12/1/8礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書22:39-46、詩編142篇1-8節 「祈って立ち上がろう」

12/1/8礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書22:39-46、詩編142篇1-8節

「祈って立ち上がろう」

 

いつもの場所に主は行かれました。それゆえ、そこで主を捕えることすらできたほど、いつもの場所にです。私たちにとってのいつもの場所はどこでしょうか。それが、主に祈る場所であればと心から願います。あの人いっつもトイレにおる、ということもあるかもしれません。祈れるからです。さすがにトイレではひざまずきませんが、祈りの場所としての礼拝堂も、またいつもの場所としてあります。いつもの席に座られる方が、もしそこにおらざったら、あれ?今日はどうされたろうとすぐわかるほど、そこで神様にひざまずく場所。

でもそこで、弟子たちは祈り損ねて寝てしまいさえする。これ、先に言うちょかんと、説教半ばで言うて、あ、私のことをネタにしゆう、と起きて誤解される人がおったらいかんので、先に言うちょきます。説教に御言葉を聴けない悲しみの余り寝てしまうことがないようにと自戒を込めて言うのですが、そこでイエス様は誘惑に陥らぬようと言われる。誘惑って何でしょう。世の楽しみや思い煩い、色々と直面する誘惑がある中で、共通して祈らせんようにするのが、誘惑ではないでしょうか。ある映画は、この場面で、弟子たちに剣を石で磨がせていました。前の38節で手に取った二振りの剣を、石でシャッシャッと磨きゆうところに主が来られて、誘惑に陥らぬよう、祈りなさいと言われる。私たちも、すぐに闘う相手を間違うのです。祈りの格闘ではなくて、人と戦おうとしてしまう。けれど、敵の名は、誘惑だと、イエス様は弟子たちに言われます。剣ではこの敵に勝てんのです。大勢の強者が、この敵の一刀の下になぎ倒されてきました。私は大丈夫、と立ち向かったら、ズバッ。立ち向かったらいけません。この敵に勝つには、ひざまずく。敵に背を向けて、神様にひざまずいて祈るのです。それが誘惑との闘い方だと、主ご自身が、手本を見せてくださっているとも言えるでしょう。唯一の勝ち目は、全能の父の御前にひざまずくこと。父よと、その御心にひれ伏して、ひれ伏せない肉の思い、弱さ、誘惑と闘って、肉の思いはありますけれど、しかし御心がなりますようにと、そこでへりくだり祈って闘う。その私たちの頭越しに、父が誘惑をギロッと睨んでくださって、神様が闘ってくださるのです。

当時のユダヤ人は立って祈るのが普通だったと言われます。いつもの場所で、いつもは立って主も弟子たちと祈っておったのではないかとも言われます。でも、このときはひざまずかれた。あるいは、キリスト者がひざまずいて祈るようになったのは、このイエス様のお姿を、いつも思い起こしていたからかも知れません。当時も、ひざまずいて祈ることはありました。でもそれは余程、苦しいときであったと言われます。このとき主は、静かに膝を折り曲げてひざまずかれたのでしょうか。それとも苦しみの重さに耐えられず、崩れ落ちるようにドスンと膝をつかれたのでしょうか。両手で土をかきむしるようにして、苦しみ叫ぶようにして祈られるのです。

新共同訳では、その苦しみの様が括弧で括られています。現在見つかっている聖書の手書きコピーで最も古いコピーには抜かっているけど、更に古い他の文書には同じ言葉が記されているので、聖書学者が苦心して括弧で表したようです。ただ無論、他の福音書、マルコもマタイも、ルカの記述よりイエス様がもっと苦しまれた様を残しているので、主がこの祈りの格闘で相当に苦しまれたのには違いないのです。

何故、そこまで苦しまれたのでしょう。目前に一刻一刻と迫る死が、それほど恐ろしかったのでしょうか。それなら毒杯を悠々と飲み干したソクラテスの如く、死ぬことなど怖くないとうそぶく多くの者よりも、主はよっぽど意気地がないということでしょうか。でも、死ぬのが怖くないと言えるのは、自分の死後の審判をわきまえておって安心できるのでなかったら、余りに無邪気すぎて煮えたぎった湯に手を突っ込むようなもので、そちらのほうが怖く思います。

あらためて、私たちは死をわきまえているのでしょうか。三位一体の御子なる神様が、その死を身代りに死ぬために人となられて、その死とは何かを、すべてわかっておられたキリストが、その上で、いやその死をわきまえておられるが故にこそ、明日に迫った十字架の死を前にして苦しみ悶えられたのは、その死が心底怖かったからです。その死を避けたいと願われるほどにです。弟子たちに何度も語られた復活の希望が、それ故に私たちが今生きられる復活の希望が、この時の主にはあたかも霞んでしまうほどに、主は、この杯を避けたいと願われた。そこまで、御子は真実に人間になられた、まことの生贄となられたと言えますし、そこまで、この死は、人間が決して悠々と受けられるようなものではないということを雄弁に説教しているとも言えるのです。十字架で死ぬということは、単に直径1㎝を越える鋼の釘を両手と重ねた足に打ち込まれ、ぶら下げられて死ぬだけでなく、弟子たちに逃げられ、人から唾をかけられて罵られ嫌われて死ぬのでもない。十字架で三位一体の永遠の御子が人として死ぬということは、その名をインマヌエル、神様は共におられると呼ばれる方が、この死の間、そのお側から永遠の父も御霊も共におられなくなって、遠く離れられ捨てられ見離されたあげく苦しくて天を仰いだら、父にその扉をバンと閉められて捨てられることです。もし扉越しにでも声を聴けたら、何でもかまんから言ってくれたら、つながりを感じられるであろうのに、父に向かって手を伸ばしたくても、釘付けられた手は伸ばしようがなく、たとえ父に向かって伸ばし得たとしても、その手をよけられるようにして身をよじられて、拒絶される。一切の拒絶。永遠の拒否。造り主を拒絶した人間は、その報いを受けて全存在を拒絶される。それは憎しみでなくて怒りです。人間の怒りもここに尽きるでしょう。あなたにいなくなって欲しいというこの怒りを、しかも死んで受け続けるのが、造り主なる神様を拒んで罪を犯し続けた報いであれば、誰がその怒りの杯を悠々と受けるなどということができるでしょうか。

その苦い怒りの杯を、じゃあどうして御子は、それでも目の前から、はねのけることを拒まれたのか。そしたら、その杯の中身が全部、私たちの口に飛び込んできて、バタバタと全員死ぬからです。世界が始まって以来、どれだけの人間が死んだかわかりませんが、その想像を絶する全ての人間が、神様の前に全員目覚めさせられて、永遠の最後の審判を受けるとき、もしこの杯の中身が残っておったら、その全員の目の前で天の扉がバンと閉められ、全員がバタバタと死なねばならない。そのように人間が死ぬことをこそ、父なる神様は拒否されて、だから、子よ、あなたがこの杯を飲み干してくれるか、と願われた。それが一体何を意味するか、全部わきまえておられた永遠の御子が、ならば、その永遠の苦しみを私が人となって受けましょう、父よ、あなたの御心がなりますようにと、改めて十字架を前にしたこの時も、苦しみ悶えて悶絶しても人間の救いを拒絶せず、人間を救う御心のままに行って下さいと、その名を愛と呼ばれる神様の御心にひざまずかれた。それがキリストの死を前にした祈りです。世界を造られた主の御心は、世界への裁きをも過ぎ越して、御子の生贄の死によって、世の罪が取り除かれて救われることです。その神様の名を呼ぶのです。神は愛なり。

その御心にこそ、ひざまずくから、その名を信じて呼び続けるから、苦しんで祈っても立ち上がれる。この父の御心に膝をかがめて、救い主イエス様の赦しのもとに身を置けるから、ひざまずいた後で、立てるのです。たとえ誘惑に陥ったとしても、何度も何度も倒れても、そこでもひざまずいて祈ればよいのです。そこでなお、十字架で死なれた主の名を呼んで、私たちの罪の赦しを望まれた、父に祈ればよいのです。そこまで、私たちの罪は担われています。そこまでキリストは全存在を死に渡されて、私たちの全存在を負われたのです。私たちの命はキリストの内に、しかも復活のキリストの内にこそあるのです。全ての罪と死を打ち破り、復活のキリストが改めて言われます。あなたの罪は赦された。わたしがあなたと共にいるのだと。

だから倒れても立ち上がれます。また倒れることがないように、誘惑に陥ることがないように、祈って闘うことができるのです。立ち上がられた主の前に、復活の栄光の主の前にひざまずき、祈ってキリストの名によって、立ち上がらせていただけるのです。