14/1/5朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章21節、詩編33篇 「キリストに仕える新年」

14/1/5朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章21節、詩編33篇

「キリストに仕える新年」

 

クリスマスの期間しばらく離れておりましたエフェソ書に再び戻って御言葉を聴いてまいります。間が開いたので少し記憶を呼び起こしますと、今読みました御言葉は、その前の18節の途中「むしろ霊に、聖霊様に満たされなさい」を具体化したものです。19節以下①語り合い②主に向かって心からほめ歌い③神様に感謝しなさいとあるのも聖霊様に満たされるとは、こうやって満たされるのだと具体化した指針で、最後に④キリストに対する畏れをもって互いに仕え合いなさいと続きます。なら互いに仕えるとはどういうことか、誰に仕えるのかとキョロキョロせんように、丸々一頁に渡る身近な人間関係に目を向けさせ、ここで互いに仕え合いなさいと言うのです。キリスト者の生活が、キリスト者らしく営まれるための急所が、ここにあるとも言えます。聖霊様に満たされるとは、わかりやすく言えば、キリスト者らしく生きるということです。それは無論、礼拝から、神様との関係また教会との関係から始まって、夫婦、親子、また現代で言えば様々な上下関係を伴う身近な人間関係においてキリストの僕として仕える。それが聖霊様に満たされ、導かれ、指導され、成長させられて生きるキリスト者、またキリストの体としての教会の毎日の歩みです。この一年も、ここでわたしについてきなさいと導かれる主に応えて、私たちは歩みを進めていきます。

その私たちを導かれる主のお姿が、仕える姿、僕の姿、私たちの救いのために仕える僕の姿です。そこにキリスト者らしさもあります。主がご自分を捨てて、仕えて下さったように、私たちも自分を捨てるところで、互いに仕え合うのですけど、自分を捨てることの何と難しことかと思い知るところで、襟を正す。キリストに対する畏れをもって互いに仕え合いなさいとは、何よりもまず、キリストに対して襟を正すことから始まります。畏れの態度が求められます。キリストに襟を正していないところで、よし仕えるぞ!と意気込んでも、自己実現で終わりやすい。自分の目指すキリスト者らしさや奉仕のイメージを満たすことが目的になると、自己満足にズレますから、ああ満たされたと感じても、それは聖霊様に満たされてはないのです。聖霊様に満たされている態度というのがあるのです。それがキリストに対する畏れです。無論それは、自分は駄目だ駄目だと常に落ち込んでいる自己不満の態度でもありません。自分のイメージどおりであろうとなかろうと、キリストが、これをして仕えて欲しいと求められる生活に、はい主よと襟を正して応える態度。それがキリストに対する畏れです。自分が駄目か満足するかは二の次でキリストに、はい主よと応えるかどうか。応えられたかどうかの判断もキリストに委ねて、私は主ではなく僕ですと、主に対して襟を正す。

え、じゃあ自分は?という自意識から自由にされた態度、あるいはそれが問題になってない時の態度が畏れとも言えるでしょうか。私がそれを特に襟を正して思うのは、私が親として、また夫として、また牧師として、子供を、妻を、そして皆さんを、私は自分の願うようには守れないのだと自覚するときです。いつ失うかわかりません。決して失いたくはなくてもです。皆さんもご存じかも知れません岩淵まことさんというクリスチャンシンガーの曲で父の涙という歌があります。ご自身の小学一年生の長女を病で失ったとき作られた歌ですが、ご長女が検査のため太い注射を打たれてギャーと泣いている声を聴かれたとき、岩淵さんはイエス様が十字架で、ご自分の罪の身代わりとなって受けてくださった苦しみや痛みを初めて実感されたそうです。私はその証を改めて読んで私事として感じました。仮にお父さんが守っちゃうきと約束したところで、守れんのです。意気込みはわかります。ベストを尽くすのは当然です。でもそのベストをさえ毎日の生活で尽くしているのか。尽くして、これかというのなら、正しい言い方は守る努力をするでしょう。映画や漫画の世界の自分を信じる強い言葉よりずっと頼りない言葉です。なぜ頼りないかと言うと、頼れないからです。私たちは守り神や救い主にはなれんからです。愛する家族に対してさえも。だからこう言うのです。イエス様が救って下さるから、一緒に信じようと。そこには無論、自分の強い思いもあります。でも自分はそこで中心にいません。襟を正してすがっています。イエス様、お救い下さいと、すがっています。畏れがあります。イエス様じゃなかったら救えんがですと、イエス様に対して畏れをもって向き合いながら、家族に、愛する人々に、主の愛を自分事として証しする主の僕として、謙遜に、しかし信じて仕えるだけです。そこでは自分の満足や不満より、キリストに対する畏れがあります。そしてその態度が自分にとって、しっくりくる時、仕える態度は成長し、僕として成長するのです。

このキリストへの畏れは、私たちが互いに仕え合うとき、どうしても欠かせない急所です。これを欠いたら僕になり損ねて逆に人を傷つけ、キリスト者らしく生きられないから、ここだ、ここに生きる時、あなたは聖霊様に満たされてキリスト者らしく生きられる。またキリストらしいキリストの体、教会を具体的に建て上げられるからと、実は、うんと具体的に語られた御言葉です。次の22節から具体化するのでなく、ここが具体化してないと、後の生活がキリスト者らしくなれない。キリストへの畏れが具体化すると、自分も自分の生活も、全て具体化し、リアルになるとさえ言える程の具体化です。聖書には主を畏れる、神を畏れるという表現が多くありますが、ここだけキリストを畏れると具体化されるのです。それは19節20節で主に向かってと言ったすぐ後で、私たちの主イエス・キリストと、どんどん具体化する流れから続くのですが、それがここで、キリストを畏れと具体化の頂点を迎えます。まだ聖書を手書きで写しておった時代、ここだけキリストを畏れと言っているのは変だと思って書き換えたか、つい主を畏れと慣れた表現で写し間違えたか、間違った写しが残っているぐらい、ここでキリストを具体的に畏れることが求められています。それは十字架のキリストに対する畏れがなかったら、自分を捨ててキリストの愛を証しして仕え合うことが不可能だからというのが、キリスト者の具体的現実だからでしょう。十字架を負われて、ご自分を捨てられたキリストが、私たちのただ中で現実化、具体化されるのは、その唯一のお方、キリストを畏れる時だからです。

キリストへの畏れが具体化し、その十字架の苦しみと死による償いが自分事になって、それ故に、私たちの愛する者たちの救いもまた、この十字架のキリストにかかっていると、キリストがご自分を捨てて下さったから、私たちは救われるのだと、キリストに襟を正しておすがりし、十字架の主よ、キリストよ、あなたの救いを現わして下さい、あなたの十字架の愛に生かしめて下さいと、襟を正して、主の愛に生きる。そこにはキリストがおられるのです。全ての人がキリストの裁きの座の前に集められる時、キリストがおっしゃる言葉があります。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。キリストが私たちの愛の業の中心におられると告げる御言葉です。キリストは生きておられます。聖霊様が注がれた私たちの只中で、キリストは十字架の救い主として生きておられます。だからキリストを畏れて仕え合う時、聖霊様に満たされて、キリストの救いが起こるのです。私たちの自分の思いや願いを超えた、自分自分を超えたところで、聖霊様がそうされます。キリストが救って下さいます。そのキリストを畏れ敬い、この一年も、互いに仕え合いながら歩むのです。