12/3/11朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書18章1-8節、詩編22篇2-6節 「御国を来たらせたまえ」

12/3/11朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書18章1-8節、詩編22篇2-6節

「御国を来たらせたまえ」

 

あきらめないこと。あきらめなくてもよいのだという励まし、勇気を私たちに与えるために、イエス様は、絶えず祈れと、命じられました。わたしの名を出して、父の御前に進み出よ。父よ、主が、そうせよと、臆することなく、あきらめることなく、絶えずそうせよ、と命じられ、またそれが、父よ、あなたの御心であると主が励まして下さったので、主の名によって、あなたのもとにまいりました。私たちを、この国を、世界を悪から救い出して下さい。そのためにイエス様を十字架に付けられた父よ、私たちを悪からお救い下さいと、そう絶えず祈れと十字架の主は、励まして下さっているのです。これが運命だとか、私は弱いから無理だとか、結局、世界を支配するのは、偶然か悪魔か力ある者だと、あなたは決してあきらめたらいかん。あきらめて、なすべき務めを放棄せず、あなたはわたしの名によって昼も夜も叫べと言われます。

疑いなく、今日、日本中の教会が叫んでいます。東日本大震災による悲しみに気落ちすることなく、イエス様が絶えず祈れと言われたとおりに、被害者の方々を覚え、日本の行く末を執成し祈っています。また、世界の教会が共に神様の前に出て、祈っているに違いないのです。祈りの結ぶ結実として、また献金も多く捧げられていることかと思います。あるいは献金の話が出るときに気落ちするのかもしれません。そもそも私は絶えず祈ってきたかと罪悪感を覚えるのかも知れません。いつの間に、あの切実な祈りをなくしたのかと。しかしもしそうであればこそ、イエス様は気落ちするべきではないことを教えるために、あきらめてはならないと励ますために、祈りを教えて下さったのです。主の十字架の救いを信じて、世界を救う主の十字架の一端を担う者とすらされた弟子たちに、勇気を奮い立たせておられる。それがこの御言葉です。

そこでイエス様が語られるテーマ、主題は、裁きです。何度も語られます。ともすると、大いに誤解して、そんな裁きの神は真っ平ごめんだと心を閉ざしそうです。一年前も神の裁きというイメージを誤解して、天罰だと、しかめっ面で言った指導者さえいました。神様は、そういう誤解をされやすい。自分が神なら、こいつに天罰を下したいという自分の不満を、神に押し付け、そんな自分に対する神様の聖なる不満などは思いもしない。むしろそうやって自己正当化する不遜な態度を、人間は神様に押し付けて済ますことさえあるのです。

けれど、イエス様がここでおっしゃるイメージは、裁きとは、貧しいやもめを守るものです。守られなければならない弱いやもめを、正しく守ってくれるのが、裁きです。訳し直すと、当たり前の正義がなされること。例えば、私の隣人を私自身のように愛する。誰だって正しいと思う。でもその反対を行って隣人を害する。その悪を裁き、人が人として生きられる愛が基準の、当然の正義を行えば、当然やもめは守られる。当然の正義の執行。それがイエス様のおっしゃる裁きです。

ここは祈りの急所でもあります。私たちに求められている祈りは、なされて当然の神様の正義を、当然の正義をして下さいという祈りだからです。子供が自分の欲しいまま親に駄々をこねるような祈りではありません。だから、その祈り自体も正しいのです。当然の祈りです。じゃあそんな当然の祈りを、どうして叫ばなければならないか。

私たちの住むこの地上は、当然、自分たちも含め、罪だらけ、不正だらけであるからです。やもめを守る愛ではなく、やもめを追いつめる罪がある。自己責任を押し付ける。放射能を持ってくるなと、いじめさえする。自分が守られる正義だけに執着して、まさにその執着において悪が行われ、憐れみが放棄され、罪が支配する力の世界。それが私たちの世界です。主がやがて帰って来られて、地上でなされてきた全ての罪と悪の総決算がなされるまで、悪が止まんのです。やもめは当前の正義を見出せんから、裁判官に訴えるのです。

ところがです。イエス様はその当然の正義をもって報いて下さる天の父を、神をも畏れず人を人とも思わない不正な裁判官に譬えられます。当然の正義を求めているのに、知らんぷりする神のイメージ。罪の餌食になっている私たちを憐れんで、悪から救い出し、あなたの正義の中にお守り下さいと、祈っても祈っても、戸が開かれる気配が一向にない。叩けば開かれるはずなのに、叩けば開かれると主はおっしゃったのに、何も変わらない。聴かれて当然の正義を求めて祈っているのに、何一つ変わっていくように見えない現実、正義が見えない現実にぶつかって、そこであきらめ気落ちして、真剣な祈りをやめてしまう。そんな弟子たちを憐れまれ、主は父の顔に、人を人とも思わない裁判官の仮面をつけて言われるのです。あなたの祈りの中で、あなたが見ている神は、こういう顔をしてないか。正義を求めるあなたの祈りに無視を決め込んだ顔を見るのか。もしそうでも、その不正な顔をした裁判官は、あなたが来ているのは知っている。そしてあなたの訪問の間、あなたが気になって集中できず、また来た、また来た、まっことひっきりなしに来ると気になって、実はその毎回の叫びが気になっていて、ついには、じゃあ正義の裁きを行えば、もう来んなるろう、もう来てはくれるなと、この裁判官は腰を上げる。腰を上げるとイエス様は言われて、まして神はと言われるのです。まして神様は、直訳は、しかし、しかし、父なる神様は、御子をあなたの罪のため十字架につけられた神様は、その罪に換わって正義を求めるあなたの祈りが、胸に響いて仕方ないから、父は祈りを聴いて下さる。正義を求めるあなたの祈りは、必ず聴かれると言われるのです。鉄の仮面を剥がすのは、神様を訪れる鉄面皮、厚かましいほどに神様を訪れて、正義を行って下さいと訴える祈りだと言われるのです。

この正義の祈りは、聖なる不満から生まれるとよく言われます。人が罪を犯すということも、またそれ故に皆死ぬということも、決して相応しくはないのです。そこには神様の不満がある。聖なる不満があるのです。その聖なる不満を主ご自身、激しく顕わにされたことがあります。友人ラザロが死んだとき、その墓の前に立って、涙を流して憤られた。人が死ぬのは本当はおかしい。神の形に生まれてきた人間が、罪に支配されて死ぬということは、しかもそのためにこそキリストが地上に来られて、罪を身代りに背負って死んでくださった。その福音の現実においては、死には聖なる不満が伴うのです。そのキリストの弟子たち、教会もまた、主に倣い、主と同じ聖なる不満に突き動かされ、父よ、我らを試みに遭わせず、罪と死の中に放置せず、悪より救い出したまえと祈るのです。祈り続けよと言われたのです。

だから、私たちは祈るのです。キリストによってもう始まった神様のご支配、神の国の到来を求めるのです。父よ、早く救い出して下さい。この私たちの世界は、いつまで悪から救い出されないのですか。まるで旧約聖書のヨブのように、悪魔のたくらみによって自然が牙を向き、命を飲み込んでしまいました。どうしてですか。心も頭も疲れてしまい、問うことも、やめてしまいたくなるのです。気落ちして祈れなくなるのです。でも父よ、それはイエス様にすがる私たちにとって、イエス様を下さったあなたにすがる私たちにとって、間違っておって正しくないです。どうして祈れなくなるのですか。どうして悪が支配するのですか。世界はキリストを既に頂いたのではなかったのですか。どうして、主は波に、黙れ静まれとお叱り下さらなかったのですか。私たちが主に叫び求めなかったからですか。キリストよ、私たちを憐れみたまえ。父よ、私たちを憐れみたまえ。私たちの罪のため、御子を十字架につけられたあなたが、私たちをご支配なさっているのなら、もし、神がいないからだと拒むのでなければ、父よ、あなたの選ばれた者たちがまるでいないかのように、叫び求めてなかったからですか。主よ、憐れんで下さい。キリストの名によってお救い下さい。あなたの正義のご支配を行って、悪から救い出して下さい。私にも、私たちのこの国にも、あなたご自身がご介入下さり、御国を来たらせて下さいと、そう祈ったらよいと、主は言って下さる。

昼も夜も叫び求めて、目覚めて祈れと言われるのです。もし神様が、眠っているように思えても、なら尚のこと目覚めた者として相応しく、神様に向かって叫ぶのです。聖なる父よ、起きて正義を行って下さい。あなたが下さったキリストの名によって叫びます。あなたは起きざるを得んのです。信仰を見出し得ない地上であればこそ、そこにキリストを下さった愛なる父よ、やがて再び、そのキリストの再来によって、世界を造り変えて下さる聖なる父よ、早く救いを来たらせて下さい。あなたがご介入下さいと、御国を求める者たちが昼夜を問わず叫ぶところに、御国はやってくるのです。罪の支配は負けるのです。神様に祈らざるを得んなるところ、神様のご介入以外にないところで、キリストの救いがなるのです。それこそが、神様の正義、十字架で果たされた正義であると、私たちはキリストが下さったこの当然の正義を、私たちの当然として祈るのです。

今しばし、各自、沈黙のうちに、父に叫びましょう。キリストの名によって、しばらく黙祷を捧げます。その後、私が説教後の祈りを捧げて終わりとします。しばし、主の正義を求めて祈りましょう。