13/2/3礼拝説教@高知東教会
エフェソの信徒への手紙4章1-5節、詩編16篇
「キリスト?そこだ!」
米国に留学中、宗教学の一クラスにキリスト教入門というクラスがありました。これなら単位が取れそうだと思って取ったのですが、最初の授業で腰を抜かしました。教授が、クリスチャンとは自分をクリスチャンだと思う人のことであって、何を信じているか、また信じてないかは別にかまんと言って授業が始まったからです。キリスト教主義大学ではなかったからですけれども、それでも乱暴すぎるでしょう。その論理で言うとこうなります。日本人とは自分を日本人だと思う人のことで国籍は別にかまんと。これだと入国管理局は大変です。要するに国家の存在を無視して成り立つ論理です。同じことがキリスト者、そして教会にも言えます。生きておられるキリストの同意アーメンが必要です。それがイエス・キリストを主と告白する信仰です。
私たちがある教会に対して、これは教会かどうかを判断する基準は、その生きておられるキリストを、その教会が、アーメン、主は一人!と告白しているかどうかです。神様を信じているか否かではありません。それは言わずもがなの大前提で、その神様がキリストを、ただお一人の救いの主としてお遣わし下さったことを信じる教会が、キリスト教会です。その教会の看板に何教会と書いてあっても、それはキリストの体の一部としてキリストに結ばれている教会です。
有名な言葉があります。キリスト教はキリストです。良い言葉です。今日の説教題よりずっとわかりやすい(笑)。その教会の礼拝また交わりの中で、キリストが主とされ、唯一の救いの根拠とされ、生活の土台とされているか。言い換えれば、キリスト中心に教会が回っているか。そこが大事だというのです。他の何かが中心にされて、あたかもその教会の主となって、これが教会を教会たらしめるのだとなるときに、教会の一致、聖霊様の一致を熱心に保てんなって、おかしくなる。
これを個人のレベルに場面を変えると、こうなります。キリスト者はキリストです。何か主が一人ではなくなってしまうようにも聞こえますけど、言いたいのは、私たちをキリスト者たらしめるのは、キリストだということです。他に私たちの中心はない。他に私たちの主はおらん。それがわかってくると、教会生活はうんと楽しくなります。他の何者の追従者にもならんで、キリストの追従者のみになる人生とも言えます。
そもそもクリスチャンという言葉、これは聖書に登場するキリスト者の呼び名ですけど、その意味はキリストの追従者という意味です。僕と言ってもよいし、信奉者とも言えますが、追従者というイメージがわかりよいかと思います。主から、わたしについて来なさいと招かれ召され召命を受けて、はい、と追従する。キリストの追従者、クリスチャン。もし野口の追従者なら、野ぐっちゃん。なってはなりません(笑)。(笑)と書きましたけど、それが笑えない現実も教会には度々おこるのです。古くはコリントの教会で既に、私はパウロに、私はペトロに、いや私はキリストにという追従者グループができて分裂しかけた。キリストに、なんて立派に聞こえますけど、それもまた教会に牧者としての指導者を召し立てられたキリストを見てはいません。そのキリストのイメージがどこから来たか問われんといけません。主は教会に牧者を立てられる。11節で語られる通りです「そして…」。これを無視して私はキリストにと言うのは主を無視することですから、ここでも召命が全てに先んじるのです。主の召命に従い、召命に相応しく追従する。
無論、主が召した牧者だから従うのであって、それがどんなに優れた牧者でも、その人に追従はせんのです。追っかけにならない。その人の言葉なら何でも鵜呑みで思考停止して、だって何々先生がおっしゃっているからと絶対化しない。それは偶像化だからです。絶対は主だけと、頭では分かっているつもりでも、案外やっているのが人間ですから、頭より心が熱狂的になってないかでチェックします。誰かの熱狂的ファンにならないで、むしろその熱心さによって熱心に御霊の一致を保つのです。ならば冷めた信仰態度でもない。冷めて批判的になっても、御霊の一致が保てんなります。熱情は要ります。聖霊様によって互いに、主に結ばれている一致を熱心に保つのです。聖霊様は主イエス以外の誰かに私たちを結んではいません。私たちは信徒であろうと牧者であろうと、召されて唯お一人の主に結ばれているから、主によってのみ一つです。そのお一人の主であるイエス様に、共に追従するのです。
また、この問題は個人崇拝ということだけに留まりませんで、そこで追従すべきキリストのイメージそのものが、書き変えられるということも起こるのです。自分に似たキリストや、何々先生に似たキリスト等、自分の持っている枠にはめてキリストを理解するということがどうしても起こります。その理解パターンと、鋳型にはめて偶像を造る作業が、どうしても接近してしまう。自分の育った環境も影響するでしょうか。例えば現代の米国で造られたイエス様の映画では「何で、自分の目の中の丸太(笑)に気付かん?」とコミカルに説教を語る、明るいキリストが描かれます。一方で保守的と言いますか、何故自分の目の丸太に…と、眉間にしわで、笑うと祝福が逃げるみたいに言う説教者もいる。心の中で描くキリスト描写が、それぞれ違う。ただその信仰におけるキリスト描写が、言わば色付けの部分なら良いのです。ぬり絵でめいめい色付けをするとき、めいめい選ぶ色がある。私は小学校のとき暗い色でした。今は淡いパステルカラーが好きですが、そういう性格の部分ではなく、まだ塗られてない下絵と言うのか、輪郭が大事なのです。聖書によって啓示せられるキリストの輪郭がそこに見えるなら、主は一人、アーメンと言って、共に主を賛美し、共に追従できるのです。
その輪郭を変えるのが異端です。聖書が啓示する福音を曲げ、自分が好む救いの枠に入れるため変形をして別の主を造る。ぬり絵の色が違うだけなら主も、わたしそんな顔色かえ?って言われる程度ですが、異端の描く主の絵に対しては、主は、その人物をわたしは知らない、そしてあなたも知らないと言われます。端的に言って、異端に共通するのは、彼らの主は、罪を全部背負いきって死なれた上で、父から救いの勝利の復活を与えられて、ないという点です。もっと言うと、別に主がどうのとか、かまんじゃないかと。神がいる。それは信じるけど、後は自分で頑張って信じたり、頑張って宗教やったり、あるいは全く反対に神様の側での条件さえなしに、神は救ってくれるだろう、罪なんか考えたことないし説教したこともないという、牧師と呼ばれる人がおるのです。
しかし、主は一人です。わたしについて来なさいと、復活の救いに招いて下さった主は、十字架で罪を赦して下さったイエス・キリストただお一人です。その主は生きておられます。だから、他の誰かを主とする人に対して、柔和で謙遜なキリストの追従者は、偉そうになる必要はありません。主に死んでいただかなかったら、どうやったって罪赦されず救われない人間が何と言おうと、それで主が置き変えられてしまうことはないからです。主はその人のためにも死んで下さり、事実そのために私たちがその人の前に遣わされている。そこまで主は救い主として生きておられて、そこまで主は唯お一人、絶対なる救い主であるからです。安心できるお一人なのです。この方のみが教会の頭、世界の救い主として永遠に選ばれた、三位一体の御子であり、人となられた神様だからです。人間がどうのこうのはできんのです。私たちがそう信じているからそうなのではなく、そうやって御輿に担がれなかったら神の右の座から引きずり落とされる神ではなくて、むしろ、この方は神様であられて、しかもその神様であられる方が、まるで自らを引きずり落とすようにして天から下られ、私たちの誰よりも貧しく低く貶められて、罪人の僕となられて十字架で死なれた、そのような罪人を背負って救い出される主であられるから、その方に従い追従して、謙遜と柔和を持ってキリストを、皆に伝えればよいのです。その追従者である私たちは、このお一人の主を証しする。
ぬり絵の色が違うちょっても、そこを共有してくれんということがあっても、それで主が主でなくなったりはしませんから、生きて私たちを遣わし用いて、今ここで聖霊様によって働いておられる唯お一人の主のお背中に、教会は安心して、ついていけばよい。そこに教会の揺るがない伝道もあるのです。協力伝道の土台もそこにある。多少色合いが違っても、コテコテの原色でぬられたキリストだろうと、え~らい薄い色のキリストであっても、主は一人!そのイメージの違いの彼方から、生きておられる主が言って下さる。あなたがたは一つだ!わたしの体の一部だ。わたしの体よ、あの人のもとに行って、わたしを紹介しなさいと。生きておられるキリストに生きる。それが教会であるのです。