12/3/25礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書23:39-43、詩編16篇7-11節 「天国を約束された罪人」

12/3/25礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書23:39-43、詩編16篇7-11節

「天国を約束された罪人」

 

二人の罪人の真ん中で、天の父は、御子を十字架につけられました。そして一人の罪人が救われた。イエス様からはっきり約束して頂いて、ああ、これで死ねると思ったのじゃないでしょうか。かたや、イエス様を挟んで反対側にいる罪人は、それを見て一体どう思ったでしょうか。私も救われたいと思ったでしょうか。それとも、同じ十字架に磔られた死にかけの男に、どうして救ってもらえるかと、やはり悪態をついたでしょうか。メシアなら、自分も俺たちも救えよ、それが救い主メシア、ギリシャ語で、キリストのやるべき仕事だろと醜態をさらしてしまう。

その言葉を読んで、ある人物が死の床で交わした会話を思い出しました。誰の会話であったか、確かヨーロッパあたりの著名な人物だったと思うのですが、捜しても見つからんかったので、うろ覚えで申し訳ないのですが、確かこういう会話でした。彼が死ぬ間際、平然と死を迎えようとしているのを見た友人だったか誰だったかが確かこう問うた。罪を赦されて天国に確かに入れると信じているから平然としているのか。彼は答えて、それが神の仕事だろと言った。実際どんな心持ちで死の床におったかはわからんと思いますが、そういう態度はこの人に特別の態度でしょうか。この会話の主を捜しておったとき見つけた別の格言はこう言います。過ちを犯すのは人の常。それを赦すのが神の常。18世紀英国で流行した言葉、しかも理神論という事務的、官僚的な神を信じる異端信仰の言葉として知られているそうですが、案外、それがキリスト教の教えだと思い違いをされ、しかも安心さえ得るのかも知れません。赦すのが神の当然の仕事だ。私を天に受け入れるべきだ。そうした宗教観の背後には、自分はなすべきこと、生きるという仕事を果たしてきたという自覚があるのかもしれません。私はまあまあやってきた。少なくとも死刑になるようなことはしてない。だから神も、ちゃんとやるべき仕事を果たしてもらいたいと要求する。無論、基準は自分です。神様がどういう基準を持っておられるか、問うまでもない、というよりも思いもしないのが現実でしょうか。そりゃ赦しも必要ではあるだろうけど、それは、神のなすべき仕事だろうと。

神様が私たちの罪を赦される。知識としては正しい知識です。毎週、説教壇から語られている言葉でもあるでしょう。ただ皆さんは、それがどういう態度で語られているかはご存知であると思います。でも、もしこれが、神は私たちの罪を赦される、当然だという態度で語られたら、皆さん来週は礼拝来られないと思います。それこそ当然でしょう。態度が間違っておったなら、すべて間違っているのです。そして神様は態度を見られる。私たちだってそうでしょう。ごめんなさい、は正しい謝罪の言葉ですけど、無論そこで求められるのは態度です。青年時代、二人の小学生の兄弟を友人宅で子守りしたことがあります。随分似ていない兄弟でしたが、二人で私に悪ふざけをして、ん、これは怒らないかんという悪いことをした。両親がキリスト者でしたから、どうして怒られたと思う?これは罪だとわかる?でも赦すきね、ごめんなさいと悔い改めしようねと、真剣な表情で迫りますと、兄は、あ、わかったんだなという表情でごめんなさいと言った。弟も、ごめんなさいと言う。ニヤニヤしながら。同じ言葉です。でも彼は、赦しを受け入れたでしょうか。罪を受け入れなかったら、どうして赦しを受けられるでしょうか。

罪の赦しの問題は、神様と私たちの〈関係〉の問題です。神様と私たちの間に、罪の問題が生じるときには、人は自分のやったことに対して神様から報いを受けなければならない。人は自分のやったことの報いを神様から受ける。生きている間でなければ死んだ後、必ず報いがある。この神様と人間の関係を「神を畏れないのか」という表現で聖書は問うのです。旧新約聖書一貫して、神様を畏れることこそ、人が生きる上で一番の基本にある、主を畏れることは知恵の始めであると言う。神様を神様とする人生態度があるかないか。そこで自分が犯した罪に対して、どういう態度を神様に取るか。それが神様と人との関係です。罪の赦しの問題は、自分の思いだけ考えて、赦すのが神だろうでは済みません。どうしてそういう態度になるのか。それこそが問われるべきなのです。何故、自分自分の態度が罪か。神様を畏れてないからです。

イエス様のすぐ横で十字架についている一人の罪人は畏れていない。自分がいま神様から報いを受けているとは感じてないし、まさかそうだなど思いもしないか、たとえ思っても、認めないのか。もう一人は認めた。これは神様から私への、自分がやったことへの正義の報いだ。神様が正義の報いをされたから、私は十字架にかかっているのだと、報いを受けていると感じている。神様を畏れているのです。どうして、もっと早く畏れなかったかと思っておったかもしれません。知るのが遅かったと思うたでしょうか。それとも知っておったけど、やめんかったのか。けれど私がこれをやったのだから、報いを受けて当然だ。当然の報いを受けているのだと、彼は神様を畏れつつ罪の報いを受け入れることで、罪に報われる神様を受け入れているのです。聖書の語る罪人とは、単に社会的な犯罪者でも、自分は悪いことをしたと自覚している人でもありません。御言葉の告げる罪人とは、神様から罪の報いを受ける人です。この罪人は、だから神様を畏れたときに、私は罪人だと知ったのです。詩編51篇を交読するとき、あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしましたと告白するのも、神様を畏れての告白でなかったら、意味がわからんろうと思うのです。社会は社会のルールによって、それを破った犯罪人を裁きます。けれど社会では見逃されても、世間のルールには引っかからなくても、世界を御言葉によって造られて、人間をご自身の神の形に造られた神様は、すべての人を分け隔てなく、ご自身の完全な正義を基準にして裁かれます。社会では、社会の一員を傷つけたから罪であっても、神様は、あなたはどうしてわたしの愛する者を傷つけたのか。何ということをしてくれたのか。見よ、この者はあなたの罪によって傷つけられ、汚され、痛めつけられたから、だから、あなたは自分の行ったその罪の報いを、あなたの神であるわたしから受けると、人は神様との関係によって裁かれるのです。

イエス様の隣にいる罪人は、その神様の裁きを受けて、彼の神様の前にいて、十字架につけられているのだと知るのです。後、数時間後には膝を折られて間もなく死ぬというところで、この人は神様を畏れます。自分のやったことの報いを受け入れ、そのことで神様を受け入れ、私は私の神様から報いを受けているのだと、罪と直面する十字架で、神様との関係に戻るのです。

もしその裁きの十字架で、同じ十字架にぶら下げられた、キリストを見上げることがなかったら、彼は裁きの神様をだけ知って、嘆き死んだかもしれません。いや、もし彼の隣にキリストが磔にされなかったら、自分の恐ろしい罪をすら、そしてもっと恐ろしい報いすら、知る余地がなかったかもしれません。神を呪って死んだかも知れない。でもその彼のすぐ横で、祈ってくださった方がいた。父よ、彼らを赦して下さい。自分が何をしているのか知らないのです。この人は、私のためにも祈ってくださった。いや、救い主が祈ってくださって、人生が惨めに終わるしかないこんなところにまで来て下さって、終わりを終わりでなくしてくださった。だからイエス様に向かって言うのです。救い主の憐れみに託したのです。イエス様、あなたの御国においでになるときには、私を思い出して下さい。そうです、主よ、あなたは、あなたの御国から来られたのです。こんなところにまで来られたのです。その救いに、あなたの憐れみの中に、どうか私をも覚えてください。あなたの御国、あなたの王座がそこにあり、あなたがそこで王として全てを治めて、生きている者の今も、死者の行く末も、罪を犯して死んだ者さえ、全てを治め、ご支配なさる、その御座にあなたが着かれるときには、救い主として、着かれるときには、私があなたにすがったことを、罪の赦しをあなたに求めて、執り成しを求めて、憐れみを求めて、あなたの御名を呼んだことを、どうか思い出して忘れないでください。わたしはあなたの御名を呼んだのです。イエス様、私を憐れんで、執り成して下さい。

この罪人は、神様に裁かれて死ぬこの時に、自分のやったことの報いを受けて死ぬときに、それでもその罪人のすぐ隣に来て死んで下さったイエス様のお名前を呼んだのです。イエス様、私を執り成して下さいと呼んだのです。主はそれを、これはあなたの信仰だと認めてくださり、あなたにはっきり言っておく。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいると、救いを宣言されたのです。神様が、その王座から惜しみもなく立ち上がり、神様を神様と畏れもしない世の只中で、人としてお生まれになったのは、主がその王座に戻られるとき、罪人をもそこに一緒にいさせるためです。この世では、罪の報いを受けて死んでも、私の罪の永遠の報いと怒りからは救われるために、いや、既に生きているこのときも、神様の怒りから救われて、主に信頼して生きる報いをこそ受けるため、神の子は十字架につけられて死なれたのです。イエス様の御名を呼ぶ者は、神様を畏れて呼ぶ者は、この罪人と同じくらい確かに救われるのです。はっきり言っておく。あなたと共にいるために、わたしはあなたの十字架についたと、その名をインマヌエル、神様は私たちと共におられると呼ばれる、私たちの十字架の救い主イエス・キリストは、はっきり私たちに約束して下さる。あなたは今日わたしと共に神の国にいる。あなたのもとに、わたしの救いがもう来たではないかと、神の国の福音が語られるのです。

だから罪人は救われます。名も残されてない罪人であっても、神様が彼の隣に来て下さって、罪を執り成してくださったのです。自分の行ったことの報いはあっても、しかし、その自分の報いをはるかに上回り、神様が行われた救いの中に、報いは飲み込まれてしまうのです。報いはある。しかしその報いを上回る救いがある。生きている者と死んだ者とを裁かれるキリストが帰って来られるとき、必ずその救いが完成する。その憐れみを知ればこそ、人は神様を畏れ敬って生きられるのです。