12/5/6礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書24:44-53、イザヤ書61章1-11節 「喜びを伝える大使たち」

12/5/6礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書24:44-53、イザヤ書61章1-11節

「喜びを伝える大使たち」

 

以前かわら版で紹介したことのある話ですが、ある女性が米国にホームステイしたとき、その家のお母さんが大変な日本びいきで、大歓迎をしてくれた。そして、まあ今の米国らしいと思いましたが腕にタトゥーで漢字二文字、大使と彫ってある。何だろう、日米親善大使でもやってたんだろうかと思っていたら、お母さん、少し自慢げにそのタトゥーを指さし、満面の笑みを浮かべてこう言った。エンジェル。…おばさん、それは天使や。線が1本足らん、と言いたかったのだけれども、それを英語でよう言わんので、こちらも満面の笑みで、イエス、エンジェルと応えたという話が新聞に載っていました。まあでも、エンジェルは神様から遣わされた使いですので、大使でもある。そんなに間違ってはいません。むしろ聖書が語る天使の役職を適切に言い表してもいるのです。

いよいよ今日でルカによる福音書の説き明かしも最後になりますが、ここでイエス様が昇天される前「あなたがたはこれらのことの証人となる」とおっしゃった。その証人としての務め、あるいは役職を、聖書の他のところでは、キリストの大使と言うこともあるのです。教会、そして教会に召された一人一人はキリストの大使としてエンジェルである。私とあなたがエンジェルです。主のエンジェル。いいですね。でも彫らないでくださいね(笑)。

大使というのは、ときに国の全権を背負っての務めを果たすこともある大切な務めです。そんな務めを私は果たしうるだろうかと、逃げ腰になる重たい言葉であるかもしれません。でも、ならばこそ、ここで主がおっしゃった、あなたがたは証人となる、言わば裁判の場で証人喚問がなされるときに、あなたは証言をする人だと言われている。そのことに集中するのが良いと思います。たとえば突然事件に巻き込まれ、証人にさせられるときがある。資格なんていりません。あるとしてただ一つ。その出来事を体験した。それを証言するだけです。偉い人になる必要はありません。むしろ起こった出来事をそのまま正直に伝えるためには、自分を偉く見せようとかせんほうが良いのです。

証人となる、と訳されていますが、直訳は「証人である」です。この後ルカが記した使徒言行録では、聖霊様を受けて力を受けて、主の証人となる、説得力を持った証人となると強調点が変わりますので、そっちでは確かに「なる」なんです。それも大切な強調です。確かに説得力は必要です。でも、ここでは強調点がそこにありません。むしろ、あなたはそのままで、ただイエス様の救いを受けた、体験した、十字架と復活の出来事を自分の救いの出来事として、まるで事件に巻き込まれるようにして、それを受けたでしょう。それだけで良い。それが資格だ。他は何ちゃあいらんから、あなたはもう既に証人だと、そう言うのです。訳が、ちょっと使徒言行録に引きずられたんでしょうけど、ここでは主が別に強調点をお持ちなのです。あなたはわたしの救いの出来事の中に、巻き込まれるようにしてであっても、これを体験したではないか。ならあなたは既に証人であるとイエス様は言われる。

いや、でも私たちは当時の弟子たちのように肉眼では見てないし、と思うかも知れませんが、たぶん人間というものは肉眼で見ても、幻覚を見たとか思うのでしょう。だから主も、弟子たちの心を開かざるをえませんでした。意識と言ったほうが直訳に近いでしょうか。たとえば自分が人からどう見られているだろうかと過剰に意識するのを自意識過剰とか言います。美しい人が近くにいたら意識します。説教を聴きながらも意識がそっちにいって、心ここに在らずということにもなる。強い香水もそうでしょうか。このときの弟子たちは、じゃあどうか。イエス様の御言葉に意識を集中できたかというと、何かズレちょったんでしょう。自分の意識に引きずられ、どうしたら自分は迫害を受けなくてすむろうとか、生活はどうなるろうとか、あるいは自分は嬉しいというそこだけに集中してイエス様のお言葉が聴けないとか。とかく心はズレやすく、そこから言動もズレるのです。イエス様の救いの証言がズレてしまい、別に悔い改めはせんでもかまんとか、めいめいが救われたと自分で解釈しておればよいとか、救いまで自分自分になり易い。

だからイエス様が御言葉を語られるとき、意識が開かれんといかんのです。御言葉そのものに集中して、そこで語られている神様の思いに、バチッと集中するときに、自分の歪んだ考えや生活スタイル、信仰さえもが、御言葉を中心に、方向修正されていく。そうすると、素直な証人になれるのです。自分の弱さを隠そうとか、強いキリスト者として印象付けようとか、自分の信仰が正しい信仰だとか、そういう自意識過剰の証人になる過ちから御言葉によって救われて、聖書を悟らせて頂ける。

聖書で神様が語られているのは、このことです。人を罪から救い出すため神様が与えられた救い主、メシア=キリストが苦しみを受け、復活をする。そう神様がお決めになられた。造り主である神様が、自分自分の人間の罪を自らに負うため人となり、身代りに死んで下さって、主として復活をして下さった以上、私たちたちは今の考え、生活スタイル、神様からズレて生きてきた全ての道を、罪から方向修正して生きるよう神様の救いに招かれている。神様と隣人に対して加害者である罪を悔い改めて、赦されて新しく生きられる道へと、キリストによって召されている。全世界がそのようにして、キリストの救いに招かれている。それが聖書の語っていることであり、神様がお選びくださった救いであり、ズレ易い人間が、なおズレから、罪から、滅びから救われ生きられる道である。あなたがたは、そのキリストの救いの証人であると、主は私たちの意識を、ここに全集中させられるのです。あなたの罪は赦された。わたしによって赦された。そこに集中して生きるあなたの方向転換を、悔い改めて生きられる自由と喜びを、全世界に向かって証言しなさい。あなたにはそれができるじゃないかと。尚、その証言が説得力を持つために、教会に聖霊様を約束すると、弟子たちを祝福されたのです。

私の尊敬する伝道者に、アーサー・ホーランド宣教師がおりますが、この方がイエス様を信じて伝道者になったとき、それまで格闘技を教わっていた師匠から、こう言われたそうです。お前の信仰は自然体だな。アーサー先生は相当型破りな伝道者なのですが、確かに見ていて自然体だなと思います。先生自身、最高の褒め言葉として聴いたと述べていまして、私もかくありたいと青年時代に憧れました。何年もたってから、ある人から、野口先生は自然体で安心すると言われたとき、大変嬉しく思いました。自分から見たら破れだらけで、あるいはそれを隠そうと、等身大の自分以上に大きく、東神大で学んでおきながら背伸びをして、立派な伝道者に見せようと偉そうにしていたり、自分ではこんな罪人が牧師をやっていていいのかと自問自答する日々でありながらも、そんな私を巻き込んで、キリストの救いの中に巻き込んで下さって、自然体に見せてさえ下さっている。そのイエス様の救いに、肩の荷が降りたように思いました。イエス様が、重荷を負うものはわたしのもとに来なさいと招いてくださった。わたしがあなたの罪を負い、わたしが責任を取ってあげるから、あなたはその証人となりなさい。いや、もうそのままで証人だろうと、破れた弱い弟子たちを、そうです、わたしは赦されたのです、イエス様がわたしを愛しておられるのですと、証言する者として下さるのです。主は、そのような私たちを祝福されます。赦された者としての喜びと自由、主のものとされて、主にとらえられ、愛されている喜びを、そのまま生きたら良いのです。それがキリストの大使です。