えることです。親子はこうあるべきとかっていう自己実現とか、自分の意志が一番になると中心が狂って、色々狂います。だからイエス様が十字架に架かる前夜、ゲツセマネの園で、自分の思いではなく、自分の意志ではなくと、ただただ救い主としての召しに応えて立ち上がられたようにでないと、親としての十字架は負えんのじゃないでしょうか。主がしつけ諭されるように育てるために、主と共に祈り、主と共に立ち上がる。そこに親としての御心実現がなされます。自分に振り回されないように、あるいは感情的にならんよう、自制する、セルフコントロールすること。それが具体的に主のしつけを行うことに繋がります。カッとなるときや、つい声を荒げたとき、そこでこそキリストに襟を正して、祈って、罪深い自分を負って頂き、主から託された十字架を負って自分に死に、我が子に仕えられる主の弟子として用いて頂く。口では簡単に言いますが、実際は実践でやるしかありません。十字架の主のしつけは毎回が実地訓練であり本番です。親子育ては毎回がそう。今、御言葉にアーメンと思っても、礼拝後すぐカーンってゴングが鳴るかもしれない(笑)。でもそこで主が共におられて、育ててくださる。頼りない親子であればこそ、自分に頼ったりせんのです。主に信頼し、召しに応える。
最後に、しつけが訓練全般を言うなら、諭すというのは、言葉で論理立てて教える教育です。何が正しくて何が間違って叱られたのか。感情でなく言葉で諭し、わからせる必要があります。わからん子の自己責任にしない。自分がわかっているか親も主に諭されます。愛でないから、罪だからと。そしてキリストの赦しを諭すのです。親子共々、主の福音によって諭されるところで、御言葉の養いを共に受け、神の家族として成長します。世界はそうやって世の光、キリストの救いを知るのです。