12/9/30朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙3章1-9節、創世記12章1-3節 「恵みに救われる他なし」

12/9/30朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙3章1-9節、創世記12章1-3節

「恵みに救われる他なし」

 

今この御言葉を読みましたとき、あれ?何か妙な間があいて、しかも文がつながってなかったけんどと思われたかもしれません。聖書の字を目で追わんと聴かれたなら、ありゃ、一行読み飛ばしたがやないかと。この新共同訳の翻訳では、この箇所に…という間があって、すぐ後の文に繋がってないのです。なら、どこに飛んでいって繋がるのかには幾つかの意見があります。私は4章に繋がるのだと思っていますが、どこに飛ぶにせよ、とても興味深い箇所です。どうして飛んだのでしょう。私たちも会話をしていて、ハッと思いついて話を変えるときがあると思います。そのときも、その前に自分が語っていた言葉が引き金となって、あ、と閃くことが多くないでしょうか。ここもそうだったのではないかと思います。しかも手紙の言葉をつらねる途中でグッと来て、その言わば霊的感動を、どうしても聴く人々に伝えたいと敢えて脱線をしたのだと思うのです。

では、何にグッと来たのか。一つ考えられるのは「キリスト・イエスの囚人となっている私パウロは」と言われたところ。実際この時点で、パウロは囚人としてローマに拘束されていました。鎖でローマ兵につながれて、いつも見られている。トイレも一人でできない。外出も無理。自分の好きにできない。実際の囚人でなくとも、私はつながれて自由のない囚人だと思うことはあると思います。ちょっと話を聴いて欲しいと身の不幸とまでは言わずとも、今抱えている苦しみを誰かに聴いてもらいたくなるときは誰にでもあるでしょう。けれどパウロはそういう苦しみを聴いてほしいというのでは、どうもありません。苦しくないはずはないのです。できれば早く解放されたいと願ってもおったようです。何で私が囚われの身にと考えてなかったわけでもありません。いや、まさにその何で囚われの身になったかと考えるところで、この囚人はグッと来るのです。私がキリストの囚人となっているのは、あなたがた異邦人のためだ。あなたがたのためにこそ、私はこのように囚人となっているのだけど、それがあなたのためだから、私はこの囚人の苦しみに意味が見出せる。あなたのためになら私は囚人の身を敢えて引き受けたってかまわない。ここには、私の使命があるのだと、パウロは自分が神様から受けた召命を、ここから語り出すのです。

教会では召命と言います。神様に召されて、命じられる、召されて命を受けると書いて召命です。教会の外では使命と言ったほうが通じ易いかもしれません。これもまた神様の使いとして命じられた働きに徹することを言うのでしょう。そして、召命であろうと使命であろうと、そこには共通する思いがある。その召命が、いかに厳しいものであろうと、それがこの人のためであるならば、苦しくっても意味がある。無駄では決してない。これが私の使命だと、そうした決意、あるいは覚悟が、そこにはあると思うのです。覚悟という字は、目が覚める、そして悟ると書きます。使命も召命も、それ以外によっては自分のものにならんのじゃないでしょうか。召命は、頭でわかるものでなく、覚悟と共に受けるのです。そういう召命であればこそ、召命に死ぬることさえできるのです。死んだってよいと悟るのです。そこに目が覚める。このためになら人生を捧げる価値があると、目が覚めてわかる。心でというより、もっと根源的に、魂でわかる、霊で知るとも言える。それが、パウロがここで言う、聖霊様によって啓示されるという出来事と重なるのです。

無論、何でもハッと感動したら啓示だと言うのではありません。例えば、あ、そうか、ゆとり教育を止めた理由がわかったというのは、啓示ではなく、政治による教育の混乱を悟ったということでして、何でもかんでも、お~神様によって示されたとやっておったら怪しい新興宗教になります。啓示とは、聖書に示された神様の御心あるいは計画と訳された神様のご支配が、自分がそこに巻き込まれるようにしてわかる、ちょっと広く言えば、そういうことです。狭く言えば、旧約聖書はイエス・キリストによる救いを告げているのだとか、聖書全体が神様の御心そのものの語りかけであるとかを、啓示と言います。固い勉強のようですが大事なことです。難しいのは嫌いと敬遠していると、自分が感動して、お~って思ったことを、何でも神様からの啓示だと自分で決め付けて、その感動がわからん教会こそわかってないって教会を離れ、信仰が難破することが少なくないからです。教会が聖書のみを正典としてきたことは、信仰告白する通り、決して揺るがせにできません。何をするにせよ求めるにせよ、聖書から主の御心を尋ねてください。聖霊様によって、主の御心がわかるように、啓示の霊によって目が開かれるよう、祈って聖書に聴いてください。この説教も、ただそのことをしているのです。御言葉を取り次ぐというのは、御心を取り次いでいるのです。そして、この神様の語られているのは、私に語られているのだとわかること、目が開かれて、目が覚めて、私は神様の前に、しかも、こんなに具体的なことについて神様から語りかけられていると悟ること。それが既に1章17節で祈られてきたことでもあるのです。「…」。

ここでパウロが祈って求めておったのも、神様に召されたあなたがた一人一人が、この教会に生きる召命を悟るようにということでしょう。全人生をキリスト者として生きて死ねるように、救われたということはどういうことか、しかもそこで教会に組み入れられて生きるとはどういうことかを、聖霊様による啓示によって、悟り歩んでいけるようにと、パウロは祈り、語ってきた。そして、この神様の召命を語る脱線の終わり3章14節からも祈るのです。キリストの愛を悟って、その愛に立つようにと祈る。祈るしかないでしょう。だって愛しなさいと言われたからって、その人のため死ねますか。目標にはしても、キリストのように、この人を担いで愛に生き、また死のうって口では言えても、いや、口をつぐんでしまう辛い気持ちのほうが多いかもしれない。それでも教会はキリストの体であるのです。キリストがそういう私たちを受け止めて、いや、そういう私たちだからこそ受け止めて、だからわたしと一つになりなさいと、ご自身の確かな愛の内側で、聖霊様のお力によって、愛する僕に変えてくださる。それがキリストの体なる、教会です。キリストの口だけっていうイメージはパウロも考えたことがないと思います。その口は、十字架の苦しみを前に、父よ、苦しいです、逃げたいのですと泣きついた口です。それでいて、でも私の思いではなく御心が成りますようにと祈った口です。そして十字架で敵を赦して祈った口です。彼らの罪を赦してくださいと。教会はそんなキリストの体なのです。だからキリストの体として歩んでいけるようにと祈るのです。祈るしかない。祈ってください。そうして聖霊様によって、啓示が与えられる時、目が覚める。これもまた覚めるしかない。この講壇から律法主義的に命じることは誰も求めてないでしょうし、また命じても目が覚めるどころか愛が冷めるのが人間でしょう。でも信じています。聖霊様が、今、働いておられると。啓示の霊よ、どうか私たちを憐れみたまえ。そう祈りつつ求めつつ、私たちもまた、パウロが見ていたキリストの救いの栄光を、目覚めて仰ぎたいのです。救われて、他に本当に見たいものなんてないのだと思います。パウロは、それを見たから、栄光を見させて頂いたから、言わば、他にやりたいことがないのです。この神様のご計画を悟ってしまったら、そこに私が召されて、召命を与えられ、これがあなたのやることだ、教会に命をかけてくれと召されたら、他にやることなんて本当にないのです。召命に目覚めたら、教会の永遠が見えるのです。

6節で、私たちに何とか見てもらいたいと語られるのは、その永遠の啓示風景です。「…」。異邦人って、要するに、私たちのことでしょう。そして私たちの隣人のことでしょう。神様から遠く離れていた人々が、あるいは私は他の神を拝んでいるからと言っていた人々が、自分の思いなど遥かに超えて、人となられた神様に背負われ、キリストの十字架で背負われ、救われて、一つの神の家族とされる光景。私たちも見たいと願っている、いつも祈りのとき願っている、その光景をパウロは見た。

一緒に、同じ同じと繰り返される言葉は全部、共にという言葉です。私たちが祈っている例えば家族、愛する人々、友人達、隣人達と、共にキリストに結ばれて神の家族となる約束に与かる。父よ、目を開いてください。あきらめてしまいそうなこの心に啓示の光を投げ込んで、信じて祈る者としてください。私たちの愛するこの人と共に、一緒に、同じ救いに与かるために、キリストはもう来てくださったのです。キリストにおいて救われる福音。そこにえこひいきなんてありません。誰であっても、どんな人でも、キリストの体に組み入れられて、一つの神の家族として、恵みによって救われるのです。キリストの計り知れない富と言われる、無尽蔵で汲み尽せない恵みの富が、あなたにも、ほら、この人の前にも、世界中の、すべての人の前にプレゼントとして与えられているじゃないかと。すべての人に、十字架の赦しが与えられている。その福音の光によって、え、私にも?って人々が目を覚まし、キリストの救いに入って来るなら、私はそのためであったなら、あなたがたのための囚人となろう。キリストに結ばれた囚人として、あなたがたに仕えることを主から頂いた使命として生きて死のうと、この苦しみには大いなる報いがあることに改めてグッと来て、パウロは主の召命を語るのです。

そして、この召命に召されているのは、たとえそのために自由が制限されても、それでも、まだ救われていない人々がキリストの救いに共にあずかる、そのために生きよと召されているのは、あなたがたもまた、そうではないかと、パウロは、神様のご計画を描くのです。それが神様の啓示です。教会に託された啓示です。私もあなたも、誰しもが、共に与かっているこの救いの啓示を、これをあなたに見て欲しいと、主は、この御言葉に私たち全体を巻き込んで、神様の啓示の中に巻き込んで、キリストの救いを語るのです。あなたも、この中にいるのだと。ここにあなたを召したのだと、神様からの召命が、一人一人に語られている。それに目覚めるのが教会です。キリストの体である教会は、この神様の救いの御計画に、目覚めて歩み出す体なのです。