14/1/12朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙5章22-24節、創世記1章27節 「キリストに仕える夫婦」

14/1/12朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙5章22-24節、創世記1章27節

「キリストに仕える夫婦」

 

主に仕えるように、教会がキリストに仕えるように、と言われるのですから、まず考えないかんのは、これでしょう。私たちは、実際どのように主にお仕えしゆうだろうか。教会がキリストに仕えるようにというのなら、私たちはキリストに実際どのようにお仕えしているだろうか。ここが具体的にイメージできんかったら、妻として、どうしたらよいのか、イメージできなくて困るのじゃないでしょうか。まずここで具体的にしなければなりません。四の五の言わんと仕えよ、というのではないからです。まっこと、そうではありません。まずここで、具体的に自らに問いたいと願います。私たちが、教会としてキリストに仕えている、その仕え方は、どんな仕え方でしょうか。それが妻として召され神様の前に立っている姉妹たちへの模範になるのですから、具体的にイメージする必要がある。態度や嬉しいこと辛いことを含むキリストへの仕え方が自分たちの中で具体的になるときに、これを妻たちの自己責任にしてしまうことはできんなり、むしろ思いを重ねるようになると思います。仕えるって、そんなに簡単なことじゃないもねえと、姉妹たちへの慰めや励まし、感謝の言葉をも語り得るのではないでしょうか。

けんど私は洗礼を受けてないき、主に仕えるイメージができんとか、あるいは洗礼は受けたけど、まだまだ未熟でと恐縮されるなら、信仰の先輩として先に歩んでいる兄弟姉妹たちが、既に教会としてキリストにお仕えしている姿を思い浮かべればよいのです。この教会がキリストにお仕えしゆう具体的姿が一つも浮かばんということはないでしょう。この教会の兄弟姉妹がキリストにお仕えしゆう姿、それが妻たちに対する奉仕になっちゅうとも言えるのです。私は妻じゃないから今日の御言葉は関係ないという人は一人もいません。今日の御言葉が流れ出た21節の御言葉にも、それは含まれています。キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさいと命じられるところで、私たちは妻として召された姉妹たちに仕えます。それ抜きで仕えなさいと言うのは論外です。

あるいはキリストは見えないから、キリストに仕えると言われても、ピンとこないというのであれば、先週もお伝えしたキリストの御言葉を聴くのが良いと思います。終りの日、全ての人が裁きの座の前に集められる時、キリストが私たちにこうおっしゃる。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。キリストは見えなくても、キリストにお仕えをする、その愛は見える。そのことは、どうかしっかり見ておって欲しいと語られた御言葉です。最も小さい人とは、社会的に弱くされ見下されている人々であるとよく言われますし、それも間違いではないでしょうけど、それと共にもし誰か私たちが何でこの人に仕えないかんのかと思う誰かがいるなら、その人も十分小さく、軽く扱われていないでしょうか。でもキリストがおっしゃいますには、その小さい人はわたしだ、そしてこの人に仕えてくれたのは、わたしに仕えてくれたのだ、よく仕えてくれたとおっしゃるのです。誤解されぬよう申しておきますが、私は妻から軽く扱われているということは一切申しておりません(笑)。また同時に、自分は小さい人ではないとも申しません。自分から見たら、どうしようもない罪人で、ちっぽけな男だと思います。でもそれは自分で決めることではないし、人から決められることでもありません。誰かが仕えるに価するかしないかを、人間が決めることはできません。価しないと思われる人にこそ、キリストはご自身を重ねられ、その人にしてくれたのはわたしにしてくれたのだと喜ばれる。その人のためにキリストがまずご自分の命を捧げられ、罪の償いとして身代わりに死んで下さったほどに、キリストが、その人に仕えられたからです。わたしはこの人にいのちを捧げたから、その人にしてくれるのは、わたしにしてくれるのだ、わかるだろうと、キリストは愛の論理で私たちに向き合われます。だから私たちも救われ得るし、この愛の理屈に説得されて、仕える僕にも変えられるのです。

主に仕えるように、教会がキリストに仕えるようにというのは、実にこのキリストの愛の業、救いの御業を仰ぎつつ、そのあなたの御業が、あなたの御心がなりますように、そのために私はあなたにお仕えいたします、あなたの愛される人々にお仕えしますと、救い主なるキリストにお仕えすることです。それが23節で具体的に説明されています、教会がキリストにお仕えする理由でもあります。ただ漠然とキリストにというのでなく、私たちを救って下さる方としてのキリストに、救い主であるキリストにお仕えしますと、教会はキリストにお仕えしているのですから、例えば、この後トラクトを配りに行って、近くの隣人にキリストの救いの知らせを届けに行く。そこにキリストの御心に仕え、そのことでキリストにお仕えする具体的姿が見える。またご自分のボックスや受付にあるトラクトを、各自お家に帰られて家族や知人にお渡しするとき、そこに主にお仕えする具体的姿があるのです。無論、この礼拝もそう。毎回の礼拝が伝道礼拝です。毎回の礼拝に新しい人が与えられますようにと祈り、そのために準備するのは当日の礼拝奉仕者だけではないはずです。ここでキリストにお仕えしている。キリストの体として、頭なるキリストの御心をなさせたまえ、あなたの体の一肢とされた私を聖めて御用のために用いて下さいと、献金と一緒に我が身をキリストに献げ、キリストにお仕えし、襟を正して拝むのです。

キリストを自分よりも優先すると言えばわかりよいでしょうか。はたからすれば、何で貴重な日曜日に礼拝に行くろうということかもしれません。無論、暇だから来ているわけじゃないし、カルトのように、礼拝せんと救いを失うとかって強制されているわけでもない。敢えて言うなら好きで来ているのですけど、自分を優先してではない。自分の好きが礼拝に来る理由の頭ではなく、キリストが、わたしのもとに来なさいと私たちを召され求められる、その愛が優先して、その愛に頭を垂れて、はい、あなたが私の頭ですと襟を正して礼拝することが好きなのです。これが自分だって、しっくり来ている。キリストを頭としている私が私であって私はそのように神様に召されているからと、屁理屈ではなく、キリストを頭とし優先するから、礼拝し仕えているのでしょう。

そして、やっとここで、妻たちよと、妻として召された姉妹たちが、キリストに対する畏れをもって、どのように夫に仕えなさいと言われているのか、共に聴くことができると思います。フェミニズム台頭以来のこの50年評判が悪くなった御言葉「夫は妻の頭だから」という理由も、人のことを思わず、神様のことを思い、キリストに対する畏れをもって理解することができるでしょう。また更にはそれがしっくり来て、ここに私は召されましたと、妻としての召しを、ますます理解し納得して、この召しにおいてキリストにお仕えする。そのことで救いの御心がなされ成就し、キリストの救いが起こる。それがこの御言葉のゴールです。

キリストが教会の頭であるように、夫は妻の頭だと言うのですから、夫は25節で命じられるように、妻のため自分を与えて死ななければなりません。キリストが教会にそうなさったようにです。キリストを根拠とする頭ですから、俺を優先しろと偉そうにすることは論外です。無論その夫に向かって、私のために死ねと言うのも論外ですが(笑)、キリストに対する畏れを忘れ、神様のことを思わずに人のことを思ってやる時、そういう態度になりやすいのも事実でしょう。

先週、夫婦関係、人間関係の中で具体的に主に従うためには、21節が具体的にならんといかんと申しました。キリストに対する畏れをもって互いに仕え合う時に、頭である夫は死を覚悟しますし、それに仕える妻もまた、夫がキリストのように死ねるよう、キリストの頭に葬りの香油を注いだ姉妹マリアのように、夫の死の召しに仕えることで、キリストにお仕えするのです。

随分なことを言うと思われるかもしれませんけど、愛とは自分の命をあげてしまうことです。少なくとも、キリストによって私たちが知った愛は、全てに優先されるべき神様が、ご自分よりも私たちの救いを優先されて、私たちの代表として死んでくださって、この私をそのまま受け入れて下さった愛です。無論、だから、そのままで何も変わらなくて、罪深いままでいいということでなく、だから、わたしに従いなさいと、神様の子供として歩む聖なる命に生きるよう、具体的に生き方も態度も考えも、復活の命に変えて下さるのがキリストの愛です。ですから妻が夫を、また夫が妻をそのまま受け入れるのに、自分が死ななければ自分が勝つ他はないでしょうけど、それは相手の言いなりになるということでもありません。夫を教育すると言う上から目線でもありません。教会がキリストを自分の頭とするように、妻が夫を自分の頭として仕えるとは、夫を自分の代表として立てるという意味で優先すると言えばわかりよいでしょうか。私たちの代表として死なれ復活させられたキリストが頭であるように、です。代表には代表としての責任があり、また代表に仕え、支える務めにも、やはり責任があるのです。キリストがキリストとしての責任を全うされるように、教会は教会の責任を全うする。夫は夫の、妻は妻の、神様から召され、与えられている責任を、その責任の内容は違えども、責任全うに互いに務める。どの務めも責任も容易ではないですし、また容易ではないことを主がご存じであればこそ、互いに仕え合いなさい、キリストに対する畏れをもってだ、そのことでわたしは救いの業を行うと、主は、夫婦がそのように仕え合うことで、教会をご自身の体として建て上げて、救いを完成されるのです。

妻も夫も、互いに責任は違えども、キリストと教会がそうであるように、一つとなって、御業に仕えます。頭と体は別々ではない。一体です。先に言いましたように、いやいや私はまだ未熟ですからと思う教会員もキリストと一つに結ばれた、キリストの体の一肢です。成熟をしていくのです。夫婦も。その道は、キリストに対する畏れをもって互いに仕え合うことで、キリストにお仕えすることです。相手がまだ救われてないのなら、尚のことキリストの御心は、そこで救いをなされることです。その御心を信じ、お仕えして、教会は救い主の体として歩むのです。