12/7/8朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙1章22-23節、詩編127篇 「キリストの体、教会」

12/7/8朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙1章22-23節、詩編127篇

「キリストの体、教会」

 

教会って何ですか?と尋ねられたとき、教会はキリストの体である。パッとこう答えてもらえると嬉しいです。教会は、キリストの体。もう条件反射で。我輩は、猫である。自由は、土佐の山間より。お客様は、ま、これは教会ではやめときましょう(笑)。

教会はキリストの体である。どんなイメージを持たれますでしょう。ちょっと持ちにくいろうと思いますけど、洗礼を受けて、教会員になって、言わばお客さんではなくなって教会生活が身についてくると、あ、私はキリストの体の一部だ、あの人も、キリストの体の一部だ、この人も、この姉妹も、この兄弟もと、感覚でわかるものでもあるでしょう。神の家族という言い方もします。だから兄弟姉妹とも呼ぶのです。血がつながっている、というよりは、血でつながっている。聖餐式を頂くとき、これは私たちのために流された主イエス・キリストの血潮です、と言う。キリストを私の救い主として信じますと洗礼を受けた皆でこれを頂きます。今日、洗礼を受けて、初めて受ける兄弟もいます。え、親子やないがと本人は思うのかもしれませんけど、そうであり且つ、兄弟になる。キリストが、その血を分けてくださって、その血を受けて、僕、神様の子供になったがやと、救いを記念する聖餐式でもあるのです。

キリストの血によってと言われると、聖餐式の意味に馴染みのない方には、いかにも宗教っぽく聞こえるかもしれません。そういうのなしでもっと精神的なもののほうが、受け入れやすいのかも知れません。でもそうなると、キリストは必要なくなるのです。単なる先生や指導者とかになってしまう。そういう人についていく人々が教会であるなら、ま、やめたいときにもやめられますし、楽でしょう。家族とは随分異なります。家族って、やめたいときにやめられませんから。でもだからこそ、神の家族とも呼ばれるのでしょう。精神的とか、そんな軽いつながりではありません。キリストによってつながれて、キリストの体の一部とされて、体ですから、もし切り離そうとするならば血が出ます。それだけ一体にされている。それが体であり、家族でもあります。そうした体、神の家族が、キリストの満ち満ちておられる、教会です。

その体、家族は、キリストの血でつながっています。無論、象徴的な言い方ですから、へえ、じゃあイエス様って血液型O型ながや、ということではありませんが、ま、大らかなところは、もしかするとそうかもしれません。受入れ難いほど大らかです。全人類のために、十字架で血を流し、その罪なき命を犠牲にして、神の子が全人類の身代りの裁きを受けられて死なれた。その象徴が、血ですから、その血を受けるというのは、そのキリストの赦しを受けるということに他なりません。私にはあなたの赦しが必要です、イエス様、私のために人となられた、私の身代りとなるために、イエス・キリストになられた神様、あなたの赦しが必要です、それ故にあなたを受け入れますと、今日も洗礼を受けるのです。罪の赦しが必要ですと、それがわかって、それを求めて、その赦しがキリストによって与えられると、イエス様が赦してくださると、信じたら洗礼を受けられるのです。誰でもです。そして洗礼を受けたら聖餐を受ける。神の家族とされた徴としても受ける。

じゃあ、です。キリストは教会のためだけの救い主でしょうか。神様はご自分の愛、罪の赦しの恵みによる救いを、信じる者しか愛されず、後は好きにせえというのでしょうか。断じて、そうではありません。

だから御言葉には、こうあります。「神様は、全てのものをキリストの足もとに従わせ、キリストを全てのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」全てのものの上にある頭。あるいは全てのための頭、全ての代表としての頭とも訳し得る言葉です。続く23節も含め、全て、全て…と四回も強調されます。人となられた神様は、ご自身がお造りなられ愛された、世界の全てのために人となられて、全てを背負われて血を流されて、全ての人々の代表として、すなわち頭、あるいは主となられて、三位一体の父なる神様に、父よ、わたしがこの者たちの代表として、血を流し、命を注ぎだして、罪の裁きを全うしますから、わたしが全部飲み干しますから、この者たちには、赦しと命をお与えください、わたしがこの者たちの代表、頭です!と、全人類の頭として死なれた。会社でもそうでしょう。政治家は違うことがあるみたいですけど、頭が全部の責任を取るきにと、部下の生活を保障するのが、それが本当は、当然であるのだと、知っている、いや、信じたい。あるいは信じることができないから、自己責任とか、言い訳をするのかもしれませんけど、私たちの頭となられた主イエス・キリストが、あなたの罪をわたしは背負った、あなたの罪は赦されたと言って死なれたのなら、私たちは本当に背負われたのです。その血は確かに流されたのです。そしてその血を受けるのが、キリストを主として、頭として受け入れるという、教会の信仰であるのです。

神様は、そのキリストの足もとに、全てのものを従わせられました。どんな足もとか。その足跡を記すのが福音書です。その足は、小さな、本当に小さな足として、クリスマスの夜、人としてこの世に降られました。まだ立つこともできません。自分で立つことのできん人々の代表、頭でもあるのです。自分の足で立たれて、その足が向いたのは、小さくされた人々のもとです。虐げられ、悲しみを抱え、罪人だ、自己責任だと踏みつけられていた人々に、恵みによる救い、天の父の愛を説かれ、罪を赦して癒されて、ついにはその足でゴルゴタに向かい、全世界、全歴史、全人類の罪の重みを十字架で担われ、根元が直径1㎝長さ25cmほどの釘で、その足は十字架に打ち付けられて、宙にあげられ、文字通り、世界はその足もとに置かれました。その足もとです。全ての罪を負われて流された血潮が落ちてくる、その足もとに、神様は世界の全てを置かれ、このキリストが、あなたの頭、あなたの代表として、あなたの罪を負う主であると宣言し、そして、主とされたのであればこそ、私たちがまた、新しい命、復活の命に生かされるようにと、父はキリストを復活させて、私たちの代表として復活させて、このキリストの復活に、あなたも共に立つのだと、新しく神の子として生き直すことのできる、家族の救いをくださった。神の子イエス・キリストにより、死んで尚、永遠の命に起きて立つ救いを、主によって与えてくださった。

この全世界の主であるキリストを、だから教会は伝えるのです。世界よ、人々よ、愛する者たちよ、あなたのためにキリストは頭となられたと、あなたには救い主が与えられているのだと、それを教会が伝えるために、神様は、全てのものの頭なるキリストを、教会にお与えになられたのです。

そのキリストを教会が、ならどうやって伝えていくかということが、この後、4章に亘って語られていきますが、大切なのはただ一つです。私たちにはキリストが必要である。伝えるためにも、キリストが必要である。そしてそのただ一つの必要を、神様はもう与えてくださっているのです。

その必要は、受けるときにこそ満たされます。その救いの真理が、今一人の主の小羊が洗礼を受けることによって表されます。命は受けるもの。赦しも受けるもの。恵みも、救いも、洗礼も、主の足もとで受けるのです。主が呼んでおられます。わたしのもとに来なさいと。誰でも、ここに来なさいと。私たちは皆、神の家族になれるのです。