13/2/10礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章1-5節、ハバクク書2章1-4節 「信仰という名の間柄」

13/2/10礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章1-5節、ハバクク書2章1-4節

「信仰という名の間柄」

 

教会の一致をテーマにしばらく説教をしています。その中でもともと私は日本基督教団の教会員ではなく、米国の教会で救われたということを例話として何度か持ち出してきましたが、私は教団に教会籍を移すことに対して、相当心配がありました。一致できんのじゃないかと思っておりました。教団には復活を信じてない牧師がいるとか聴いていましたので、そりゃ異端じゃないかと。ところが前任の鈴木先生から日本基督教団信仰告白を見せて頂いたところ、あれ?教団として復活を信仰告白しているばかりか、なんと見事な信仰告白をされていることかと、心をわしづかみされた思いでした。ならこの教会の一員になれる。後は謙遜と柔和、寛容と忍耐の問題だと、霊の励ましを受けました。主は一人、信仰は一つだと。復活を信じない異端信仰を持っている個人が教団に何人おろうと、それで教団の教会全体を十把一絡げに理解しておった私の理解が間違っておったと反省しました。言うなれば高知の男は皆イラレじゃと思うようなもんです。皆じゃない。9割だけです(笑)。

こうした個人の信仰よりも大きな信仰、教会の信仰、救いの信仰を、公同の信仰と言います。そもそも神様が求められ認められる信仰です。福音信仰って言ってもよい。人が救われるために、神様が、ここだ!と集中されたところを信じる救いの信仰。ですから、キリスト信仰です。イエス・キリストを主と信じるか否か。十字架のキリストの赦し、復活による罪と裁きからの完全な解き放ち、解放、救いを信じるか否か。主がこだわっておられるところにこだわるのが、教会の一致を保つ熱心さだと言ってきましたが、このキリストへの熱心さを欠いて、他のところにこだわるところで、教会はおかしくなるのです。

この言わばシンプルで公同、つまり皆がアーメンと言える信仰、御子による完全な犠牲と復活の救いへのアーメン。このアーメンがどうしてアーメンか、つまり、そうです、その通りですって言えるかと言うと、それが聖書に啓示される神様のアーメンだからです。その信仰は一つ!

その公同の信仰を、こう理解することもできるでしょう。キリストの招きに、はいと応えるとき、聖霊様がその人とキリストを結ぶくびき、へその緒、パイプとして来られて、事実、霊的にキリストと結ばれる。そのパイプを通してキリストと愛の対話、信頼の対話を交わすのです。わたしについてきなさいとイエス様が言われる。はいと応える。それが信仰です。どっちからもつながっています。これが救いの信仰だと以前にも申しましたが、この聖霊様による結びと、そこを通いあう信仰の対話のイメージは、全てのキリスト者に共通します。それ以外の救われ方をする人はないので、聖霊様の一致とも呼ばれますし、それを信仰という側面から見るとき、信仰は一つと言うのです。またそれが皆イエス様と結ばれているから一つだという面で言えば、体は一つ、です。

その聖霊様によってつながれた信仰のパイプを公同の信仰のイメージとするなら、そのパイプの周りに、自分なりの信仰や、勘違いや間違いがドロドロと、あるいはこびりついたさびのように、まとわりついて、それが言わばこだわりになって、公同の信仰を詰まらせたり、私のこだわりとあなたのこだわりと同じやねえ、同志よ!てな具合で、違う一致を造ったりする。そうした個人的というよりは自己中心的信仰によって教会が混乱することの何と多いことかと思います。信仰には無論個人的側面があります。一人一人の個人が主と結ばれるのですから、それを否定したらイエス様にも父にも怒られます。主の名によって個人が捧げる密室での対話、祈りを、父は望んでおられますから、その個人的関係を無視しても信仰はおかしくなります。が、それは個人主義では、ない。個人を無視する全体主義でもない。キリスト主義!教会はキリスト中心とはそういうことです。そして信仰もキリスト中心でしかないのです。主は一人、信仰は一つ、と続けて語られる所以です。

信仰は聖霊様によって、もっとザックリ言うと恵みによってキリストと私の間にあるパイプです。無論、自分とつながっていますが、だからといって、まるでそれが自分の功績、俺信じちゅうき、俺偉い~とは、決してならないのが信仰です。それを説教題では間柄と言いました。間にあるのです。それを自分の中に手中に収めているかのように勘違いしてはいけません。相手あってのものであり、愛の関係を結ぶ、続き合いですから、それを自分の手柄のように私物化するとき、傲慢になって、相手との関係もおかしくなる。こういう間柄を続き柄とも言いますが、以前こういうサラリーマン川柳がありました。続き柄、慌てて妻を毒と書き。慌て過ぎです。妻から夫じゃなく犬(笑)って書き間違われないよう努力が必要かもしれませんが、どんなに書き間違えようと、法的に宣言された関係、間柄は決して揺らぐことはありません。イエス様と私たちの関係も同じです。主はご自分に身を寄せ、救いを求め、その御名によって洗礼を受けた者を見捨てることは決してありません。何故なら救いの主は何があっても救いの主として留まられるからです。裏切ることはないからです。仮に、あってはならないことであるにもかかわらずたちの側での裏切りがあっても、むしろイエス様はこう言われます。あなたはわたしのものだ!わたしはあなたの夫であり、主であり、あなたの義であり救いである!あなたにはわたしをおいて他に主があってはならない。あなたはわたしのものだと、ご自分が私たちの主であられることを宣言して下さる。主は一人です。この主を信じて救われる関係、聖霊様によって主に結ばれて主のもの、キリスト者とされる関係を結ぶ信仰は一つです。それがキリスト者をキリスト者たらしめ、キリストの体の肢たらしめる間柄たる信仰です。この間柄。聖霊様により全くの恵みによって結ばれた間柄。聖書によって啓示される主イエス・キリストとの真実の間柄を、実体化すべく求められている私たちの側での、はいという応答が信仰です。イエス様への愛の返答です。その第一の返答がイエス様を私の救い主として信じますという、救いの招き、プロポーズへの返答です。誰もがそうやって応えます。

だからこの間柄に結ばれたばかりのときは、まだよくわかってないとも言えます。夫婦関係と同じです。驚きをもって後でわかっていくのです。例えば三位一体がわかってから洗礼受けられた方は、ここにどれくらいおられるでしょうか。大胆な告白をしますけど、私が洗礼受けた後しばらくして、こういうことかなと自分なりにイメージした三位一体の理解は、代表的な異端的理解でした。言わば私が子供たちに対しては父であり、妻には夫であり、皆さんには牧師であり、でも一人の野口幸生であるという、神学用語で様態論と呼ばれる異端理解を二年ぐらいしておりました。ところが導かれて聖書の教え、教理の本を読んで初めて、うわ、俺異端になりよった、危なと、それから真面目に公同の信仰内容を学び始めたことを覚えています。

聖書に啓示されたキリスト信仰、つまりは受肉と受難、復活と昇天、再臨と審判、そのように三位一体の御子が救いの主となられたという、公同の信仰が、まだ理解としては十分でなくても、その公同の信仰に、留まることが大切なのです。むしろ留まっていることで、そこに信仰があるかどうか、公同の信仰が与えられているかどうかもわかるのです。説教の準備で導かれた言葉があります。「わたしの言葉に留まるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」ヨハネによる福音書8章31-32節です。十分理解して知って弟子になるというより、留まることで、あ、そうかと知っていく。教会の交わりの中で、聖霊様によって結ばれたキリストの体、聖い公同の教会に、既に与えられている聖徒の交わりを信じて、そこに留まっていくところで、あ、そういうことかとわかって、しかも自由にされるのです!留まって知って自由です!無理解、誤解、自分の枠、自分のこだわり、自分からの自由って言ってもよいのです。無論、罪からの自由であり、罪の結果としての裁きからの自由でもあり、最終的には、やがて来る最後の審判において本来受けるべき有罪判決からの自由でもある。そうした自由を一つ一つ体験するとも言えるでしょう。そうか、私が頑張って信じて理解して私が私がって、信仰って、そんな個人主義的なことでなくて、聖霊様がくださった公同の教会の信仰に、アーメンって留まることなのかと。それが、ああ、本当にそうだなあ、アーメンって思えるところで、また一つ、あ、自由だって体験される。公同の信仰が自分の言葉でわかって、例えば復活は、うわ、私のためにイエス様は復活させられたんだって自分事になるところで、アーメン!ありがとうございますって、自由なイエス様への愛が溢れる。

ごく最近まで洗礼準備会をしますとき、かなり丁寧に、この公同の信仰の内容について学んで洗礼の準備としました。が、子供の頃から聖書に馴染んでいる方は別にして、初めて聖書を開きましたという方には、やっぱり難しいなあと反省しまして、丁寧な学びは受洗後勉強会でやることにして、洗礼のための準備会は、とにかく私たちのために人となられて十字架で死なれ復活させられたキリストを信じることに、集中することにしました。キリストに結ばれるとは、どういうことか。どうしてキリストなのか。ここだけに集中することにしました。そこに賭けることにしました。私にはこのキリストが必要です、アーメン!そこだけに絞って、後はそのキリストに留まれるように、御言葉によって、教会の家族愛を皆で実践し、導き続ける。そうやって皆で、主の御言葉と愛に留まる。そして皆でどんどん自由になっていくんです。私たち、本当にキリストによって救われて、キリストによって一つなんですね、ああ、本当ですね、アーメンです!主は一人です!ってイエス様の弟子として皆でお従いする。信仰を自己責任にしない。救いを自己責任にしない。体は一つ、聖霊様は一人です。それは、私たちが一つの希望にあずかるようにと召されているのと同じです。主は一人、信仰は一つです。あなたがたは一つだと主は言われる。そこに留まりましょう。そして皆で、恵みの御言葉に留まって、キリストの招きに相応しく歩むのです。