12/7/1朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙1章19-21節、ダニエル書7章13-14節 「人を復活させる神様」

12/7/1朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙1章19-21節、ダニエル書7章13-14節

「人を復活させる神様」

 

私たちが、ここで悟るようにと祈られています「絶大な」って言葉、改めて考えてみると、すごい言葉です。大を絶する、こっから先、大が絶しちょって、これ以上の大きさはないっていう大ですから、無限ってことでしょうか。それが私たちの内側に力を働かせておられる、神様の力の大きさだと、悟らせてくださいと祈るのです。

神様の力です。私の努力、私の力、私だってちょっとは…とか考えること自体がおかしいほど、例えばジャンボジェット機が飛ぶために私も頑張ってダイエットしなくちゃ…って、考えんでしょう。セスナ機ならまだしも、ジェットパイロットなら言いますよ。ジェットの力が、どれほど大きなものであるか、悟ってくださいと。

ましてや、神様の力がどれほど絶大で大きいか。世が見積もっている神様の力の相場に、何で信じる者たちが合わせる必要があるでしょう。まさか世に遠慮したのではないでしょうけど、新共同訳はこの御言葉を随分端折って訳しました。直訳はこうです。私たち信じる者たちに突入する神様の力の、神様の全能の威力の働きによって、遥かに超えてゆく大きさの何たるかを、知ることができるように(Repeat)。力の内容を、神学的に知識で知ると言うよりも、その力の、はるかに超えゆく大きさの何たるかを信仰の目で見るとき、世界は違って見えるのです。だから18節にあるように、心でその大きさを知るように!と祈るのです。

その点で私たちの先生はおそらく子供たちです。大人には小さく普通に感動もしないで見えている何かが、幼子たちにはこう見えています。超超超めっちゃ超大きい蟻がおった!大人は、本当~以上。もし台所で列作っちょったらギャーと言いますが、外では普通の蟻に過ぎません。超え行かんのです。パウロには、神様の力は越え行くのです。はるかに超えゆく大きさの何たるかを、私たちにも知って欲しいのです。見て、そして言って欲しいのです。超超超大きいさえも遥かに超えて行く神様の力が、私たちに突入しておられる!と。一般知識の世界では、知識が増えると大人びます。神様を知る成長は逆なのです。神様を深く知れば知るほど、幼子のように、世界が違って見えてくる。世界そのものは、むしろ罪の色が鮮やかに見えてきて、昔より青ざめて見えるでしょう。なのに、その滅び行く世界を救うために、どんなに大きな愛で神様が、御子に世界の罪を担がせて、十字架で世の罪を取り除く生贄として死なせられたか。その大きな愛が見えるのです。私の罪を担がれたキリストの十字架の大きさが見えるのです。神様が見えれば見えるほど、十字架が大きく見えるのです。あなたの見ておられる十字架には、何が担われているのでしょうか。世界が担われている十字架を、歴史が担われている十字架を、アダムの子孫たる全人類が担われている十字架を、神様は御子イエス・キリストに負わせられ、御子を身代りに見捨てたのです。

どうしてパウロは、このところで「私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる」と言うのでしょうか。どうしてそもそも信じたのでしょう。神様の何を信じたと言うのでしょうか。神様が私の罪をキリストに負わせて、罪を赦して下さった、私の罪が赦された、その愛を信じて洗礼を受けて、でも、断じてそれだけで終わりではない。その神様の愛の力の大きさは、今尚、私たち信じる者たちの内に突入し続けている。そしてこんな私たちでありながら、その私たちがキリストの復活による救いの力を、証するほどにさせられて、復活の証人とされるのです。

先々週の21日、教区教会婦人会連合の委員長であった郝道子さんが天に召されました。末期がんの痛みと闘いながら、けれど明るく須崎教会の長老や委員長を務められ、幼子のような信仰の持ち主でした。教区の総会会場で、皆さん、すみません、実は各地の教会婦人会が、皆高齢化ですのでと、献金予算を軒並み下げて報告されるのを聴いていて、何か神様に申し訳ないと、四国は予算アップしますと言うてしまいました、すみません言うて、逆に拍手喝采を浴びていました。大きな神様を見ておった信仰者でした。病身で、高齢で、自分には何にもありませんけどと、大きな神様に信頼して大きく献身しておった郝さんが、教区総会の大役を終えられて、すぐに入院され、家で看取られたいと退院されて、もう、すぐでした。召される前、ご主人にこう言われたそうです。私、今日天国に行くわ。そう言って主の御手の大きさに全てを委ねられた。神様の救いの力、復活の力、恵みの力の大きさを、絶大な大きさを見たならば、人はこんなにも大きく自由に生きられ、また死にさえすることができるのだと、キリストの救いを雄弁に証をされての凱旋でした。

この神様の力が、私たち信じる者たちに突入している、死を打ち破る力の大きさです。何故なら神様はこの力、全く同じ神様の力を、救い主なるキリストに働かせ、死者の中から復活させられた。その復活の力が働く者たちにとって、死の門は既に破られているのです。この絶大なる大きな力に貫かれた者に対して、死の門は最早ガタガタでボロボロの、だだっ開きで、死者が復活させられることに対して、何の力もありません。神様はこの力をキリストに、そしてキリストの勝利を信じる者たちに働かせ、死者の中から復活させられる!それが教会の信仰です。

そして復活だけじゃない。復活させられたキリストは、神の右の座に着くために、造られた全てのものの王として、全被造物を治め裁かれ、すべてがその愛のご支配のもとに置かれるために、王として復活をさせられたのです。世の何人であろうとも、自分とは関わりがないという王でなく、すべての罪を背負われた王として、父が宣言をされたのです。この御子があなたがたの王だ!十字架を背負ったこの王の前に、一切の力は無力である!この世の力も、来るべき世にも、キリストの支配から自由な何かや、何らかの力があるなどという一切の迷信や盲信の類は、全て跡形もなく吹き飛ばされる。見よ、この十字架の御子が、あなたの王だと、ここでも私たちは神様の力の、絶大なる大きさを見るのです。そして見たら、人生が本当に変わるのです。

小っちゃなことですが、私は一度、ヤクザにからまれたことがありまして、心臓はドキドキしましたけれど、だからどうしたと、逆に押し切ったことがありました。その足で、何故か統一協会の人に勧誘されて、ビデオセンターに乗り込んだのですが、逆に伝道をしたこともありました。小心者で神経が細いわりに、そういうことには強いのは、やはり復活の力だと疑いません。胃炎になったりはしますけど、だからどうしたと思うのです。力による脅迫には免疫があるようで、偉い人の名前とか出されても、だからどうしたと思います。21節で言われる支配者の名とか、権威の名とか、唱えられ得るあらゆる名に対し、だからどうしたと思うのですけど、そんな私を説得するなら、でも愛さんがこう言いよったでと、妻の名を出せばたぶん折れます(笑)。ましてキリスト!です。

私たち信じる者が、キリストの名によって祈るとき、悪魔は震え上がるのです。私たちの名前などは無意味です。私たちの力など無力です。人間がどんなに力を振るっても、それで死の門が破壊され吹き飛ぶことはありません。しかし、私たちに与えられている救いの名、キリストの名によって歩むとき、イエス様を信じて、お従いするとき、人を死者から復活させられる、神様の御業がなるのです。もしも信じていなければ虎の威を借る狐であっても、信じる私たちに働く力は、死の城門を勝ち取ります。この世の権力も支配も暴力も、復活を止めることはできません。もし死ぬことがあったとしても、だからどうしたと言えるのです。この絶大な愛の大きさ、キリストの恵みを、教会は信じているのです。