12/3/18礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書23:32-38、詩編22篇7-32節 「主を十字架につけた人」

12/3/18礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書23:32-38、詩編22篇7-32節

「主を十字架につけた人」

 

十字架につけられたイエス様を描いた宗教画を、皆さんはご覧になったことがありますでしょうか。あるいは絵画に頼らずとも、その十字架のイエス様のお顔を想像することは、できるのではないかと思います。私のイメージのイエス様は割りとたくましいガッチリとした体つきで、まあ割りとイケメンのイエス様なのですが、黒髪です。ユダヤ人としてお生まれになられたのですから、イケメンと言っても、金髪ロン毛ではありません。その辺は想像に個人差があってもよいかと思いますが、特に描写して頂きたいのは表情です。しかも十字架のイエス様を取り囲んで無責任に傍観する群集や、ひどく野次っているユダヤの最高責任者の議員たち、またそれこそ、俺はユダヤ教徒じゃないから関係ないという無責任顔で、自分は関係ないと思いながら侮辱するローマの兵士たち、そういう数々の顔、顔、顔に取り囲まれて、そこでイエス様がこう祈られた表情。父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。そのイエス様の表情を、皆さんイエス様のお名前で祈るとき、ぜひ思って頂きたいと思うのです。何故なら今も、イエス様は同じ表情で神の右の座し、私たちを執り成しておられるからです。

私たちが、イエス様のお名前によって、天の父に向かって祈るとき、言わば天の父がその右におられる御子に顔を向け、あなたの名によって祈りゆうがと、あるいは無言の内に眼差しを向ける。するとイエス様が十字架の上と同じ、溢れる憐れみのご表情で、父よと執り成してくださる。仮に私たちが自分勝手でこりゃいかんという祈りをしよったとしても、なら尚のこと、自分が何を求めているか、自分がどんなことをしゆうか知らんのですと、主は執り成してくださる。その主の祈りを、我らの罪をも赦したまえと祈るたび、主は父に、赦してくださいと懇願される。心からです。私たち自身、自分の悔い改めに、何と心がこもってないかと嘆くときも、主は、父よ、この者は自分の罪を知らんからです、だからです、だからわたしが十字架について、その罪を引き受けたのですから、だから、この者のためにわたしを十字架で裁き死なせて、永遠の裁きを済ませられた父よ、この罪を赦して、いのちに至る悔い改めの恵みをこそ、この愛する者に注いで下さい、聖霊様を注いで下さいと、主は今も、父に願い執り成して、生きておられます。

私たちが安心して生きられるのはその故です。天には私たちの救い主が生きておられる。常に全能の父のすぐ右で、父よ、この者はと、執り成してくださっているから、そのイエス様を知っているから、安心して神様の前に進み出て祈れるのです。罪を犯しても祈れます。十字架の愛で今も私を愛して、今も祈って下さっているイエス様、イエス様のお名前によって祈ります。主よ、あなたにおすがりして生きていきます。生き直させて下さい。私の罪を負われた主よ、私をその罪から救い出して下さいと、罪からの救いを信じて生きられる。皆さんが祈られるとき、このイエス様のお顔を思いながら祈って頂きたいと願います。そしたら天の御座がグッと近くなります。イエス様が、来なさいと招かれる場所です。罪故に遠くとも、イエス様の執り成しゆえに、グッと近くなった恵みの御座に、ますます近づいて頂きたいと、キリストに代わってお願いします。まことにキリストが来られたのは、私たちがそうして神様のもとに進み出て、神の民として生きるためです。

ところが私たちにも、ここで主に愛され祈られているように、自分のしていることを、どんな生き方をしているかを、やはり知らないところがある。知っているなら、やっているはずのないことが山ほどあるろうと思うのです。罪そのものや、罪に影響されてやっていること、しかもそれが罪だとは知らずに、知っているならなおのこと、何故知っているのに別の生き方をしてしまっているのかと思うなら、立ち止まらなくてはなりません。そこに十字架が立ったからです。立ち止まって、わたしのもとに来なさいと、主が立ち止まらせてくださった十字架のもとで、イエス様の祈りのもとに立ち止まり、主の愛にひざまずいて、主よ、と祈ることからやり直す。それが教会の歩んできた道でした。

新共同訳では、この祈りが括弧で括られています。3頁前のオリーブ山の祈りでも同じ括弧があって説明しましたが、これは現在見つかっている聖書の手書きコピーで最も古いコピーには抜かっているけど、更に古い他の文書には同じ言葉が記されているのを苦心して表した。言わば学者のこだわりのような表現ですが、逆に言うと、それだけ教会はこの祈りにすがってきたのです。主の弟子として、この祈りがなかったら、弟子の人生を生き損ねてしまう。それほどの祈りだと、自分たちの態度に、刻んできたのだと思います。そうでなかったら簡単に、イエス様の愛をこそ知らない生活態度に戻ってしまう。まるでヤドカリみたいに、ヒュッと自分の殻に戻ってしまう生活態度から、本来自分ではない殻から抜け出すためには、十字架の愛が必要なのです。

今イースターに向けて、洗礼準備会が皆さんに祈られながら行われています。そこで必ず知るべきこと、これがわからんかったら洗礼を受けることができんという質問を必ず問います。あなたにはイエス様が必要ですかという質問です。実は息子ともイースターにではないですが洗礼に向けてゆっくり学びを始めています。お子さんのために祈っておられる方々も、私が問うてもよいのですけど、まずは自分自身に、我が子にイエス様は必要かと問うことは欠かせないと思います。どうしても必要なのか。じゃあ自分はどうして必要か。そこから思い出す洗礼の恵み、キリストの救いの喜びが、きっとあるに違いないのです。皆どうしても赦してもらう必要がある。私にはイエス様の犠牲が必要ですと、自分事として知るときに、罪の殻、死の墓から抜け出す光が差し込んでくる。その光に照らされるところで、イエス様、私にはあなたが必要です、と告白するとき、罪の裁きと死を超えた、復活の救いを得るのです。

その救い。どうしてイエス様の犠牲が必要か。それを知ることがないところでは、どうしても、自分を救えという話になるのです。自分を救え。ローマ兵からすら、俺はお前がメシアとかそんなのどうでもかまんけど、俺には関係ないけれど、自分を救うのが当たり前だろう、力ある王なら自分を救えよ、救い主なら自分を救えよと侮辱される。自分をも救えんのに、どうして他人を救えるか。結局、自分自分になるのです。しかもそこで思われている救いというのは、自分の生活が周りも含めて自分の思い通りになるという事でしょう。私は自分で自分を救う。神もそういう頑張る人を救うのだろうと、人は自分が神様によって救われる必要は思わない。神様に罪を赦され、罪から救い出され、生き方を変えられる必要があるとは思わない。だからそんな私たちを救うために来られたイエス様を殺してしまう。そうやって自分を救おうとするのです。自分は自分で救えると頑張って、何を頑張っているのか知らんのです。自分が何をしているのか知らんのです。隣人を愛することが大切だとは知っていても、支え合って人となるとか知っていても、いざ自分事となったら、自分にもたれようとする隣人の必要が途端に見えんなることもあります。例えば津波後のがれき問題は、他人事にはならんでしょう。自分事にならん限り、やるべきことはわかっています。でも自分事になった途端に自分を救う話になるのです。最近がれき受け入れを宣言した島田市が、苦労して住民に理解を求めて、あわや無知故の自己保身から脱し得たのは見事の一言に尽きると思います。自分の生活を思うとき、恥じる思いすらあるのです。無知から住民運動をしてきた方々も、また見事だと思います。自分を変えたからです。自分の無知を認め、がれきを引き受けることを決断した人々に、心から尊敬を抱きます。ヤドカリの殻から抜けたのです。これは無知故に入っておった殻に過ぎないと、新しい自分を見つける冒険の旅に出た。殻から抜けられなくなるほどに自分を愛し、自分を救うのが当たり前の世界は、本当は当たり前ではないのだと、そこからも知ることができると思います。そんな殻、本来の自分ではないのです。罪が私たちから、自分を失わせてしまうのです。

イエス様は弟子たちにこう言っておられました。自分の命を救いたいと思う者は、それを失う。しかしわたしのために命を失う者は、それを救う。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり失ったりしては、何の得があろうか。9章で語られた御言葉です。主は言われます。自分の命を救おうと思う者は、命を失う。

ローマ兵は間違っていました。議員たちも間違っていました。黙って傍観しておった民らも全く知りませんでした。神様が、人となられて、主として来られたのは、自分を救うためではありませんでした。人となられた神様は、王だから自分を救わんのです。私たちが自分ばかり救って、罪と裁きから救われんから、だから、その私たちの罪を背負って、裁きをも引き受けて死なれるために、主がご自分を犠牲にされて、わたしがあなたを引き受ける、父はこの犠牲ゆえ、あなたの罪を赦される、わたしは主、あなたの神だと、主は十字架を、栄光の王座とされたのです。張り付けられ、侮辱され、理解されない裸の王が、この王が私たちの罪を担いきられて救われます。それが神様の選ばれた救いです。これが私たちのために選ばれた救い主、メシア、キリストです。我が身ではなく他人を救うことを選ばれたから、十字架を必要としないと豪語する罪人を救うと選ばれたから、罪人は神様によって救われるのです。

またその愛を知るときに私たちは本当の自分を知るのです。自分自分の自分など、古い自分として知るのです。十字架の前に立ち止まって、イエス様、お救いくださいと祈り止まって、キリストの祈りは私のためだと知るときに、新しい自分を知るのです。本当の自分になるのです。その自分は、自分を失ってもよいのです。イエス様が同じように愛されている隣人がイエス様を知るためになら、自分は失ってもよいのです。もう得ていると知るからです。永遠の命を知るからです。皆にも知って欲しいし、私たちもそうやって共に知りたい。ここに命があるのだと、決して失われない永遠の命、赦され、清められ、恵まれた、神の子とされた命があるのだと、ただこの場所で、十字架のもとで知るのです。