12/5/13朝礼拝説教@高知東教会 使徒言行録1章1-11節、ダニエル書7章9-14節 「力の洗礼を受けた教会」

12/5/13朝礼拝説教@高知東教会

使徒言行録1章1-11節、ダニエル書7章9-14節

「力の洗礼を受けた教会」

 

あなたがたは、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。聖霊様を受けたらそうなる。ええかえ、そうなるがで、あなたがでと、イエス様は最後にそうおっしゃって天に昇り、神の右の座に着かれました。最後の言葉ですから、まさしく最後に遺された言葉、主の遺言です。それは聴かないきません。私たちのことについて言われたのです。私たちは、主の証人となる。なるぜよと。

言わば、私たちの頭の上には、洗礼を受けたときに、ただ水が注がれただけでなく、聖霊様が注がれたのですが、そのときに目には見えない表札と言いますか、タクシーの天上に乗っているような、表札が置かれた。天使の輪っかのようなもんでしょうか。私たちが誰であるかを言い表すその表札に、こう書いてある。証人。私でしたら、こうです。証人野口幸生。洗礼者ヨハネとか、使徒パウロとか、そういう表札です。皆さんにも乗っています。証人田中二月子とか。実際、青年の献身修養会の夜のプログラムで証をしてもうとき、こう紹介したことがあります。高知東教会で洗礼を受けた姉妹に、神様がどのように姉妹を導かれて、イエス様を救い主として信じ、洗礼を受けるに至ったか、主の愛の証言をしてもらいます。どうぞ前に出て下さい。紹介します。証人田中藍。そのときの藍さんの表情を今でも覚えていますけど、緊張と言うよりは厳かで、まるで天使のように見えました。殉教前のステファノみたいですけど、いやホント、主のエンジェルとしての証人を私は見ました。

人々の前でイエス様の証言をするというのは、実際、緊張する場面も少なくありません。毎年帯屋町でキャロリングをしますけど、牧師でも緊張します。だから聖霊様が必要なのです。三位一体の神様の聖霊様が私たちの内側から響き出るように、あるいはその場所を包み込むようにして神様の力で証させて下さらんかったら、とても無理です。最初から無理な状況で、教会の証は始まったのです。イエス様は弟子たちに言われました。エルサレムを離れず、父の約束、すなわち聖霊様による洗礼を待ちなさい。当時のエルサレムと言ったら、イエス様を十字架につけた律法主義者たちの本拠地であり、まだイエス様のことでピリピリしている言わば危険地帯です。なのに、そこを離れたらいかんと主は言われる。逃げたらいかん、留まれ、聖霊様による力の洗礼を待て、信じろと言われる。弟子たちは緊張したろうと思います。例えば橋本市長らに、君が代を歌っているかどうか口もとをじっと見られている針のむしろのような場所に、しかし留まっていなさいという状況を考えたら、少しは状況が伝わるでしょうか。もう、そこやめて清和に来たら、ではなく、離れたらいかんと。何故か。状況が変わるからです。

イエス様が言われた父の約束という言葉の中には、父のご計画というニュアンスも含まれていると思います。最初から救いの計画にあったのです。イエス様によって罪を赦され救われた弟子たちに、聖霊様が降ることで、教会を生み出す計画がです。聖書学では、イエス様の到来、クリスマスのご降誕から、終末が始まったという言い方をします。降誕を終末の1stステージとすれば、聖霊様の降臨は、終末の2ndステージです。まずイエス様が来られて、罪が赦される。罪人の身代りに神様が人として死んでしまわれ、罪赦された人々の代表として主として先駆け、復活をされて後、昇天される。そこで1stステージが幕を閉じ、教会の誕生、聖霊降臨という2ndステージが始まる。もうそれは既に始まっているのです。そしてまだ終わっていないまま、今の私たちの時代にまで続いています。これが教会の時代です。神様の救いのご計画の中で地の果てにまで福音が行き巡り、数知れぬ罪の抵抗に遭いながらも、多くの人々が救われて、そしてこの2ndステージが終わる時にも、やはり降臨があるのです。イエス様が再び帰って来られる降臨。キリストの再臨をもって教会の時代は終わり、そしてこの世界の時代もまた終わります。キリストの降誕、そして再臨に挟まれて、聖霊降臨、教会の誕生があるというのが、神様の壮大な救いのご計画である。その第二ステージが今始まるというのですから、実際ものすごい状況の変化が起こるのです。だから敵の本拠地ではあるけれど、けれどエルサレムを離れずに圧倒的な状況の変化を待ちなさい。三位一体の神様による救いの第二ステージが今始まると、イエス様は救いのご計画を弟子たちに命じられた。

聖霊降臨については、もう既に旧約聖書、例えばエゼキエル書36章で言われているのですけれど、弟子たちは聖霊様への意識はなかったようです。復活のイエス様が目の前におったら、まあそうだろうとは思いもします。え?私が聖霊様による洗礼を受けて、それで、え?私が何かをするのですか?イエス様こそが、今こそ神の国を来たらせたまいて世界を建て直して下さるのではないのですか、究極の世直しが今こそ始まるのではないですかと、弟子たちは一気に第三ステージに飛ぶのだと思っていました。わかる気はします。そりゃ、それが楽です。わかりやすい例で言えば、スケールはうんと小さくなりますが、もしイエス様が大阪市長の座に着かれたら、口もとを見張るような律法主義政治は終わるでしょう。いや、もっとスケールを小さくして、イエス様が野口家の家長になってくれたら、子育ても夫婦関係も、家の中での嫌な空気とかも…だって、そうでしょう。復活の主が、今、ここに現臨して下さったら!でもそうじゃないと主は言われるのです。神様のご計画は違うのです。すぐ自分中心にすべて考える人の思いとは異なって、エルサレムもまだ見捨てられてはないのです。エルサレムを離れず見捨てるな。父はそこにこそ救いのご計画をお持ちであるから、信じて待てと主は言われる。

イエス様を私たちの主として与えることを定められた天の父が、その権威、御子を十字架に貼り付けてまでも世界を救おうと決められた権威によって、お定めくださった計画がある。それは、あなたが力を受けることだと主は言われるのです。もとの言葉には「しかし」があります。父がその権威によって定めておられる世界の救いのご計画は、しかし、あなたがたが力を受けることである。聖霊様があなたがたに降るとき、あなたがたが力を受けて、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。これが父のお定めになられた救いのご計画だと主は言われる。弟子たちが口をぽかんと開けたまま、え、主よ、え?と見上げておってもです。それもまたわかる気がします。天使につっこまれさえするのです。

でもその弟子たちが、主の証人となりました。父の約束どおりです。生けるキリストの生ける証人として、しかも人の思いを捨てて仕える、神様のご計画に生きるキリスト者として、主の証人となったのです。

それは人間的な力を超えた聖霊様による説得力が、教会に働いているからです。無論、理性や感覚とかも用いられはします。イエス様が人となられたぐらいですから、それらを捨てるというのではない。でも頼るのは神様の力です。言葉での説得を試みるときでも、聖霊様、よろしくお願い致しますと、神様の力に頼るのです。説教はまさしくそうです。もし皆さんが説得力を感じたら、そして主の栄光を讃美するなら、それは神様の力です。私みたいな者さえ用いつつ、あるいは、聖霊様の力に巻き込まれつつ、私自身巻き込まれる証の働きに、人々もがそこに巻き込まれ、神様にアーメンと心が向いて、御言葉に心が動くのです。滅び行く有限の人間に、永遠の思いが宿り輝き、神様は生きておられると、信仰と讃美が生まれる奇跡は、それは聖霊様の力です。

少し前、同窓会に行きましたら、20年ぶりに会う旧友がいて、お互いおやじになったねゃとか話しておりましたら、ふと、野口、おんしゃあ相変わらず人の話を聴いてないねゃと、その場が大笑いになりました。そうよ、まっこと私は人の話を聴かん人間やったと自分でもおかしくなりました。洗礼を受けていつの間にか、まあまあ聴くようになったのです。感謝すらされることもあるので、忘れていましたが、そうでした。余りにも人の話を聴かんので、意識して聴くようにしているだけです。聖霊様のお力がなかったら、ただの器用な罪人で、その通りなのです。誇り得るものなど何一つないのに、なのに神様は私を見つけ、憐れみ、愛を注いで、罪を赦して下さった。そしてその愛の証人となれるよう、キリストの証人となれるよう、聖霊様をくださった。それが教会の立つ理由です。神様が選んでくださった。神様がご計画くださって、御子を降して十字架につけられ、聖霊様を降して私たちに住まわせ、人の思いと罪と死に打ち勝つ信仰の説得力をくださった。その三位一体の神様に感謝して、そうです、あなたが、私たちの主ですと、教会は、ただ神様の力を信じることで、不思議な力を発揮するのです。自分を信じないでむしろ捨てて、それさえ悩み苦労する私たちをもお見捨てにならない、キリストをくださった父の恵みと聖霊様のお力を信じて、ただただ純朴に従っていく。教会はそうやって立ったのです。これからも、そうやって立って行く。恵みの神様に見捨てられないから、私たちも見捨てず、主の恵み深い御業に巻き込まれる中で用いられていく。それが私たち、キリストの証人であるのです。