12/10/14朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙3章10-13節、イザヤ書51章4-8節 「永遠に触れるところ」

12/10/14朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙3章10-13節、イザヤ書51章4-8節

「永遠に触れるところ」

 

人は自分が愛していることのためなら、たとえ犠牲を払っても、それを犠牲だとは思わんものです。価値のわからん人からしたら、ええ?という高いお金を払ってでも、全然惜しくはないと思います。愛する人のためになら尚更です。化粧水を買うお金さえ全部我が子につぎ込んでいる母親もいると聞きます。そして喜んでいるのです。その喜びは確かに愛のしるしだと思います。

そのように教会の使徒パウロも、あなたがたのために受けているこの苦難は、苦難じゃないと言うのです。だから落胆しないでくださいと。パウロは当時、当代きっての異邦人伝道者でしたから、そのパウロが、ローマに囚人として捕えられているというのは、ある人々にとっては、あんなに信仰熱心で、教会を建てて、お弟子さん達もようけおられる、あのパウロ先生をどうして神様は苦しめられて、早く救いだして下さらんのか。もしかしてこの信仰自体が、全部間違っているのではないか。いやいや、そんなことはないと思うけど、じゃあどうしてパウロ先生が苦難を受け続けて、それで周りの教会にも影響が出て、どうしてって、落胆する人、信仰が意気消沈する人々が多かったのでしょう。そうした信仰の言わば勘違いと言いますか、信じておったら苦難がないとかではないのだと、むしろ、教会の働きのため、つまり人々の救いのために受ける苦難を、パウロは愛のしるしと見て、しかも神様の愛のしるしと見ればこそ、この苦難は栄光ですよと言うのです。まるでイエス様のようなことを言うのです。そしておそらくパウロもきっと、そのことを意識して、いや、信じて言ったに違いないのです。そうだ、このようにして教会が負う苦しみは、キリストの苦しみであるのだから、今かぶらされているこの茨の冠は、栄光の冠であるのだと。

このときのパウロの心境を想像します。イエス様の十字架の苦しみを考えておったのだと思います。いつも考えておったに違いないのですけど、苦しみの中にいたこのときは、殊更にキリストの苦しみが身に迫ってきたのだと思います。その苦しみを自分のこととして思ったに違いないのです。皆さんも体験があるのではないかと思います。苦しみの中でキリストの十字架に一層近く寄り添うような、むしろキリストの十字架が迫ってくるような、キリストの愛を知るときがある。苦しみの中で、キリストが近くなるのです。そしてキリストの苦しみを知るにつれ、全くそれ以外によってではなく、ただキリストを知る啓示に背負われて、自分の負っているこの苦難は、神様の永遠の救いのご計画の中で、重要な意味を持つ栄光の苦しみであるのだとパウロは知る。言い換えれば、今の苦しみを神様の愛の苦しみとして知った。この手紙の前に書かれたコロサイの信徒への手紙では、これはキリストの苦しみを満たす苦しみだとさえ言います。教会のために受けているこの苦しみは、キリストの苦しみだと言うのです。

パウロは回心以前は、むしろ教会を苦しめていました。迫害していました。そのパウロがキリストに出会ったのは、彼の苦しみの中でです。目が見えなくなりました。天からの光によってです。そしてキリストの声を聞きました。何故あなたはわたしを迫害するのか、どうしてわたしを苦しめるのかと。パウロが苦しめておったのは教会なのに、キリストは、それはわたしを苦しめているのだと言われた。それはパウロにとって生涯忘れることのできない、最初の教会体験だったのだと思います。キリストは、教会はわたしだ、わたし自身だと言われた。教会を苦しめるのはキリストを苦しめるのであり、教会を愛さないのはキリストを愛さないことなのだと。私たちが自分の目で自分の思いで教会をどう見ているかでなく、キリストが教会をどう見ておられるか。それが全てであることを、打たれるようにして知らされました。パウロはその時受けた衝撃を、生涯忘れなかったに違いありません。

私もパウロとは違いますが、これが教会かと知った経験があります。神様への畏れを伴って、今まで私は教会を何だと思っておったのかと、目が覚めるような教会体験でした。それまでも礼拝は欠かさず出席していましたし、留学中でしたので、同じ留学生に伝道しようと、留学生のための聖書を学ぶ会を仲間と始めました。が、誰も来ない。祈りましたが、まだ来ない。それで、そうだ、教会で祈ってもらおうと、牧師に伝えたら、礼拝の後で、皆に訴えてくれと言うので訴えました。教会全体で祈ってもらいました。そしたら来たのです。続けて教会で祈ってもらいました。もう20年前のことなので時期が定かではないのですが、そこからイエス様を信じて洗礼を受ける者たちが起こされ始めました。目に見えて何かが変わってきました。私は神様への畏れを覚えました。教会全体で祈ってもらったら、こんなに違うとは、何だ、教会という存在はと、教会を意識せざるをえませんでした。個人の信仰とか救いとか救われた信仰者の集いとか、そういう人間のレベルではなくて、何だ、この教会という存在は!と。無論それまでも教会に行っていました。かなり真面目に行っていました。でも教会を知りませんでした。行くものだと思っていました。そして伝道はキリスト者一人一人がするものであり、祈りも一人一人がするのだと。だから伝道し、祈り、大学の寮で志を同じくする者と一緒に祈り伝道をしていました。そして日曜日には教会に行きました。それで満足でした。そのお一人様の満足を包み覆うようにして、教会が私の上から迫ってきました。言い方は何ですが、教会をなめたらいかんと畏れを覚えたのです。なめているつもりはありませんでした。でも神様が教会を、どのような存在として建てられて、どのように教会を見ておられるか。神様が教会を重んじられるようには重んじていませんでした。パウロが教会を知ったとき、彼は目が見えなくなったそのただ中で、自分が、しかも神様に関して信仰に関して、見えている見えていると思っていたことは、一体何だったのか、私は何も見えてなかったじゃないかと思い知らされたように、私も教会を、まったく自分勝手にしか見てなかったと思い知らされました。畏れを覚えました。私は教会に行くのではない。私はこの教会の一員として、この教会から遣わされて、教会の伝道を、教会の祈りを、教会の働きをしなければならない。神様の救いのご計画は、教会にあると、思い知らされる体験をしました。そのご計画の中にあって、私の救いもあったのです。キリストは教会を建てられるために、十字架に架かって下さったのです。

無論色々な救われ方がありますが、神様のご計画の中心はブレません。永遠に変わらない神様の救いのご計画があるのです。それが10節以下で語られている主の御言葉です。「こうして、色々の働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神が私たちの主イエス・キリストによって実現された永遠の計画に沿うものです。」

教会によって!それがパウロに与えられた神様からの啓示でした。目が開かれて知ったのです。もう以前と同じようには見えんのです。何だ、この教会という存在は。そうだ、これが神様の救いのご計画の、しかも永遠のご計画の中心にあるキリストによる救いであると。キリストは、今や教会によって、救いのご計画を実現しておられる。それが教会であるのだと目が開かれて知ったのです。天上の支配や権威に知らされるようになっただけではなく、パウロも思い知らされたのです。教会によってであったかと。これが神様の救いの奥義、秘められた奥義であったのかと。その神様に定められた奥義なる教会の現実を、教会はキリストの体であると、パウロは確信を持って言ったのです。12節で語られている「私たちはキリストに結ばれており」というのは、キリストの体に属しキリストの身体の肢として、キリストの内に取りこまれ組み込まれてという意味です。ただこのキリストの内にあるという事実において、ただその事実によってのみ、そんなにも私たちをしっかりと御自身と結びつけられたキリストに対する信仰によって、教会は確信をもって、これがあなたの御心ですと、大胆に祈り伝道できるのです。

苦難のただ中にあってです。苦難のただ中でも確信できる。何をか。私たちの伝道計画への確信、ではありません。そんな確信はいつもありません。そんな知恵なき不甲斐なき私たち教会であるにもかかわらず、なのにキリストが教会によって、永遠の救いのご計画を実現されることへの確信です。こんな私たちをも救われた、教会の主であるキリストこそが、どんな弱さや罪さえも受け止め、すべての壁を乗り越えて、世界を救われる主であることが、教会によって知らされることを、信じているから伝道するのです。弱さを誇りさえするのです。無論、開き直りではありません。神様を畏れる畏れによって開かれた、神様への確信があればこそ、弱さを誇るなどという、愚かな神様の知恵を誇れるのです。弱さのただ中、苦難のただ中で、人間的な思いによってはもう破綻していると思われるただ中で、しかし私たちを既に救われたキリストは生きておられると、キリストは私たちの主であると、教会によって、世界に知らされて行く栄光の十字架の道こそが、教会の栄光であると知っているから、その神様の知恵を誇るのです。それは人間の知恵からすると、不思議としか言いようがありません。天上の支配者や権威と呼ばれる、神様に逆らう勢力に影響された世界は言うのです。そんな話があるはずないと。キリストは生きておられるなどというのはまやかしに過ぎんと、何度でも十字架にキリストをつけようとする。そのただ中で、キリストを十字架につけられた神様の知恵が、教会によって知らされるのです。人間の知恵に生きる世界はそこで思い知らされてしまうのです。何だ、これはと。その、これはが、キリストによる救いの力、罪を打ち破り、愛により全てが乗り越えられて変えられてしまう、全能の神様の知恵なのです。その知恵が、十字架をその旗印として立てる教会によって知らされて、世界はキリストを知るようになる。それが、教会の確信です。祈りをあきらめないでよい、キリストに対する信仰です。落胆しなくてよいのです。十字架を仰げばよいのです。そこに栄光が輝いています。その栄光に触れられるところが、キリストの教会であるのです。