13/5/12朝礼拝説教@高知東教会
エフェソの信徒への手紙4章13-15節、詩編140篇
「教会探しの急所」
何かまた妙な説教題やと思われるかもしれません。ま、時期的に学校や仕事で高知に引越しされて、教会を探しておられる方も…という時期的なこともありますが、も一つは清和学園の新入生のことを考えたのもあります。色んな教会があるけれど、それをどう判断したら良いのか。例えば名前で判断してよいのか。教会という名前があったらよいか、というと先週お話しましたが、異端も教会という名前を使うので、高知東という名前さえ使うので(笑)、名前は判断基準にならない。まあ、なりません。先日、日本基督教団と漢字で書きましたら、えー、日本キトクですか?と、何か危うい呼ばれ方をされました。漢字で書くと古めかしく堅苦しいというのもありますが、何より読めんので、うちはカタカナでキリストと看板にも書いています。私たちは一体誰なのか、はっきりわかるというのは大事です。何年も礼拝に出席しているのに、教会って要するに何をするところですかとわからんかったら、その教会が、教会として成熟してないと言わざるを得んのじゃないかとも思います。
教会に来るとキリストがわかる。キリストがどんな救い主かわかる。そして、あ、皆キリストに向かって成長して、とにかくキリストに向かって歩んでいるんだとわかる。その教会は健康優良教会でしょう。教会探しの急所があるとすればそこだと思います。私たちの教会が目指すのもそこ。そこだけです。
念を入れて言えば、これは健全な教会探しの急所でして、コツではありません。コツというのは、まあ、参考にして下さいとう程度ですが、急所は、いのちそのものに関わります。異端になったりする。あるいは異端でなくても、というのが今日のテーマですが、14節で語られている「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりする」。これにキリストの体も陥りやすい。教会の歴史は常にこの人間のズルさ、狡猾さとの闘いであったとも言えるのです。誰かズルイ人がおって、というより、人間の中にそういうズルさがあって、それはキリスト者、教会であっても例外ではないという意味です。私たちの内にある罪の狡猾さにスルッとやられて、キリストを礼拝しているつもりが、何か違うキリスト像を造り上げてしまい、違う何かが自己主張する教会になってしまいやすい。
その狡猾さを新共同訳は「悪賢い」と一言で訳したのですが、もとの言葉は二つあって、訳し直すとこうなります。人間のサイコロインチキと、スッとその気にさせる巧みさによって、誤った手立てに引きずり込まれてしまう。そういう教えの風に、教会も、もてあそばれ、引き回されやすい。サイコロインチキというのは、上手な人は好きな目が出せるそうで、あるいはイカサマサイコロを使うんですけど、何がズルイかというと、お、これなら俺も勝てそうかなと思わせるのがズルイ。人間の得をしたいという欲望を巧みに操作するのが、悪賢いのです。お金の話が出ましたからついでに言いますが、怪しいカルト気味の教会あるいは米国のテレビ伝道者とかって職種がよく陥っておったのですが、献金をしたらあなたの財布が祝福されますとかって、やはり欲望に訴えかけて献金アピールをする。これが例えばここで語られる人間を操る巧みさの一つでしょう。私たちの教会でも献金アピールはいたしますけど、欲望には訴えません。献身のしるしとしてでしか、献金の招きをしたことはないはずです。献身ですから、言わば経済の価値基準で言えば、損するのです。人のために自分を献げるのですから。この地にキリストの福音を宣べ伝えるため、その伝道の働きを支えるために、キリストに倣って献身をする。具体的に。その一つが献金です。祈りもそう。献身の一つの形です。だから、自分のためにあれが欲しい、自分のためにこれが欲しいという祈りは、少なくとも教会の礼拝や祈祷会で聴くことはないと思います。無論、祈りは願いですから、あれを下さい、これが欲しいですと祈りますけど、おもに自分のためだけでしょうか。むしろイエス様が教えて下さった祈りは、最初から、我らの日用の糧をと願うのです。我だけ、自分だけというのはない。それはキリストに向かって成長する教会の祈りでは、少なくともない。こういう具体的なところで教会探しの急所が現れ見えてくるのです。
先週も触れましたが、14節の「変わりやすい教えに」というのは教えがコロコロ変わるのでなく、人間が心変わりをするのです。が、改めて考えてみますと、もとの言葉は「あらゆる教えの風に」とありまして、それを変幻自在に変わりやすいと解釈したのかもしれません。まあでも色々な教えの風と訳したほうがよいでしょう。人の欲望、自我に訴える教えの風は色々なタイプがある。例えば、律法主義と呼ばれるタイプ。つまり、私はこれをしているから大丈夫だ。私はこの教えにこだわっているからと、その教えを与えられたキリストよりも、それにこだわっている私とか、その私がこだわっているこの教えとか、やはり軸がズレている。キリストという中心軸からブレてしまう。この律法主義という風は、割とよく皆さんも説教で聴かれる言葉だと思います。本当にたちの悪い教えなので、しょっちゅう言及するのですけど、別名ファリサイ派の教えとも呼ばれます。人間の心には、このファリサイ派の小人が住んでいるとイメージしてもよいぐらいです。その小人をミニファリサイ派と私は呼んでいますが、まっことたちが悪い。例えば、私たちの教会は教会の代表者たちを役員でなく長老と呼ぶ、長老制度の伝統に従って、教会を牧会していますが、もしそれを私たちが自己絶対化して、長老制の教会以外はダメな教会だと裁くなら、この教会はミニファリサイ派の律法主義の風に引き回されてしまうでしょう。
じゃあ、教会の組織なんて、どうでもよいのか。結局は大きな声では言わんけど、個人主義の寄せ集めで、要するに自分のことは自分でやる自己責任で、律法とか決まりとか別にえいやか…という教えもあって、それを無律法主義と呼びます。聖書で明らかに命じられている、例えば結婚以外での性的関係は姦淫だから、姦淫をしてはならない…とかって言うけど、そんなこと言いよったら教会に若い人来んなるでとかって、ま、何やっても赦されるがやきという考えだと言えば、わかりよいかと思います。特に私が生まれた世代ぐらいから日本の教会でも吹き荒れてきた教えの風の、単なる一側面ですが、礼拝出席の態度でも何にでも、この態度は当てはまる。これまた私たちがドキッとするような、人間の欲望に訴える巧妙でヘコスイ教えの風です。
風は大体この二つのミックスだと言ってもよいのですけど、共通点がどれにもある。それはどれも見事、キリスト中心からブレているという点です。キリストに向かって成長していくための、神の子の信仰と知識という急所を外しておって、だがしかし、非常に面白いことに一つの別の軸を貫いています。それが自分という軸です。どんな教えの風であろうと、まるで風見鶏みたいに、あらゆる風にクルクルもてあそばれようとも、その風見鶏の自分という軸はブレんのです。それがこれらの教えの、人間という存在をよくよく知っている巧妙さでしょう。単なる悪賢さではない。人間を操る巧妙な狡さです。耳に痛い言葉ですが、どれにも共通する幾つかのキーワードをあげても、わかりよいでしょう。自己中心。自己満足。自己正当化。自己実現。とにかく自己、自分。
そしてここが、本日の御言葉の急所です。そんな自分自分の人間が、なのに皆、皆、13節です。神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になる。成熟した人間です。それがキリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長する、キリストの体としての人間だ!それが、私たちがキリストに向けて成長させられる成熟した人間の姿、キリストの姿だと語るのです。そのキリストの知識こそ、十字架で自分をお捨てになられた私たちの代表としてのキリストです。このキリストの満ち満ちた豊かさに向かって、私たちは、しかも皆で成長するように結ばれている。それがキリストの体、教会です。そのキリストの姿が、教会のあらゆる面で、現れているか。教会の組織の形や活動内容という制度においても、またその制度をキリストの制度たらしめるキリストの態度が、その制度から見えるかどうか。例えば長老は権威を振り回すのでなく、むしろ献身的に牧会し、群れの模範となりなさいと、ペトロの手紙一で語られる。その牧会の模範に倣って教会全体が互いに牧会し、キリストの愛を思いつつ、また祈りつつ、キリストの愛を私が今この人に向かって言葉にしたら、こういうことだろうなと、ミニファリサイ派ではなく、むしろミニキリストとしての思いで、イエス様なら、ここでこう微笑むだろうな、ここでは言葉を控えるだろうな、ここでは大胆にしかし謙遜に、愛に根ざして真理を語る、それがキリストの体の一部である、私のなすべき業であると、あらゆる面でとにかくキリストの態度と言葉と行いを求める。それが主の成熟に向かっての道なのです。
そして、そうした教会を探す人も、自らキリストの謙遜によらなければ、まあ、どこの教会員にもなれんのじゃないかと思います。だからと言って、教会がそれで自己正当化をして、もっと謙遜に教会を探しなさいとも言えません。むしろ、ああ、こうやって探すのかと、教会を求めている人が、キリストの体に出会えるように、キリストの謙遜を身にまとうのです。私自身、前に証で言いましたけど、この教会に結ばれたのは、教会を探しておった時、話を鈴木牧師に聴いてもらって、一言も先生は、うちにおいでとか、あそこはねえとか言わないで、謙遜に話を聴いて下さって、じゃあ祈りましょうと祈ってくださった。あの出会いがなかったら、私は今どこをフラフラしよったろうと思うのです。あのとき私は、教会に出会ったのです。これがキリストの体ということかと、キリストの知識を体で知りました。そういう出会いを、全ての人に得て頂きたい。いや、そのためにこそ、教会がここに立てられて、私たちはここに遣わされているのです。キリストを紹介するために。人々が教会によって、神の子キリストに出会って、そうか、救いとは、自己実現でなく、私の内にキリストが実現されることであったのかと、キリストの救いが実現されていく。そのために、教会はここにあるのです。