13/5/26朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章15節、イザヤ書52章7-12節 「キリストするって何?」

13/5/26朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章15節、イザヤ書52章7-12節

「キリストするって何?」

 

先週はペンテコステ合同礼拝で一週とびましたが、改めてエフェソ書に帰り、教会形成の奥義を身につけてまいります。

教会形成、形成と無造作に言いましたが、形が成ると書いて形成ですね。人格形成とか言います。人格は粘土をこねるようにしては、とても形成できない。教会もまた然り。しかもキリストの形が形成されていくのが教会形成ですから、そりゃもう一朝一夕では成りません。ローマも一日にして成らずと言います。でも成った。ならどうやって成ったか。毎日コツコツ形作られて成ったに違いないのです。

なら教会は、何をコツコツやったら良いのか。これだ!と教えられていますのが今週の御言葉です。愛に根ざして真理を語る。これに限る。皆さんもどうぞ覚えて下さい。キリストの体の一部なる教会員として、私たちが毎日コツコツやるのは、これです。愛に根ざして真理を語る。もっと直訳で言いますと、愛の中で真理する。愛の中でというのを更にイメージすれば、私たちの上からキリストの愛をまとって、その愛の中で真理するとも言えるでしょう。この二つがセットです。どっちかだと愛が自己中の愛でおかしくなったり、真理が自己中で鼻に付く正しさになったりしがちです。変な熱心さや冷たい正しさ。どっちも教会が陥りがちな14節で警告されている嘘の形です。だからキリストの愛をまとって、キリストの愛の中で、とにかくキリストキリストって、キリストの真理に生きようと歩む。それを「キリストする」と説教題にしました。以前にも同じキャッチフレーズで説教しましたが、改めてご自分の言葉にしていただきたいフレーズです。キリストする。何をするのか。愛に根ざして真理するのです。

真理すると、これまた妙な言い回しをしてますが、これが直訳です。聖書の教える真理というのは、それを生きて歩んで実行してこその真理なのです。例えば道が歩んでこその道であり、命は生きてこその命だと言えるなら、真理は、真理してこその真理である。イエス様の御言葉を思い出されるでしょうか。わたしは道であり、真理であり、命である。そのイエス様についていく時、どうやって歩めば良いか、どう真理して生きればよいかがわかるのです。聖書の正しい知識を知っているだけは律法学者の罪と同じで、そんなのは鼻に付く正しさです。傲慢になる。傲慢にならないためには、イエス様の愛をまとって真理する。具体的なイメージで言えば、あ、この時に私は何をすべきか、どう振る舞えばよいかという瞬間瞬間で、イエス様のお姿を思い浮かべて真理する。真理なるイエス様、あなたに従いますと、イエス様のなさるようにすればよい。そのためには無論イエス様の勝手なイメージにならんよう、御言葉が告白するイエス様を知る必要があります。キリスト者が聖書を読み、礼拝で説教を聴くのはそのためです。でないと、キリストの招きがわからんなって、唆す教えに引き回されてしまいます。キリストの愛を身にまとって真理するとは、その意味では、キリストの愛の御言葉に、はいと応えて御言葉に生きる。御言葉するとも言えます。自分勝手な考えで生きがちな私たちであればこそ、その私たちを包み込み、考えも態度も変えて下さるキリストの愛をまとって、その御言葉に生きる。私たちは御言葉することによって、安心してキリストできるのです。

そうやって御言葉して歩む道というのは、例えば食前にお祈りとかもするのですけど、自然体で、へえ、キリストさんって、そうやってご飯食べるがや、うん、そうながよって、自然体で会話できるような歩みです。洗礼受けたばかりだと、まだ板についてないところがあるかもしれませんが、だんだん板についてくる。それが身につくってことですし、キリストの弟子らしくなるとも言えるでしょう。だんだん師匠に似てくる。イエス様すーごい自然でしたから。そうなってくる。歩き方も姿勢も態度も、キリストする生き方をしていると、キリストに似てくる。

では、どのへんが似てくるか。どんな歩き方、つまり生き方の態度が似てくるか。そこが急所です。愛に根ざして真理して、キリストの愛をまとってキリストしていると、どうしたってここが似てくる以外はないってところがある。キリストの全てを貫く姿勢、態度、キリストの中心軸があって、それが私たちの生き方の軸になってくる。皆さんは、それはどこだと思われるでしょう。それなら愛だ、キリストらしいと言えば愛だというのは真理です。そして今週の御言葉の急所でもあります。

ならそれはどんな愛か。十字架で、私たちの罪を背負われた愛です。これも短いキャッチフレーズにすると、とりなしの愛。神様の前に立ち誰かをとりなす愛。それがキリストの愛です。キリストするとは、人々の救いのため、執り成しに生きるという愛の真理です。cf.ステファノ

これは先の14節で、悪賢い欲望に引き回されてしまう未熟さが、結局は自己中心で、自分を軸にして考え生きることであったのと比べると、非常に対照的でよくおわかりになると思います。15節冒頭の「むしろ」というのは、そうした比較をガツンとしている言葉です。キリストする生き方は、欲望がグルグル回る自分という軸に、言わばキリストの軸を移すのです。キリストを主としてお招きし、自分にキリストの軸を頂いて、軸をキリストに担って頂く。そうやって、執り成しを自分の生活軸にする生き方です。家族を執り成し、愛する者たちを執り成し、隣人を執り成し、皆をキリストの名によって執り成して生きる。それが私たちの生き方全編を貫く態度になります。「あらゆる面で」とあるように、私たちの生活の全てが、執り成しという一本の軸に貫かれるようになっていく態度。それがキリストするという真理です。キリストの愛をまとって真理する生き方は、人々を執り成す生き方に成長していく。

今朝は、その成長の糧として、いつもより御言葉を一緒に開きたいと願います。できれば栞をはさんで反芻して頂き、キリストする生き方の糧、励ましとして頂きたいと、キリストに代わってお願いします。

まずはガラテヤの信徒への手紙2章19節以下、新約聖書345頁上段。「私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」私たちの軸がどこにあるか、はっきり言い表している御言葉です。軸はキリストにあり。キリストが私の内に生きておられる。キリスト我が内に在りて生くるなり。

次にコリントの信徒への手紙二5章13節以下、330頁下段。元旦礼拝で与えられた御言葉でもあります。「私たちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛が私たちを駆り立てているからです。私たちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」それで、と具体的な生き方が示されます。「それで、私たちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです。ですから、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」和解のために執り成して生きる。これがキリストを知る新しい生き方です。

最後にローマの信徒への手紙14章7節以下、294頁上段。これは先の復活節の礼拝招詞でもありました。「私たちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」それなのにと具体的になります。「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。私たちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。「主は言われる。『私は生きている。すべてのひざは私の前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」それで、私たちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」

ここでも「むしろ」と勧められます。キリストが主となって下さった兄弟姉妹を、けんどあの人は主のために生きてないと裁くより、むしろだからこそ主がその人の主となられ、すぐ裁く私たちの主とさえなってくださったのだから、その主の願い通りに生きようじゃないか。教会は人々の執り成しに生きようじゃないかと、招かれるのです。

さあ教会員の皆さんには、今朝新しい試みとして祈りのリストをお渡ししました。そのリストの空欄に祈り執り成す方々のお名前を書いて、日々の祈りの手助けにして頂ければと願ってのことです。祈るとき、今開きました御言葉を読むのもよいでしょう。そうやって毎日キリストの愛をまとって、コツコツ祈り執り成して生きる日々の先に、教会の形が成るのです。十字架のキリストの形が成っていきます。その執り成しに生きるところで、キリストの救いは成るのです。