12/4/1礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書23:44-56、詩編116篇
「神様が死なれた」
光っていて当たり前の太陽が突然光を失ったら、人は恐れるのではないでしょうか。あるいは見えて当たり前と思っている視力が、突然光を失ったら。以前40度の熱が出て、病院で注射を打ってもらったら、突如吐き気に襲われトイレに行った後、何も見えない。壁を手に伝いながらトイレを出ました。恐怖。不安。熱で苦しいのも忘れていました。
太陽が光を失う。それは旧約聖書ヨエル書で預言された世の終わりのしるしでした。しかもそのときエルサレム神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けた。もしこの説教壇と聖餐卓が一気に真二つに裂けたら、皆さんどう思われるでしょう。先生がすごい罪を…とか(笑)。神殿の中には祭司しか入れませんから、余程の大騒ぎになったのでしょう。不安になる。太陽が光っていることも、神殿で動物を捧げて礼拝するのも、あるいは私たちが突然死ぬことはないと思うくらい当然のことだと、皆安心して思っておったのに、当然は突然失われてしまう。
そしてその後、人に命を与える神様が、命を与えた人間たちから命を取られて十字架の上で死なれました。土の塵から造られた人に息を吹き入れ霊を与えて人を生かされる三位一体の子なる神様が、父よ、わたしの霊を御手に委ねますと叫ばれた後、息を…直訳すると、息を出し切られ、あるいは霊を出し切られて、主イエス・キリストは死なれました。
大声で叫ばれて。大声の遺言です。イースターに向け、信仰の遺言書を残して頂いていますが、先生、私の葬儀ではこれ絶対言って下さいという遺言があれば、大きな太い文字で書いて下さい。そういうことでしょう。絶対にって思いは、大声になる。人々もピラトに大声で言った。十字架にイエスをつけろと。その人々の前で、しかもその時には太陽が失われて不安になっている人々の前で、当然の報いだとは言われませんでした。むしろその人々を前にして、イエス様は父なる神様だけを見て大声でこう叫ばれた。父よ、わたしの霊を御手に委ねます。絶対に父に届けたいと思われたからでしょう。届くのは知っている。でも絶対に聴いてもらわないといけない。これだけは聴いてもらわないといけない。そのためにわたしは死ぬのです。父よ、この霊を、命を、存在そのものを御手に委ねますから、どうか完全に滅び死なせて陰府にまで降らせ、完全な身代りの死として下さい。人々の罪の赦しのための生贄として、わたしを御手に委ねます!これだけは、絶対に聴いてもらわんといかんのです!絶対に聴かれると知っておってもです。
委ねるって、簡単なことではないと思います。皆さん、どうですか。私は遺言書で、私の蔵書の譲り先を毎年考え直します。犠牲を払って買った蔵書ですから、私も全部は読んでませんが、読まない人には絶対にあげたくない(笑)。娘の結婚相手も自分で探すと本気で思っていますから、無論、私の後任の牧師も誰でもかまんとは絶対に思いません。委ねることができるには、二つの条件があると私は思います。一つは委ねる相手への信頼です。もう一つは、私は自分のなすべきことは、全部成し遂げましたという、神様から与えられた命への、忠実さです。
御子が人となられたという奇跡は、クリスマスに完成したのではありません。神様が人として命を受けられたのは、その命を罪なき傷のない犠牲になるため完全に守り抜き、父に従い抜かれた上で、世の罪を全部引き受けて取り除く神の小羊、罪人の生贄として死ぬためです。世界の身代りとなるためです。完全な身代りとなられて生きて死ぬこと。その父から受けた救い主としての使命、私たちのために生きて死ぬ救い主の使命を、イエス様は全部、全うされたから、父よ、わたしは全部やりましたから、後は、この生贄のわたしを、父よ、あなたに委ねます。わたしは生贄として成し遂げました!そう大声で主は叫ばれた。
その上で、主は父に、全てを委ねられました。もし自分は自分のやることをやったというだけなら、あるいはそういう自分自分の態度なら、やっぱり委ねられんでしょう。死に切れないと思います。でも死ねるのです。父は必ず救ってくださると、私の命がけの執り成しを必ず聴いて下さると、そもそも信じておればこそ、死ぬために人としてお生まれにもなれたのでしょう。父ならと信頼すればこそ、わたしが死にますと、すべてを委ねられたのです。これが父の御心であるなら、これでよい、いやこれしかないと自分を委ねる。委ねて父の御心に生きられたから、委ねて父の御心に死なれるのです。
だからでしょう。百人の命を預かり、時には部下に死ぬための命令を下さねばならない百人隊長も、このイエス様の父に対する死に様に神様を讃美すらするのです。兵士にとっての正義とは、王の命令に従うことです。死んでくれと言われたら死ぬのが兵士の正しさです。だからって果たしてできるのでしょうか。命を預かっておったこの人は、その命は決して無駄にしてはならないが、しかし、死ななければならないことがあると、責任をもって知っておったこの人は、イエス様をあるいは観察しておったのかもしれません。この人が本当に神様からの救い主なら、そして王にとっての兵士のように、死ぬことが救い主の成すべき務めなら、どう死ぬのか。神様はまた、その働きに値する者を選ばれたのか。確かに選ばれたと思ったのです。神様の権威を、これほど正しく美しく伝えて、けれど私はどうなってもかまわないと、与えられた使命に従順に従い、従い通して命を成し遂げ、成し遂げましたと叫んで死なれる。死んで、使命を成し遂げたこの方は、正しい!そしてこの方を送られた神様は何と見事な救い主を選ばれたかと讃美が心を動かした。
そして主の亡骸は墓に葬られました。隠れてイエス様を慕っておったアリマタヤのヨセフが、自分のために買っておいた墓にイエス様の亡骸を葬ります。神様のご支配、救いを待ち望む人でしたが、三日目の復活は待ってなかったようで、日曜も迎えに行きません。立派な神の人だったと思ったのでしょうか。でも人だった。死んでしまった。人は死んだら葬るしかない。所詮、人だった。いえ、そうではありません。神様はそこまで人となられたのです。そこまで人となられたから、身代りが成立するのです。神様が私の罪による死を死なれたから、私はその身代りによって生きられるのです。死んだら自分では絶対に生き返ることのできん、人として、神様が死んでしまわれたから、父のご命令によって復活させてもらわないかんほど、徹底的に人となられて完全に死に切られたから、その死の身代りとして人は、罪を担われ、身代りに赦され、神様の犠牲のゆえに救われるのです。もっと大胆に言うなら、主が父にご自分を委ねられたとき、父よ、わたしを幸生の身代りとして完全に滅ぼし陰府に降らせて、完全な死の裁きをもって滅ぼして下さいと、完全な死の成就を願われたのです。だから罪人は救われるのです。地上ではどんな死に方をしたとしても、キリストが完全に陰府にまで降って下さったから、父もまたその裁きを裁き抜かれて、御子を身代りに滅ぼされたから、罪人の死はキリストの死に飲まれ、滅びも裁きも、暗闇も絶望も、キリストが身代りに引き受けられたから、人は死んでも生きられるのです。人の死は神様の死によって、復活に開かれているのです。そこまで主が死んで下さったから、私たちも委ねられます。恐れも不安も神様に委ねて、父よ、キリストのお名前によってお願いしますと信じて委ねられるのです。キリストが、わたしについてきなさいと言われた、その先に復活が待っている救いの道を、自分を委ねて歩めば良い。
主に墓を譲ったヨセフは、再び空になった墓をどうしたでしょうか。ある人はこう考えます。ヨセフは、復活の希望に溢れたこの墓に、自分も死んだら身を横たえることができる。そして主が父に復活をさせて頂いたのと同じ場所で、また同じように、私も復活をさせて頂ける。そう考えただけで、心踊るほどの慰めを得たのではないか。主が見せてくださった復活を、喜び待ち望む者として、死ぬことをさえ楽しみにして、地上での残りの生涯を主に委ね、復活の主と共に歩んだのじゃないか。私もそう思います。私たちもまたそうなのです。神様がここまで死んで下さったから、私たちは自分を主に委ね、キリストの慰めに生きられるのです。