12/10/7朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙3章7-9節、イザヤ書41章8-14節 「私を選ばれるなんて」

12/10/7朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙3章7-9節、イザヤ書41章8-14節

「私を選ばれるなんて」

 

私はつまらない者だというパウロの自覚、皆さんは、どのようにお聴きになられたでしょうか。共感する。あるいはポカ~ンとされるでしょうか。最もつまらない者だと言うのです。パウロさん、この本読みや、自分を愛する何とか、って自己啓発本でも紹介されてしまいそうです。けど、パウロのつまらなさ、直訳で、小ささは、すべての聖なる者たちの中で最も小さい、と限定されています。イエス様の言い方で言えば、神の国で最も小さい者という言い方です。12弟子達が、俺が偉い、い~や私が偉いとやりあっていたとき、主から、神の国では自分を低くする人が誰より偉いと言われた。さあ、弟子達がそのときシュンとしたか、それともポカンとしてしまったかはわからんのですけど、後でわかったと思うのです。自分は何とつまらない考え方をしておったことか。何と自分は小さい、つまらない人間であるかと、神様の前でわかるのです。自分の力を自負することの、何とつまらないことであるかを。

パウロはイエス様に出会って救われる前、自分は天国にいけて当然だと思っていました。自分ほど熱心にユダヤ教の戒律に従って神様に仕えている者はおらんだろうという自負がありました。そんな偉そうな恥ずかしい私が、なのにイエス様に救われたという自覚に、パウロは目覚めるのです。主が、パウロ、そんなにも自分が正しいあなただからこそ、わたしはあなたを十字架で背負いきる。あなたを救う。だからあなたは救われる。この神様による救いの確かさを、恵みによって救われる福音を、だから、あなたは皆に十分に語れるだろう、しかも偉そうに語るのでなく、こんなつまらない者が救われるのですからと、低い者、仕える者として、皆に語ることができるでしょうと、主はパウロを選ばれた。それがパウロの自覚です。私私っていう自負が、神様の前での私という自覚に変わる。偉そうな自負が、嬉しそうな自覚に変わる。

そう、このパウロの自覚って、自分の小ささが恥ずかしいんじゃなくて、嬉しそうなんです。こんな小さい私がって、何度も何度も、救いの原点に立ち返っているように思います。しかもそこで古い自分に引きずられるのではなく、そこで新しい自分に変えられていく。自分はつまらない者だという自覚が、変な言い方ですが、確かにされて、そのことが嬉しくなってくる。本当に何という驚きの恵みかと、自分の罪深さや、小ささを知るにつれ、それを飲み込んで余りあるキリストの計り知れない恵みの大きさ、富の豊かさに嬉しくなる。自分じゃなく、キリストを意識しているからです。そのキリスト意識、あるいは恵み意識の中に飲み込まれて今ある自分を意識するのが、それが信仰の自覚です。自分に目が覚める。あ、これが私かと。自覚って、もっと自覚を持ちなさいとか言いますけど、改めて考えてみて思いました。それって無理じゃないかと。あんた救われなさいと言うようなもんで、その行き着く先は自分を誇ることでしょう。自分で自覚していると思っているその自覚って、人前では誇れても、神様の前では恥ずかしいでしょう。先週、覚悟と共に知るのが召命だということを説教で語りました。それも自分勝手に、自主的に持てるものではありません。自分には覚悟があると自負しておって見事に砕けたのはペトロでしたが、パウロもそういう体験を繰り返して、自分は本当に小さい者だ、つまらない者だと、そこでキリストを深く知り、嬉しさが深まっていったのだと思います。皆そうでしょう。

覚悟って、例えば時代劇の仇討ちの場面で、さあ、覚悟しろとか言われて、はいってできるものでもないでしょう。できたとして、自主的にではなく、もうせざるをえん。言わば強制的、強いられてするのが覚悟です。しかも、その覚悟を、あるいは神様の召しに応答して、はいって覚悟して神様の道に従っていくのは、だからこれはもう神様の力によるしかない。それをパウロはこう語ります。「神は、その力を働かせて私に恵みを賜り、この福音に仕える者として下さいました。」人間が自分の力を働かせて、覚悟して、神様、やりますってのではない。おそらく、そうやってやるときに人を傷つけ、つまずかせやすいのだと思います。じゃあ、何と言いますか、我が強い人は神様に召されないのか。だからパウロなんでしょう。パウロほど我が強い人もおらん。その強い人間が神様によって弱くされ、それで用いられるのです。弱い人は幸いです。そのまんま用いられます。いや~でも私は覚悟ができなくてって、そもそも神様にお従いする覚悟って、人間業ではありませんから、心配する必要もないのです。畏れはあります。あったほうがよいです。主を畏れることは知恵の初めですから。と言うより、それが覚悟の初めだと思います。うわ、これ神様やという畏れ。人間の力や計画は、その前で全く無力であるという、ある意味の絶望、人間的可能性の滅び。そこで立ち上がるのが、信仰です。その信仰が神様の力であり、それが神様の働きなのです。でも、そこでは私たちが、はいと言います。神様が言われるのでない。そこは間違ってはなりません。神様の力によって、神様の前で、私たちが、はいと言う。はいと言うとき、畏れもある。人間に言うのとは違います。神様の前で神様の力によってなされる、私たちの返事は、それが神様由来の覚悟であるから、いい加減な、はいではなくて、信仰の、はいになるのです。あるいは畏れと言うよりも、神様に真剣になると言ったほうが、その場合わかりやすいのかもしれません。

それが信仰であるのだとわきまえるなら、その信仰の、はいの故に、苦しみに遭うことがあっても、そこに神様由来の覚悟が働きます。祈りが変わってくるとも言えます。これが私の担う十字架であるなら、なら神様、ここには恵みがありますよね。しかも、これによって他の人々が救われていくという、あなたの救いのご計画の恵みが、ここで担われていくのですよね。こんなつまらない私ですけど、あなたが用いてくださっていることを、私は、あなたの恵みを信じて信じます。あなたの御心がなりますようにと、信じて、恵みの十字架を負えるのです。

自分を負わない。だからもう自負ではない。自負なんかで自分は負えません。福音も負えません。他人を負うこともできんでしょう。愛する人さえ負えん。でもそんな私が、神様の背中に負われたのです。救い主キリストに担われて、神様の救いの確かさに負いきって頂いた。そんな私であればこそ、負われた私であればこそ、恵みの十字架をさえ与えられ、教会に召されているのです。キリストの体に召されたのです。

聖餐式の最後、感謝の祈りで「私たち、主の体の枝である自覚がいよいよ深くなり、ますます励んで主に仕えることができますように」と祈ります。そこでもまた、小さい者、負われている者として祈るのです。あるいは自分の小ささを自覚するために祈るとも言えます。神様の前に出るのです。神様の前じゃなかったら忘れるのです。私はつまらない者だということを。小さい、いや小さくてよいという自覚から離れてしまって、つい頑張って、自覚しなきゃ、私は主の体の枝である自覚が薄いから、もっと頑張って自覚をしなきゃと、自分で自分を負う衝動、肉の誘惑に駆られてしまう。でも、それも私たちの小ささの証拠ですから、それを見せて下さった聖霊様に感謝して、それも委ねたら良いのです。自覚しようと頑張るのでなく、自覚をさせて下さいと祈るのです。最初から、そういう祈りです。自分の決意や決断ではありません。神様が、私たちを負いきって、そのお背中で私たちを用いて、救いの計画を成し遂げるという、神様の救いの決意です。そのご決意に従って、私たちはもう召されているから、私たちは、そういう私たちであるという自覚を深めて下さいと祈るのです。神様は、そうして世界を負われるのです。