13/2/17礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章1-5節、エゼキエル書36章25-28節 「受けましょう、洗礼」

13/2/17礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章1-5節、エゼキエル書36章25-28節

「受けましょう、洗礼」

 

洗礼は一つ、…ん?バプテスマは一つ?読み仮名が括弧つきで振っちゅうがは、これはどっちで読んだらえいが?って、何かもうその辺で、一致してないやかって思いそうなところですが、ここは、今まで繰返し述べてきました、どっちじゃちかまんこだわりの部類に入る一例です。教会では洗礼準備会とか受洗記念とか言いますので、教会に始めて来られた方にも、そっちで統一したほうがわかりよいかなという理由で洗礼と私は読みますが、ま、どっちでもかまいません。もし誰か間違えて、先生、私トースターにブダペスト受けたいんですけど(笑)って希望されても、ちゃんと受け止めますから安心してください。大切なのはその中身の一致です。愛さえあれば、外側、呼び名は別にかまいません。

じゃあ洗礼の中身、洗礼によって現わされている教会の一致、御霊の一致って何か。聖霊様によってキリストに結ばれて、キリストのものとなることです。直接目には見えないけれど、聖霊様によってキリストと一つに結ばれて、キリストのもの、キリスト者とされる。それが洗礼の中身であって、それが4節以下、一つ一つと重ねられてきた共通の一致です。聖霊様によってキリストに結ばれてキリストのものとなる。それ以外の道でキリスト者になる者はおりません。洗礼の中身、洗礼が指し示しているのは、このキリストとの一体です。

そして、この中身を理解するためには、バプテスマという言葉、また行為を何故神様が用いられたかを理解するとわかり良いかと思います。バプテスマというギリシャ語は、何かを液体にドプッと浸ける行為を意味します。大きな水がめから水を汲むとき、コップをドプッと浸ける。例えば福音書でのバプテスマはヨルダン川とかにドプッと全身を浸けられたようです。そこにこだわって、全身を水に浸けないかんという主張もあります。わかりやすい理由だと思いますが、それだけが唯一洗礼の手段なんだと、中身より外側にこだわると、御霊の一致を熱心に保つことができんなるというのも、またわかりよいのではないかと思います。

なら洗礼の中身、聖霊様によってキリストに結ばれてキリストのものとなるという神様の行為が、どう洗礼と結びつくかというと、当時、布を色水、染料に、ドップリ浸けて染めるとき、この言葉が用いられた。洗礼の中身の、一番中心にあるのはこれです。キリストにドップリ浸けられ、キリストの色に染められて、キリストのものとなるのです。

じゃあ、キリストの色ってどんな色でしょう。それが、信仰は一つと公同の信仰が告白する、十字架の死と復活のキリストの色です。主が、私たちの代表として人となられて、全ての罪の裁きを引き受け死なれ、そしてまた代表として聖霊様によって復活させられた。その死の色と、復活の色に染められる。二色ってツートーンカラー?ってわかりにくいなら、こうイメージしたらよいでしょうか。復活させられたイエス様には十字架の跡が残されていました。その釘の穴に指を入れてもかまんから、信じない者でなく、信じる者になりなさいと主は弟子のトマスを優しく招かれた。罪の裁きという厳しい十字架の傷跡が、しかし復活の主の優しい招きとなる。このキリストの色、キリストの愛すべきご人格と姿勢、命の色と言ったほうがわかり良いでしょうか。そのキリスト色に染まるのが洗礼です。洗礼式は一回限りしか行いませんし、その水が実際に体に染み込むわけでもありません。しかしその洗礼の中身である、聖霊様によってキリストご自身に結ばれるという聖霊様による洗礼は、私たちを一生涯、いや永遠にキリストと結びっぱなしです。結婚式にも似ています。教会がキリストの花嫁と呼ばれる所以です。式はすぐ終わりますが関係は結ばれっぱなしです。人間の関係には破れがあっても、十字架で自らの命を破いて下さったキリストと結ばれる関係は、三位一体の神様によって永遠に破れることはありません。それが一つの洗礼の中身、キリストと一つに結ばれる一致です。だからこのキリストと一つに結ばれた教会が、招きに相応しく歩みなさいと言われるとき、そりゃもうキリスト色に染まって歩む他はない。最初はギコチナイ歩みでも、だんだん染まっていくのです。染まらずにはおれん洗礼の歩みです。

それを別の御言葉ではこう語ります。長い御言葉ですので、できればご一緒にお開き頂きたいと願います。ローマの信徒への手紙6章の3節から11節です。新約聖書280頁です。「それとも…考えなさい」。この色です。私はキリストに結ばれて、罪の支配に対しては、キリストと共に死んだんだ。そして神様に対して生きている。復活の命を生かされている。キリストに結ばれ、キリストと一つにされる洗礼を、聖霊様によって受けた結果として、もはやキリスト色に生きる他はなし。これです。洗礼は一つ。こんなすごい救いを与えて下さった主はお一人だと公同の一つの教会の信仰は告白します。これが洗礼の中身です。

ですので、今更なんですが、洗礼という日本語訳。この訳はイメージを固定化しやすいかもしれません。罪から洗い清められるというイメージだけをイメージするなら、イメージだけで言えば、キリストなしでもイメージできる。そうなると危険です。洗礼の中身、キリストと一つに結ばれるという中心の中の中心を抜き取り換骨奪胎して、まあえいき、洗礼を受けましょう、神は愛ですから罪は洗い清められます、だけだと異端になりやすいというのは、おわかりいただけるかと思います。だからって洗礼という訳をやめましょうとは言いません。どこにこだわるかです。洗礼の中身、キリストにこだわればよいのです。

洗礼式で行われる洗礼そのものは、だからキリストと結ばれるという中身を表す外側、あるいは徴だとよく言われます。例えば信号の青は、進めという徴で、青い光そのものが車を進ませるわけではありません。いや青い光が!と幾ら信じても、後ろから、早う行けって言われるだけです。洗礼も、それ自体は人を救いません。キリストが救って下さる!だから、キリストに飛び込んでいきなさい、そして飛び込んだら、もう主のものだから、主の色に染められて歩みなさい、主に背負われて、主に導かれ、わたしについてきなさいと招かれる主と一つとなって歩みなさい、あなたはキリストの体の大切な一部だと指し示す徴が洗礼です。キリストに結ばれたんだというサイン、徴が、洗礼です。

また洗礼自体が自動的に魔術的に人をキリストに結びつけたりもしません。結ぶのは聖霊様です。御人格があります。洗礼授けましたからって、操作することはできません。もし操作できるなら、私毎日温泉やプールに行っては、小さな声で、父と子と聖霊の名によって洗礼を…ってやりますよ(笑)。洗礼が自動的に聖霊様を呼びつけることはない。

むしろキリストが、全ての人に向かって呼ばわれます。わたしのもとに来なさいと。そして教会に向かっては、全ての民を、わたしの弟子にしなさい。父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、命じておいた全てのことを守るよう教えなさいと伝道命令が与えられています。そしてこうも言われる。幼子をわたしのもとに連れて来なさい。妨げてはならん。

だから教会も、全ての人に呼び掛けるのです。キリストが約束して下さった救いの洗礼を受けましょうと。キリストが呼ばわれるからです。主が一人一人を招かれるからです。その招きに相応しく歩みましょう。洗礼、受けましょう。それは自発的、自分発の思いではなく、キリストが呼んで下さっている、キリスト発の思いなのです。その呼びかけに、はいって応えられるよう聖霊様が来て下さって、キリスト発で、聖霊様という結びを通って、はいって応えられる信仰が与えられて、キリストと一つに結ばれる救いがなる。その徴が洗礼です。

だから、受けます。洗礼を自分でゲットする(笑)とは言いません。受ける。そこで受けた、公同の信仰も、自分発、自発的ではないので、御霊の一致の言わば証拠としてここでリストに挙げられるぐらいです。このリスト、全部が受けます。信仰だけ自分発ってことはありません。だから、これだけ信じたら救われるとか、信仰の実感、手ごたえがあるとか、逆にないからダメだとか、自分で線引きはできません。御言葉をアーメンと受けられるかどうか。そこが公同の信仰の急所であり、そこが洗礼のゴーサインでもあるのです。キリストに、はい、と言うなら、受けましょう、洗礼。これは主イエス・キリストの招きです。

またこの呼びかけは子供たちにも与えられています。子供の皆さん、洗礼受けましょう。もう洗礼を受けた子供たち、イエス様は私の救い主ですって告白しましょう。楽しみに祈っています。

この呼びかけに応えることのできない幼児に対しては、幼児洗礼とか小児洗礼と呼ばれる洗礼もあります。それは洗礼として認めんという主張もありますから、いや、これが真理だ!とか外側にこだわると、御霊の一致を保てんなります。ので、洗礼の対象をどこまでに線引きするかより、洗礼の中身で、キリストと結ばれることでアーメンと霊の一致を保つことが重要です。この幼児洗礼に関しては、丁寧に考える必要があるので、また説き明かしをいたしますが、幼児であろうと成人であろうと、どこから中間の線引きをしようと、線引きが救いの条件ではないことは確認しましょう。徴も救いの条件ではありません。イエス様の隣で十字架につけられたあの罪人が、もはや洗礼を受けることなど不可能であった罪人が、主に迎えられ、主に結ばれて救われたことを疑う人は、一人もおらんと思います。救いの条件はキリストに結ばれることです。誰が救われるかより、誰が救ってくださるか。救いはどなたの手にあるかです。主は一人、その主を信じる公同の信仰は一つ。その主に聖霊様によって結ばれる洗礼は一つです。主が救って下さいます。だから、主の招きに、あなたもわたしのもとに来なさいと招かれる、主の召命に、相応しく歩んでいくのです。