12/4/29礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書24:36-43、ネヘミヤ記8章9-12節 「この喜びの中にあなたを」

12/4/29礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書24:36-43、ネヘミヤ記8章9-12節

「この喜びの中にあなたを」

 

復活されたイエス様が、もしゃもしゃと焼き魚を食べられるご様子を見て、皆、どんな思いだったろうかと想像します。もし幽霊やったら魚をつかむこともできんろうけど…あ、取った。あ、食べた。全部見られていますから、イエス様も随分食べづらかったがやないろうかと推測しますが、そうではあっても、そうやって皆に取り囲まれて、イエス様がただ魚を食べゆうだけなのに、それを見ながら涙が止まらんかった者もおったに違いない。イエス様ご自身、胸が一杯になられて、噛んだ魚を飲み込めなくて、すごい努力して食べたかもしれない。でもそれが主は嬉しかったに違いないのです。

人を喜ばせるのが好きな方っておられますけど、特にこの時の主は、そうだったろうと思います。弟子たちの中に現れられた様子からして、こう言うと主に何ですが、うちの子供たちがそっと近づいてきて、わ!と驚かして笑っているのを連想します。弟子たちの間でも、既に期待は高まっていたのです。ペトロにも、クレオパ夫妻にも現れて下さった。次は私たちにも現れてくださるのだろうか。いや、やっぱりそんなことはないのではないか。まるですごい信仰体験をされた人の証を聴いて、私にもそんな恵みがあったらいいのに、いや、私にはないだろうなと、もしなかったときのことを先に案じて、予防線を張るようなものでしょうか。人間って、妙に素直じゃないところがあります。子供からして、今日は遊んでくれんがやろう、ねえ、無理やろうと、大人びた尋ね方をするときがあって、素直じゃないなあと思いますけど、それをイエス様に、神様に対する信仰に当てはめて考えると、よくわかるような、また申し訳ない思いにもなるのです。そこを逆にイエス様のほうで幼子のようになって下さり、突然、現れて下さったのじゃないでしょうか。

でなければ、例えば弟子たちの上から何かキラキラ光が降ってきて、わたしは復活であり命である~とか御言葉があって、光の中に主が現れてとかちょっとドラマチックな演出をしたら、おお!主よという感じかもしれませんけど、でも、そういう配慮ではないのです。むしろ、先に言いました私たちの妙な自己防衛、あるいは神様に対する壁を打ち砕くという配慮をこそ、主はお選びくださるのだと思います。神様を神様として信じるためには、人間のまさに人間的な物分りの良さというのか、神様をそのままに信じないで自分なりの理解で済まして、安易な平安で済まそうとする物分り良さは、取り除かれんといかんのです。

先週、東京で幾つかの用事があり、それを済ませて神保町の古本屋に立ち寄りましたら、ずっと捜しておった本がありました。おお!きっと主が買って読めとお与え下さったのだろうと、ま、半ば本気で解釈して購入したのですが、そこに書いてあることが、今日の御言葉にピッタリ合うのです。余談ですが、この本を買ったことにも主は生きておられると感じましたが、むしろその本より先に買おうとして、いや、高いからやめておこうと買わなかった二冊の本が、家に戻ったら既に書棚にありました。おお!主は生きておられると、むしろそっちで感じました。買うなよという恵みもある。アーメンです。で、買いました本は、20世紀最大の神学者と言われるカール・バルトの主著の一冊で、不信仰としての宗教という一節がその中にあります。神学生時代、その一節を授業で読み、これが神学するということ、神様を神様として考えるということかと目から鱗が取れた、優れた神学書です。そこでバルトは、全て宗教は人間が人間のために作ったものであり、そこではキリスト教も自分を例外だとは言えないと先ず言います。え?と思うそのところで続いて、しかし、その罪人の手によるキリスト教を神様は裁きつつ、しかも恵みによって裁きつつ、その只中に現臨されて、ただ恵みによって、そこでキリストの救いを、人となられた神様であられるキリストの救いの現実を、罪人の手によるキリスト教の只中で聖霊様によって示したもう、ということを言うのです。無論、御子がキリストとして来られなかったら始まりもしなかったキリスト教ですが、来たら、じゃあ自動的に人間はキリストの救いを正しく理解して、後世に正しく伝道してきたかというと、もう後世のぐちゃぐちゃぶりは言うまでもなく、最初から弟子たちはキリストを誤解し続け、それにより神様を誤解し続けてきたのです。その弟子たちを赦して、愛して、なお真実なる恵みによって裁きつつ、主が現れてくださることがなかったら、もし復活の主がこのように現臨され続けて下さらんかったら。想像は難しくありません。おそらく復活の主にお会いした弟子たちと、お会いしなかった弟子たちの間の妥協の産物として、妙に大人びて物分りの良いキリスト教、もう一つの不信仰な宗教が作られておったろうと、皆さんもそう思われんでしょうか。

難しい話かもしれませんが、この難しさは私の説明ベタのみが原因ではないとも思います。仮にここにイエス様が現れ説明して下さっても、復活直後の弟子たちのように、嬉しいけど疑ってしまうということは、あるのではないかと思うのです。信じたいけど信じられない。どういうわけだか神様に関して物分りが悪くなってしまう、どうしようもない壁があって、ああ、この神様はわかりにくい。十字架と復活の神様はわかりにくい。神は愛ならわかるけどと。でも、じゃあその愛はどんな愛かと問われたら、自分の作った愛の理解での神は愛だったりする。それが不信仰としての宗教と呼ばれるものでしょう。本物の神様は罪人の手に余るのです。神様を信じたいという思いがあるのに、いざ本当の神様から語りかけられたら、心の壁が固くなる。その壁で自分に平和を保とうと壁で囲み守ってきた自分の秩序平和を保つため、神様の現実に反発する働きが心に起こる。すると神様は難しいという反応が生じて、それが自分の秩序を乱す難しさとされ、神様の現実が跳ね返されてしまうということが起こりうる。

それなのに、キリストを実際に復活させられた神様の現実は跳ね返すのに、幽霊の存在は信じておって、私も何なのかと思いますが、幽霊の現実感にキリストの復活は跳ね返されて、ギャー幽霊だーと弟子たちは恐れ戦いてしまうのです。え、幽霊はノーパス、無条件で信じるが?と幽霊信じてない人は思いますよ。幽霊信じて、しかも本気で恐がる程に本気で信じて、それでどうして主を復活させられた神様は、人間は信じることができんのか。バルトの言うことは、うんとよくわかるのです。まこと人間は自分の作ったあれこれは信じても、神様は自分の手に余ってどうしようもない。それほどに神様は異質であって、異なる存在で、そういう異なる存在を、人間は自分の平和が乱されるからと、排除して平和を保とうとする。いわば差別する。そうして平和を保とうとする。神様をありのまま、そのままに受け入れて、でもその受け入れた真実によって自分の歪みが裁かれ、変えられるなら、変えられないままに幽霊を信じるほうを選ぶくらいに、人間は神様を跳ね返してしまう。

そんな私たちであればこそ、主は、あなたがたに平和があるようにと神様の勝利を携えて、恵みによって来られるのです。こんな私たちであればこそ、神様は人間を、その罪のまま受け入れて、この罪を十字架の身代りの死で赦し、どうにも変わらない壁だらけ、自分自分の人間を、キリストの復活の中に飲み込んで、罪から救おうと決められたのです。それが私たちの身代り、代表、主とされて、人となられた御子イエス・キリストの出生と、十字架と復活の恵み。この神様があなたを変えて、あなたを復活に向けて完全に新しくする、あなたは御子によって新しく生まれ変わると、神様は、ただ恵みによって救おうとされました。

だからここでも弟子たちは、自分自身では、全然正しくありません。幽霊を信じる程には物分りが良くっても、神様に対しては物分りが悪いから、イエス様をくださった神様を信じたいけど、復活も本当は信じたいけど、自分が自分を裏切って、自分で自分の平安を守ろうとする自分信仰が、神様を信じる信仰を裏切り、うろたえ取り乱しているのです。ならばこそその弟子たちにキリストは、私たちの救い主として、主として出会って下さいます。ならば人間は自分を繕い、嘘でも自分で納得しようと、自分を正しくせいでも良いのです。自分は正しくなくて良い。そもそも間違ってばかりの私たちならばこそ、神様はキリストを主としてくださったから、私たちが私たちの主ではなく、そこに救いの条件を求めず、主が私たちの主として正しく生きられて、正しく身代りに死なれたから、そのキリストを父なる神様は復活させられ、罪人をそのままに赦して救う、愛と恵みの正しさによって、神様は、罪人を復活させて救う救いを、イエス・キリストによってご用意なさった。だから私たちは、キリストを主としてくださった神様に、そうです、それが正しいのです、父よ、主キリストを感謝しますと、神様を信じればよいのです。主が来られ、主が死なれ、そして主が復活なさって生きておられる。私の救い主、三位一体の神様は生きておられる。良かった、主は私たちのために生きておられる!その信仰の正しさをこそ、神様は喜び、分かち与えてくださったのです。

あなたがたに平和があるように。疑い惑う、その只中に、キリストが主として来て下さったから、そこには平和が来たのです。永遠に向かって増して行く御国の平和が、神様の平和が、そうやって来た。その平和が、まだよくわからない弟子たちのために、イエス様は、何か食べ物があるかと尋ねられ、焼き魚をもしゃもしゃ食されました。イエス様特有の、魚の食べ方のくせとかもあったかもしれません。頭から全部食べるとか。きれいに骨をのけるとか。案外、魚すごい下手とか。それも含めて弟子たちはイエス様を見て、十字架で罪の赦しの大事業を成し遂げられて、ひょっと袖から釘の跡が見えておったかもしれないその御手で、でも出された魚を美味しそうに食べられる主を見て、この方は、本当に復活されて、でもこんなにも身近になって下さり、生活の只中に来て下さって、主として魚を食べておられる。この方は、私たちの只中で主であられると信じたに違いないのです。その主が言ってくださるのです。そう、わたし、わたしがあなたに平和を与える。その救いに壁はいりません。満ち潮のように満ちてくる、平和の主を信じればよいのです。