13/5/5朝礼拝説教@高知東教会
エフェソの信徒への手紙4章13-1節、列王記上12章28-33節
「異端って何が違うが?」
頭であるキリストに向かって成長していく。それが教会です。そしてそこが教会と、異端の違いなのです。今日の説教題は変な題をつけたなと思われた方もおられるでしょうか。私も色々考えてつけたのですが、やはり変かなと金曜日あたりに思いました。が、純朴に、異端って何が違うがって思われている方々も存外いらっしゃるのではないか。なら、それを明確にする責任を教会は持っていると思ったのです。聖書自身、これは決してないがしろにして良い問題ではないと厳しく語るところがいくつもあります。一つ上げますと、ペトロの手紙二の2章にこう語られます。「かつて民の中に偽教師がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるに違いありません。彼らは、滅びをもたらす異端を密かに持ち込み、自分たちを贖って下さった主を拒否しました。」ここに異端という言葉が出てまいりますが、元の意味は、自分で選ぶという意味から転じて、自分勝手に自分の意見で自分の道を選んで分離していき、結果それが異端になる、という言葉だそうです。では、何を勝手に選ぶかと言うと「自分たちを贖って下さった主を拒否しました」。これが異端の本質だと御言葉は告げるのです。
自分を贖ってくださった主を拒否する。贖うという言葉も難しい言葉ですが、身代金を払って買い戻すという言葉です。キリストが、ご自分の命を身代金として差し出してもかまんきと、私たちが神様の子供となれるよう、神様のもとに、ご自分のもとに買い戻して下さった。それを贖うと言う。救うと言ってもよいのです。それ以外の救いを教えるのが異端だと言えばわかりよいでしょうか。
日本での代表的異端は三つの宗教団体がありまして、モルモン教、エホバの証人、統一教会。その教えの内容を詳しく説くいとまはありませんが、三団体ともイエス・キリストの名を出しながら、キリストの教えをとか言いながら、わたしのもとに来なさいと、巧みに聖書の引用さえしながら、最後のところで、キリストの救いでは十分ではないと教えるのです。プラスαがいる。家々を回ったり、教団の命じる義務を果たさんと救われん。要するに、やっぱり行いが必要。彼らのキリストは救いの呼び水のような途中までの救い主だという点で共通します。そうしてキリストを完全な贖い主としては拒否する。それが異端です。
皆さんが、これまで異端の方々と面識があるかどうか存じませんが、私は小学生の頃、英語を教えてもらえとモルモン教の宣教師のところに通ったことがあります。ユタ州ブリガムヤング大の秀才が日本に派遣されるのですが、ロンさんというお兄さんで、すごく良い人でした。え、野口先生、騙されちゅうがやないがと思われるかもしれませんが、本当に良い人で、というのは、次に来た宣教師が優しくなくて、それで行くのやめたのです。教会もそういうところがありますから難しいんですけど、皆さん、考えて頂きたいのは、良い人かどうかで、異端かどうかは決まらんということです。確かに、異端団体の布教方法として、例えば高知の統一教会は、高知教会、高知東教会、高知中央教会という名前でやっておりまして(笑)、え、それは狡いろうって思うのですけど、頑張って布教しなくてはという思いは、嘘も方便と言いますが、きっと純粋なんじゃないかと思うのです。因みに、これ何でわかったかというと、花屋から電話があって、高知東教会さんですか、すみません間違って花を渡しましたと言われるのですけど、誰も買ってない。でも高知東教会の名でいつも週末に買いに来て、他に高知東教会ってあるのですか?と問われて調べたら、わかった。唖然としました。ま、この類の話をしているときりがないのでやめますが、救いを求めてそういう団体に入ったけど、何か違うと気付いて脱会し、教会に来られる方々は少なくありません。牧師になった人も何人か知っています。皆良い人ばかりです。
良くないのは教えなのです。そこで教えられている彼らのキリストが歪んでいるのが異端なのです。モルモン経典とか原理講典という、聖書以外の異なる教えを聖典として、これぞ隠されていた救いの真理だとやるパターンもあれば、聖書でキリストが神様であることを教える箇所を全部違うように訳した新世界訳聖書を用いるパターンもあります。更に似たパターンで、聖書の訳はそのまま、でもその権威を骨抜きにして、聖書って昔の人の神話と同じだから、神はいるけど、キリストが神の子とか、復活とか、それはないよ、でも神はいるよね、道徳は大事よねっていう、いわゆる合理主義キリスト教という教えや団体も、昔から存在します。代表的なのはユニテリアンという宗派が明治に日本にも入ってきて、え、これもキリスト教会?って、混乱を巻き起こしていました。文明開化で、急激な近代化の中で、え、復活を信じなくてよくて、でもキリストの道徳的な教えはそのまま?これだ!と。このパターンもまたよくおわかりになるのではないかと思います。そしてこれもまた、異端なのです。教えがキリストを拒否するからです。
ですので教会って何?と思う人にとっては、宗教団体としての異端というのが、うんとわかりやすい区別の目印になるのですけど、その団体の人々や性格で、異端のラベルを貼るのではない。異端の本質は、その教えにある。団体としての異端より、教えとしての異端。そもそも異端は偽教師の教えだからです。偽教師が指導者になってできた組織を異端とも言いますが、そもそもはキリストを贖い主としては拒否する教え、今朝の御言葉で語られる「神の子に対する信仰と知識において」一つのものとなることを拒否する教えが、異端なのです。
教会は頭であるキリストに向かって成長していきます。それは教会に結ばれている一人一人が、一人一人キリストに結ばれているからです。そのキリストから復活の力が聖霊様によって注がれて、キリストのように造り変えられるからです。それがキリストに向かって成長する唯一の理由です。無論、キリストに倣って生きていき、成長しようという努力はします。でもキリストに向かって成長できるのは、教会がキリストに結ばれて、キリストの体であるからです。
私たちの頭はどなたか。そこが文字通り急所です。頭はどなたか。それ故に13節の「神の子に対する信仰と知識」が急所なのです。急所だから、自分が選んだ信仰と理解を主張した時、いつでも教会は異端化する傾きに傾いたのです。詳しくはまた次週お話しますが、14節2行目で「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、ひきまわされたりすることなく」と新共同訳で訳された、この“変わりやすい”という言葉は原典にはありません。原語は「教えの風」で、教えがコロコロ変わるんじゃない。自分の耳に心地よい教えに、自分の心が波に揺れ変わるのです。悪賢いと訳された言葉の意味も、スッとその気にさせる巧みさという意味です。心の向かう先を、キリスト以外に、スッと向けさせる巧みさを言うのです。
しかしキリストを主と証しする、御言葉が指し示す私たちの行く手は一つしかない。十字架で私たちの過去も現在も未来の罪も全ての責任を引き受けて、裁かれ死んで下さった贖い主、そして私たちの代表として父により復活させられたキリスト、ただキリストを仰ぐのみです。その他の誰に対しても、私たちは結ばれてないのです。それ以外の洗礼を、私たちは受けてはないからです。私たちを完全に買い戻してくださった贖い主、キリストがご自身の御体に、私たちを結んでくださったから、キリストが救いのゴールなのです。
異端のゴールは違う。でもならばこそ、あなたもキリストに招かれていますよと、キリストによる救いの真理を「愛に根ざして」語るのが、十字架のキリストの体です。その人々をも背負われて死なれたキリストの体、教会は、裁くのが仕事ではない。その裁きを自ら引き受けられたキリストを告げ知らせ、紹介するのが教会であり、頭から託された責任です。裁きは十字架の主のものです。私たちのものは愛に根ざして真理を語り、伝道すること。愛に根ざしてキリストを皆に紹介すること。その態度が、キリストに向かっての、成長の目印でもあるでしょう。とにかくキリストに向かって成長していく。キリストの信仰と知識において皆で一つに成長する。そうしてキリストの満ち溢れる豊かさになるまで皆で成長するのです。