14/1/1元旦礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書2章21節 「この名で生きる」

14/1/1元旦礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書2章21節

「この名で生きる」

 

教会の暦では、古くから12月25日をイエス様の降誕日として祝い、その25日を1日目と数えて8日目の1月1日を、主イエスの命名日として祝ってきました。今年はその御言葉を聴くことから始めて、イエス様の恵みに共に生かされたいと願います。

天地を造られた神様が人になられてイエスという名前で呼ばれる。人となられた神様の名前にしては、実は地味な名前だとも言える名です。イエスというのはギリシャ語読みの呼び名で、もとのヘブル語で言えばヨシュア。あのモーセの弟子の名でもあり、ユダヤ人の名前としてはポピュラーな名前です。例えばイエス様のお名前によって祈りますと皆が祈る時、そこにイエスという名の人がきっとおったに違いないのです。それは現在もそうで、米国留学中に南米からの留学生が多かったのですが、ヘスウスという名前の男性がおりました。英語読みだとジーザス。イエスだと聴いて、びっくりしました。結構おるのです。日本人の感覚からすると、お名前はと聞いて、空海です、え、俺も俺も(笑)という感じで、人によってはありがたみが薄れる感じでしょうか。

でもそれが神様の、強い強い思いの現れでもありまして、人となられた神様はそのお名前からして普通の人と同じ、え、あなたが神様?私と名前もけんど同じやかというぐらい、私たちと一つになって生きて死ぬために来られたのです。それがイエスという言わば普通の名前を神様が選ばれた理由でもある。ひょっとイエス様の青年時代に、え、あなたもイエス?えい名前でねえ、イエスって、ということだってあったかもしれません。普通の名前でしたが意味は深いのです。イエスという名は、ヤー・ホセア、主が救ってくださる、主こそ救い、または救い主という意味のお名前です。なら、どんな救いか。そこが急所です。主は救いと言われる救いとは、どんな救いか。それは、人となられた神様が完全に私たちと一つになって、完全に言わば一体化、一心同体となることで、神様が人の身代わりになって罪を負って死ぬから、人はその身代わりによって赦されるという救いです。クリスマスに引き続いて教会が命名日を祝うのは、そういう人となられた神様の救いを祝うのです。それは天の上からの上から目線で罪ある人間を救っちゃおうというのではない。それはイエスという名前によって来られた神様ではない。イエス様は、同じ目線で私たちを慈しみ、愛し抜かれる人となられた方、主は私たちの兄弟となられたとさえ呼ばれる救い主です。苦しみも悲しみも痛みも喜びも、共有し、共感され、涙を流し、一緒に笑って、心から怒ってもくださり、なおその怒りを、ご自分の身に引き受けて下さった救い主がヤー・ホセア、イエス様です。救い主は私たちになられた。

数年前になりますが、清和学園の運動会でしたか、先生が仮装をするという競技があるのですけど、今は定年退職された女性教職がAKB48の仮装をして振付を完全に覚えて踊って生徒から超受けたというのを聴きました。度肝を抜かれると同時に、私は襟を正しました。生徒の目線になるというのは、それを恥だとは思わずに、48じゃなくて、58歳だから58だと、笑いながら生徒のために踊るのか!心を動かされました。愛とは自分を捨てることだと言いますが、それは嫌々しているのではなく、根性でやるというのでもなく、愛とはその人と一つになることなのだと私は襟を正しました。そこに、人となられた神様の愛を思いましたし、そんな素敵な58歳に私もなりたいと思いました。

清和学園の始まりそのものが、自分を捨ててやってきた女性宣教師によるのも、そこで思い出して良いと思います。イエス様の愛に生きる、また生かされるイメージとして、宣教師を思えばわかりよいかとも思います。教師も学生の世界にやってきた宣教師です。私の感動した映画で30年近く前の、ミッションという、やはり自分を捨てる宣教師の映画があります。先に言いましたヘスウスさんが今はようけいらっしゃる南米にイエズス会の宣教師が遣わされるのですが、ジャングルに住む文化も世界も全く違う人々と同じ目線で生きる。当時はまだいわゆる未開人は奴隷にして支配して当然だと主張する奴隷商人や政治家たちに対して、いやこの人たちは神様に愛されている同じ人間ですと、イエス様の愛によって彼らと一緒に生きて、一緒にイエス様を礼拝して、そして一緒に血を流しさえした。やはりイエス様を思い、襟を正しました。

イエス様がその名を受けられたのは、産まれて八日目の割礼を受ける日だったと語られます。割礼は、イエス様が来られて後、洗礼の儀式にとって代わられた救いの儀式ですが、洗礼も割礼も共に罪から救われるという意味を象徴する儀式です。洗礼は罪から自分を洗います。割礼は罪と汚れを自分から切り離す意味で男性の包皮の一部を切除する。血が流れる。人となられた神様も、そうなさったと言うのです。罪なき神の子が、どうして割礼を受けて血を流すのか。私たちがそうするというのならわかります。それで罪がなくなるなら、やらんでしょうか。私の罪で愛する人を傷つけることがなくなるのなら、この罪が切除され、人を傷つけたり憎んだり、愚かな欲望にとりつかれたり嘘をついたり隠したり、もうせんですむようになるのなら。先のミッションという映画にもそうやって自分を傷つけて、罪による心の痛みを取り去りたい、救われたいと願う人が登場しますが、自分を傷つけても、罪から救われはせんのです。赦しは自分では産めんからです。ならばこそ、赦されなければ救われない私たちを救うために、神様が人となられた。ご自分は受ける必要のない割礼を受け、流す必要のない血を流されて、この血はあなたを償うため、あなたを十字架で背負って流す償いの血、罪の赦しの血であると、主はずっと私たちを背負い続けておられたのです。その血も命も死も悲しみも苦しみも喜びも祈りも絶望も信仰も、すべてが私たちのためでした。すべてが人と一つになるため、私たちと完全に一つになられて身代わりとなり、私たちの償いとなるために、神様は人となられて血を流されました。それで人間は救われるのです。神様が私たちの全てを身に負って、この身に一切を背負うから、これであなたは生きられると私たちを救う割礼を受けられて、このお名前を受けられたからです。主が救われる、わたしはイエスだと。

人は皆、この名によって救われます。この名によって生きられます。頂いた赦しと愛と命に、また神様の愛される人々と生きるため、学校に遣わされる宣教師として、家族に遣わされる宣教師として、神様から、あなたはここで生きなさいと、イエス様の名によって遣わされた、そのところ、そのところで、イエス様のお名前を呼んで生きるのです。主は救い、あなたが救って下さいます、イエス様、と、神様の赦し、救い主を信じる信仰に生きられます。この年も主と共に生きていけるのです。