12/7/15朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙2章1-6節、詩編2篇 「恵みで死者は復活する」

12/7/15朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙2章1-6節、詩編2篇

「恵みで死者は復活する」

 

人生は態度によって決定されると言えるでしょうか。態度ってやはり大事です。ただ、その態度もまた、何かによって決定づけられるように思います。例えば少し前の説教でも紹介しました、先日、天に召された教会婦人会連合委員長の郝道子さんは、委員長の大任を引き受けられたとき既に、医者から後一年ほどの命であると告げられていました。余命一年と言われて、人はどう生きるか。またどんな態度で生きるのか。郝さんは、じゃあその一年を主に使い切っていただこうと、全部捧げられました。嫌々ではありません。喜んでそうされていました。それを恵みの態度と呼べます。主のために、また私たちのために、ご自分の命を、恵みによって、自由に、喜んで、自発的に、惜しみなく捧げられた。

恵みの態度。ここで聖書が語る、私たちに向けられている神様の態度です。またそれ故に、私たちがこの恵みに心の目が開かれるとき、私が救われたのは、恵みによるのだ!と、突然、途中の文脈とかぶち切って割り込むようにして、もう叫びたくなるような、そんな態度を、私たちもまた持つことができる。恵みの態度って、自由です。郝さんを見ていてもそう思いましたし、鈴木先生ご夫妻とか、恵みに生きている人って自由だと思わんでしょうか。ま、だからって説教中に突然割り込んで、私が救われたのは恵みによるのです!と叫ばれたら、びっくりしますけど、でも、それぐらい恵みに心の目が開かれて欲しい!心からそう思います。そして、そのためには、私たちの人生が、また存在そのものが、何に決定づけられているか、それを知って欲しいのです。

救われた!というのですから、何かから救われなければならない。それが人間です。何からか。死です。そして死が単なる終わりではなく、死後の裁きがあることを聖書は明確に告げますし、それを今日の御言葉は、神の怒りとも呼びます。罪を犯したら怒られる。当たり前です。

じゃあ罪って何でしょうか。今世間を騒がしている事件のように警察が介入するほどのいじめや、隠蔽や、隠し事、自己保身、責任逃れ、そういうのを見て、罪のイメージを持つのでしょうか。でも、その線引きって、どこで引くのでしょう。冷たい態度がいじめになる線引き、隠し事や自己保身が、こっからは罪になるという線引きは、誰が引くのか。この手紙を書いた使徒パウロは「私たちは皆」と言いますが、その共通の祖先であるアダムとエバの引いた線引きが参考になります。神様は、この木の実だけは食べたらいかん。食べたら死ぬと言われました。エバとアダムは、その線を越えました。どの時点ででしょうか。指でちょんと触った時点でしょうか。ぐいぐいっと試しに引っ張った時か。ついに実がもげた時点か。ドキドキしながら口に持っていった時か。とっくに越えていたのではないでしょうか。神様がなさった線引きを横に置き、自分で線を引いたとき、どんどんその線を自分の欲で広げていった時、神様の言葉に背中を向ける態度を取ったとき、アダムとエバは死んだのです。人は、神様と共に生きることをやめたとき、もう死んでいるじゃないかと聖書は語りかけます。心臓は動いていても、人間関係が死ぬということがあるように、何を言っても相手の心が動かなくなるように、心が通じなくなって、もうこの関係は死んでしまったということが神様との関係において現実であるとき、あなたは死んでいるじゃないかと主は言われます。神様と共に生きることを捨て、自分でこう生きるんだと線を引き、こっから先はいかんけど、こっち側はしてよいことと。でも実はアダムとエバが蛇に唆されてそうしたように、神様の言葉でなく、蛇の言葉を信頼し、そうだ、これっくらいなら良いのだと死の実を口にし、まだ死なないと、また口にしながら罪に生き、神様に死んでいる。だって皆やっているじゃないかと「この世を支配する者」に従って、皆そうやって従って線を引きながら、死に決定づけられて死んで生きている。そして聖書はこう言います。「私たち皆」だと。

こうした罪の線引きは、先に述べた恵みの自由とは何の関係もありません。聖書の語る自由とは恵みの自由であり、与える自由であり、愛する自由です。神様を愛し、喜んで従い、自由にその愛に従って、そうです、その通りです、神は愛ですと言えるが故に、罪にはノーとはっきり言える自由。それが言えないなら、不自由であり、支配されているとさえ言われるのです。それが態度をも決定づけて、人を支配しようと裁いたり、自分を支配しようと完璧主義になったり、それがうまくいかいで不満だったり、逆にうまくいっている我儘・自己中な支配者だったり、でもそれが、死に決定づけられた態度じゃないでしょうか。

その態度と生き方に歩む人格に対して、ここだけじゃなく聖書全体を通して言われます。神様は怒られると。親なら当然です。が、一つ注意しなければならない訳がありまして、それは「生まれながら」という訳です。自然のという言葉なんですが、生まれながらと訳されると、何か自動的にというニュアンスを持ちやすく思います。生まれながらにして神様から腹を立てられているというのでは決してありません。自動的に怒りに値する子ではありません。有無を言わさず、だってそうながよえという断定的で、上から押し付けるような裁きがイメージされるのは、そういう断定をしがちな性質が、むしろ私たち人間にあるからじゃないでしょうか。特にキリスト者は気をつけなければならないようにも思います。3節で「私たちも皆」と使徒パウロが言ったのも、ユダヤ人だろうと異邦人だろうと皆、罪に支配されて死に決定づけられていた、皆そうだと言ったのです。例えば教会で育っても、自分で線を引いて生きたいと欲する肉の力は他の人のと同じです。肉とは霊の言わば反対語で、自分自分で神様を無視したい人間原理、肉の原理と言ってもよいでしょう。生まれながらと訳された言葉の自然という言葉を当てはめるなら、肉の自然な、ありのままの状態は、自分自分が言わば当然だと思えるほどに、自分で線引きをして生きていきたい肉によって生きている。信仰があろうとなかろうと、肉は皆と同じ肉。例えば、優しい言葉を選べる能力を持ちながら、どうしてそうでない言葉を選ぶのでしょう。憐れむ能力を持ちながら、どうしてそうでない態度を取るのでしょう。しかも幼児と違って、わかっていながら大人は違う線を引いて選ぶ。自分への隠蔽、言い訳さえしながら。そこにはでも、当然の報いがあるのです。

パウロは皆に呼びかけるのです。私たちは皆、ありのまま、怒られて当然の者じゃないか。肉に従って肉のまま行動して、自分で線を引いて生きている、そういうありのままの私たちが、どうして神様の怒りのもとにないと言えるだろうか。あなたも心に手を当てるなら、心に当たるところがあるでしょうと語りかけるのがこの御言葉です。

ところで何故怒りなのでしょうか。裁きと言うだけではすまんのでしょうか。裁かれる者が他人ではないからでしょう。他人ならドライに裁けます。あるいは家族をすら裁いてしまうとき、しかも無表情に、そのとき私たちはきっと家族を他人扱いしているのです。線引きして、他人だと。感情のない裁きは恐いです。妻だって、黙っちゅうときのほうが恐いです(笑)。もっとも私はその何倍も黙っちゅうときが多いと思いますが、たぶんそういうケースのほうが、殺人に発展しやすいのじゃないでしょうか。無論、だからって怒り散らすのはよくないです。自制することも愛です。確かに愛です。確かに神様は私たちのありのままの現状に怒っておられながら、どれだけ自制をされているか。もし神様が本当に怒りを全部放出されたら、どうして私たちがまだ生きていられるか。どうして生きているかと言ったら、神様がその聖なる怒りを、十字架に全開で放出なさったからです。私たちの身代りに裁かれる私たちの主として、神様の正義の怒りを全開で受けられる主として、私たちの代表として、キリストが父からの全くの沈黙の怒りの内に、完全に裁かれて、死なれたからです。御子を身代りに死なせられたから、だから、聖書は告げるのです。ありのままで怒りを受けて当然の者を、しかし、憐れみ豊かな神様は、私たちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、…あなたがたの救われたのは恵みによるのです!

「キリストと共に生かし」。それが救いです。キリストと共なる命を造るとも訳し得る言葉です。譬えるなら、神様に背を向けて自分で線引きして死に決定づけられていた私たちをかばってキリストが死なれ、そのキリストの体に、しかし、父が復活のいのちを注ぎ込まれ、新しい復活の体で永遠に生きられる命を造られて、しかもです!そのキリストの体に、私たちを言わば心臓のバイパス手術をするようにキリストに霊的に結びつけられて、三位一体の聖霊様によって事実キリストに結ばれて、キリストと共なる命が造られて、そこに結ばれてしまった。その共なる新しい創造のいのちの結びを、1章23節ではこう言ったのです。教会はキリストの体ですと。

キリストと共なる命に結ばれた教会は、だから生きます。肉体は死んでも永遠に生きます。キリストによってそうだから、もうこのようにさえ言うのです。キリストによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。キリストと共にとは、そういうことです。しかも、キリストに結ばれた者同士も、共にです。これまた、キリストと共に、です。だから、救いと教会はいつもセットです。教会がキリストの体であるから、皆でキリストと共なる命に結ばれているから、私たちは皆で救われていくのです。自分自分をこそ背後に捨てて、皆で、こう告白をしながらです。私たちが救われたのは恵みによるのです!

皆、ありのままでは死んでいます。共に生きないで自分自分…、それでは生きていけません。だからキリストと共にです。だから教会と共にです。わずらわしいと思うのが、ありのままでもあるでしょう。その、ありのままから救われるのです。そして全く新しく創造された、復活のありのままとも呼べる命にキリストと共に生きられる。キリストのありのままとも言えるでしょう。そんな命への招きなのです。主が、わたしに従ってきなさいと招いて下さった共なる命は、そこで態度もまた主に従いながら、恵みの態度に生きられる、キリストと共なる救いなのです。