13/12/29歳晩礼拝説教@高知東教会 ヨハネの黙示録22章12-21節、イザヤ書55章 「来なさい恵みのもとに」

13/12/29歳晩礼拝説教@高知東教会

ヨハネの黙示録22章12-21節、イザヤ書55章

「来なさい恵みのもとに」

 

クリスマスを迎え、また一年で最後の礼拝を捧げる中で、聖書の最後の御言葉を読むのは、感慨深いものがあります。言わずと知れた黙示録ですが、興味はあっても難しくて敬遠をされる御言葉かもしれません。黙示録とは、わかりやすく言い換えれば神様から示された幻です。言葉にできない幻を神様から見せられたヨハネが、それでも何とか言葉にしようと神秘的な表現で描き現わした神様の救いのスペクタクル。特に今読みました最後の部分は、いよいよ神様の救いのドラマが完結を迎え、言わばドラマの最終回がこういう風に来ますから、どうかこのドラマの中に来て下さい、という招き、言わば救いの歴史の最終回の予告編だと言うたらよいでしょうか。映画館に行くと最初に幾つか映画の予告編が流れる。実際のちょっとちょっとだけ映し出して、ぐ~っと引き込まれていって、Coming Soon!すぐに来ます!おお行こう行こう、早う来てって思う。そういう風に言うと神秘的でなくなるかもしれませんが、これが招きであることには間違いない。来てほしいのです。この最終回を共に喜び祝う者として、救いの最終回を喜びの大団円として終わらせるために再び来られるキリストが私たちを招いておられる。見よ、わたしはすぐに来る。だから、あなたもこの救いのもとに来なさいと。

救いの最終回と言いましたが、そうなのです。今月の最初の礼拝で、こう言いました。聖書は、キリストによって救われたと言うと。時間的にはまだ最後の審判が終わってなくて、本当にそこで無罪の判決を受けて救われるかどうか、まだ時間的にわからない。けれどもキリストによる救いは、確実性の問題だから、キリストがあなたの罪は赦されたと罪を赦して下さったら、もうそれは起こったも同然なのだという言い方をする。それが救われたという言い方だと。それがキリストを信じるということなのです。キリストが言われることを、本当に信じていいのか、私の不安より確実なのか、また不安を書き消そうとして自分で頑張って自分で自分でってやっている自分より、あなたの十字架の赦しのほうが確実で信頼に足るのですか、信じていいのですかとキリストを仰ぐところで、「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」と言われるキリストの恵みの招きに出会うのです。価なしに、です。自分を救うのに必要な値段はこれぐらいだろうと命に値段をつけて、この自分の頑張りが自分の命の価値だと自分を見積もるようなことをしなくてよいのです。そんなことせずに、わたしのもとに来なさい、わたしがあなたの命の価値だと、神様が人となられて、私たちの価値としての命を差し出すことで、私たちを救う決意をされたからです。それがクリスマス、しかも十字架に向かうクリスマスでした。私たちが生涯で犯してきた罪の総決算としての行いの報い、罪の裁きを、神様が引き受け終わらせるために人となられて、実際に死んで下さった。だから、この世界に終りが来て、また私たちの人生の総決算が来て迎える世界の最終回、最後の審判が確実に来ても、そこで確実に価なしに救われる。十字架で全部キリストに背負われて救われるのです。

価なしに飲むことのできるこの命の水を、神様のもとに来て受けなさい、価なしに飲みなさいという救いのイメージは、また別のイメージでも語られます。命の木のもとに来なさいというイメージです。その木をイメージしたのがクリスマスツリーだとも言えまして、これは常緑樹、常に緑ずっと緑という意味の英語で、エバーグリーンの木を使います。フォーエバーのエバー、永遠の命を象徴するのがクリスマスツリーでして、そこに吊るすリンゴを永遠の命の木の実と見立てても良いのかもしれません。もう、うちのツリーはしのべてしまいましたので、来年またツリーを出す時に、おお命の木だと、救いの最終回に思いをはせる機会としてくださったらと思いますけど、しのべてなくなったツリーを思いながらも、そうだ、このツリーは象徴にすぎないし、やがてキリストが再び来られる救いの最終回の日には、キリストが本物の命の木を持っておいで下さると、本物を待ち望めば良いのです。もう既に私たちの罪を負うために来られたキリストが、今度は罪を完全に終わらせ消滅させて罪なき世界をもたらすため、罪による様々な呪いから完全に解放された全く幸いな世界をもたらすために来られます。キリストの後から、全く幸いな命の世界が、言わばキリストについてやってくる。黙示録の描く救いの最終回はそういうイメージなのですけれど、それは主の祈りでも実はそうなのです。御国を来たらせたまえ、と私たちは日々祈ります。神様の救いのご支配のことです。神様がご支配され、その統治に人々が従うところ、神様のご支配がなるところを、聖書は御国と呼ぶのです。主がクリスマスに来て下さって、その赦しのご支配、しかも十字架の裁きによって赦される恵みのご支配がやってきた。でもまだ罪がのさばっているところでは、御国は完全には来てないのです。それで私たちは苦しみますし、神様に従わないで自分の思いを押し通すところで自分を苦しめ、人を苦しめてもいる。そこに御国は来なければならないし、確かに確実に来るのです。私たちが頑張って天国を造るようなことではなく、キリストが来て下さって始めて下さった救いのご支配を、ついには完成させるためにキリストが再び来られて、その後から御国が来る。ならば御国を来たらせたまえと祈っている私たちの祈りは、それがそのまま、主イエスよ、来て下さいと祈っているのだとも言える。主よ、あなたの御国をつれ来て下さい、主イエスよ、来て下さいと祈っている。そしてクリスマスは完成します。例えツリーが片付けられても、クリスマスは25日で終わるのではない。完成を目指して来られたクリスマスの御子はクリスマスを確実に完成するためにまた来られます。だからクリスマスを祝った教会は、その完成を求め続けて、御国を来たらせ給え、主よ、来て下さいと祈るのです。

あるいは祈らざるを得ない状況もある。だから試みに遭わせず悪より救い出だし給えとも祈りなさいと、イエス様が導いて下さっています。試みとは、イエス様が荒れ野で遭われた誘惑だと言えばわかりよいでしょう。悪また悪魔が誘惑する。負けたことのない人がおるでしょうか。その悪が自分の中にもある。罪がある。そのままだと裁かれ滅びてしまう他ない。だからキリストが来て下さって、罪と悪から救い出したまえと祈って良い、あなたはそのままでは生きられないから、悪をあなたの一部にしないで、あなたが悪の一部にもならないで、悪と滅びがあなたがたの外にある世界、悪から救い出される救いを求めよと、主は祈りを教えて下さった。救いは悪からの救いだと言われた。それが14節後半で語られる一見厳しい内容です。今朝の御言葉もまたクリスマスイヴ礼拝で読まれる御言葉であると出席された方はお気づきでしょうけど、この部分は読まなかったなともお気づきかと思います。一つには、こうした厳しい言葉は何故かすぐ気になって、そこばかり印象に残りやすいからです。イヴ礼拝でそれを一々説き明かす暇はありませんので、省くことにしています。もう一つの理由は、14節の強調がそこにないからです。むしろ強調は、命の木が自分のものとされる者たちの幸いにあります。犬のような者とは、ペットの犬ではなく、死体を嚙み千切る野犬のことで、誰にもなつかず汚れて分別なく神様に噛みつくという象徴ですが、その類のその他一切の罪の呪いは、外にある。つまりキリストがつれて来られる救いの世界には、その類の悪も呪いもが全くない。幸い以外にない世界に住む者は何と幸いかと、幸いを強調するのです。けれど気になるのが人間でもあるでしょう。それもご存じで神様は、あなたは外にいたくないだろう、あなたは噛みつく者、呪う者でなく、もし例えそのようであったとしても、ならばこそキリストは飼い葉桶の中で人として生まれて、十字架で呪われて死に、あなたの呪いを全部引き受けて血を流したのだから、あなたはその血潮滴る十字架のもとで、その血によって罪を洗い流し、裁きと呪いの十字架を、都の外で呪われたあの呪いの木を、しかし、わたしが復活によって、いまや命の木としたことを、あなたは命の木のもとで命を受けて、神の都の中で生きるのだと、この木のもとに来たら良い、キリストはあなたのために来たのだと、神様は、キリストのもとで生きられる十字架の幸いを語るのです。あなたもこの木のもとに立てと、赦された復活の命へと招かれるのです。

この御言葉にも、16節にダビデのひこばえと、復活の主の救いが語られます。イザヤの預言ではエッサイの株、切り倒された切り株が、これがどうなるか、もう全部終わりやと思いよった切り株から、ひょこっと若枝が生えて来た、それが救い主イエス様だ、キリストによる救いはこのように行われると預言されていた。ひこばえとは、その切り株から生え出た若枝のことです。キリストの救いが確実なのは、裁きが確実であるからです。キリストは始めであり終わりであって、その間にある全てを引き受けられる方であり、私たちの行いの報いを完全になさるお方として唯一の方です。全部ご存じで全部把握され、ならばこそ、その全部を十字架の上で握りしめ、自らに釘打ち裁きを引き受け、完全に確実に裁かれたお方、完全に切り倒された方であればこそ、そこから新しい命に甦られて生きる人、またその初穂として、自らをダビデのひこばえと呼ばれる十字架と復活の救い主です。だからこそ、キリストは、誰でもわたしのもとに来なさい、渇いている者は来るがよい、価なしに受けてよい、わたしから流れる命の水で、全ての罪は洗い流され、霊は潤い、永遠にわたしと共に生きる者として、命の木のもとで生きてよい、誰でもわたしのもとに来なさいと、全員に呼びかけられるのです。

このキリストのもとに、来なさいと招かれる方、そして来られる方のもとに行き、そして、同時に祈るのです。アーメン、主イエスよ、来て下さい。私たちを、価なしに救いに来て下さい。あなたの救いがなるのですとキリストの御名を呼び祈る。それが私たちの救いの毎日であり、教会の毎回の礼拝であり、16節で言われるように、そこからイエス様によって遣わされ、すべての人にクリスマスの主を証する派遣の毎日でもあります。だから聖書の最後の言葉も、毎回の礼拝も、この祝祷の言葉で終わるのです。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。